第36話 遺物
ちょうど円を半周するような形でチャンは壁際を反時計周りに歩いた。
初めは緑の『塊』にしか見えなかった目の前の物体は、近くで見ると確かに塔のような建物に見えなくもない。緩やかな曲線を持つ壁面はその表面が苔や植物に覆い尽されている。が、所々見えるその色合いは緑に近い黒のようだ。その姿は植物達のやりたい放題を許しているように見えるが、実はその奥ではじっと息を潜めているゲリラ兵を連想させた。
先に進むに連れ草丈は高くなり、やがては手で押しのけて進まなくてはならなかった。
「少年、この塔はどこから入るんだ?」
半周ほどしたところでチャンが塔から離れるような進路をとったのでそう尋ねてみた。
『残念ながら地上からは入れないんです。なので、まずは隣接する地下施設に向かいます』
その言葉通りにチャンはいったん塔を離れるとさらに奥に向かった。
もうこの辺りは日の光が木々に遮られ、うっそうとした森の中といった具合だ。
しばらく草木を掻き分け進んだところで少し開けた場所に出る。
『ほら。そこに穴があるでしょう』
確かに石で囲われた入口らしきものがある。まるで地面が口を開けて森の内部へ誘い込もうとしているように見える。
「しかし良く見つけたな。これだけ周りが緑で埋まっていると普通は見つからないぞ」
『でしょうね。アシム氏の手帳のおかげですよ。それでもこの30年でかなり草が侵食していたせいで随分と手間取りましたが』
入口を入ってすぐに急な石の階段がある。ここも例外なくびっしり苔に覆われている。
『マルチ・スコープを暗視モードに切り替えます。手元のライトでは光が足りませんから』
「ああ。そうだな」
石段の幅は2メートルほど。一段ごとの高低差はさほどではない。が、勾配は60度ぐらいの急な階段になっている。
しばらくしてチャンが急に立ち止まり、壁に目を留める。
『……この壁画。彫ってあるんですが何か変ですよね』
そう言ってチャンは手元の明かりを壁画に寄せた。壁はタイル張りのように同じ大きさの石が隙間無く積まれて作られていた。が、使用されているのは普通の石ではない。苔や土埃で表面はザラついているように見えるが汚れを取り除けば大理石のように滑らかになるのだろう。ただしその色合いは緑が混じった黒で、金属っぽくも見える。
『分かりますか? 絵になっているのが』
そう言ってチャンが示した部分は苔や土が取り払われていて壁に絵が彫られているのが判別できる。
「……目?」
それは奇妙な絵だった。左手に太陽らしきもの、右手にはそれに向かって祈りを捧げる人々の図。だが、その太陽の中になぜか『目』が大きく描かれているのだ。しかも黒目の部分は渦巻状になっている…。
チャンが呟く。
『太陽を信仰の対象にしていたんでしょうね。けど……なんで目なんでしょう?』
「さあな。太陽イコール神、ということなんだろう。だとしたらこの塔みたいな建物は太陽神を祭る為のものかもしれないな」
『それはどうでしょうか。それより先に進みましょう』
チャンの口調は意外に冷めていた。この塔は宗教的なものではないかと単純に思ったのでそうコメントしただけなのだがチャンは違う考えのようだ。
(儀式でなければ何の為にこの塔を作ったんだ?)
その疑問は取り敢えず胸にしまっておく。
階段を降り切ったところで平らな場所に出る。暗視カメラの映像なので全体像は把握し辛いのだが前後左右に通路が伸びているのが分かる。
『こんな感じで内部はいかにも地下基地といった具合です。とりあえずメインの部屋に向かいますね』
真っ直ぐな通路の途中に出入り口のような穴が見受けられる。
「何だかアリの巣みたいだな」
恐らく先に通路を掘ってそこから枝分かれするような形で部屋を作っていったのだろう。そこでチャンが立ち止まり何気なしに選んだ部屋を覗き込んだ。
『中を見ますか?』
「ああ。ちょっと明かりを強くしてくれ」
チャンが足を踏み入れた部屋は原型を留めていなかった。室内に残された遺物はまんべんなく埃に覆われ、そのシルエットを失っている。まるで泥を被ったかのように室内は『五千年分の垢』で均されていた。
『このあたりの部屋は食堂とか休憩室だったんじゃないでしょうか』
もしかしたらここには木のテーブルが設置されていたかもしれない。しかし木は腐り、朽ち果てて積もりに積もった土に還っていったのだろう。
この部屋を調べてみようという気は起こらなかった。それは30年前の探検隊も同じだったようでこの部屋は手付かずの様子だ。
(五千年の歴史……か)
気が遠くなるような月日の積み重ねに思いを馳せる。仮に今チャンが持っている端末をここに置いていったとして、五千年後の人間がそれを手にした時、これが何かを判別するのは困難であることは想像できる。
『次に行きましょう』
そう言ってチャンは先を促した。
チャンの視点で探索は続く。
通路を真っ直ぐに進み、突き当たった所で右折する。すると突然、天井が無くなった。
「……広いな」
そこはとても地下だとは思えないぐらいに広い部屋になっていた。ぽっかり空いた空間を見上げながらチャンが言う。
『僕も驚きましたよ。吹き抜けになっているとはね。おそらく3階分ぐらいに相当するんじゃないですかね』
明かりが不足している為にその高さを実感することは出来なかったが、真っ暗な空間が頭上に存在するのは実に不気味だ。
「少年。この部屋か?」
『はい。驚かないでくださいよ』
そう言ってチャンは手元の明かりを台のような物の上に置いて端末を操作する。そして暗視カメラを勝手に通常モードに切り替えてしまった。
「おい少年。真っ暗だぞ」
何をしているのかと思ったその時だった。
(光!?)
驚いた。ふいに無数の明かりが出現したのだ。その変化を目の当たりにして一瞬、違う場所に移動したのかと思った。
(床が……光っているのか?)
明かりの正体は床が放つ光だった。床全体が光っているというよりもひし形に輝く光が点在している。それらはランダムに配置されているが床面積の半分、いや、三分の一ぐらいを占めている。ひとつひとつの光量は少なめでどちらかかといえば青白い。
「……何をしたんだ? 少年」
『電磁波を当てたんです』
意味が分からず問い返す。
「電磁波だと?」
『発光パネルの一種なんでしょう。だけど、ここのは特定の周波数の電磁波2つを交互に当てることでパネルが発光するんです』
なんという事だ! 我々が普段照明として使っている発光パネルは電圧を加えることで光を出す原理になっている。だが、特定の電磁波を当てるだけで発光するパネルとは…。
「いったいどういう原理なんだ?」
『分かりません。アシム氏の手帳には「結局、その原理を解明するのは断念した」となっていました』
「30年前の先客も驚いただろうな。これを持って帰れば売れるぞ」
『無理ですね。30年前も同じことを考えたようですが、まずこのパネルを剥がすのが難しい。というよりどうやって接着しているのかすら分からないんです』
「そんなバカな……」
呆れるしかなかった。
(五千年前の遺物に現代科学が劣るとでもいうのか?)
淡い光に下から照らされていると何だか深海を漂っているような気分になってくる。浮遊するような感覚。そのせいか足元から生える無数の青白い光は発光するクラゲの群れを連想させた。
『床だけじゃありませんよ。ほら。左手に瘤みたいな塊の一団があるでしょう』
画面左下にチャンの指先が現れた。その先に目を凝らす。
「瘤……確かに岩ではないな」
その一角の幅は3メートルぐらい。人間の背丈ぐらいの高さから膝上ぐらいまでが『すべり台』のようになっていて、その斜面にフットボール半分ほどの瘤が幾つもくっついている。それはまるで雪の斜面に人為的に設けられた瘤のように見えた。色は少し透き通っているようだが…。
『もっと近くに寄ってみましょう』
チャンが一歩一歩前に進む。
「これは……ガラス? いや、水晶か?」
『水晶です』
「こんな大きな水晶が……」
そう言い掛けて息を飲んだ。水晶の中に何かある! というよりもその内部に建物の骨組みのように整然と並んだ異物が目に入ったのだ。
チャンが解説する。
『どうやらこの水晶は幾つかの塊を加工して繋ぎ合わせたもののようです。天然でこんな大きな物はできませんからね』
「中に何か埋まっているようだが……」
『回路、のように見えませんか?』
「……まさに回路そのものじゃないか」
立体的な回路。この遺物を残した連中は基盤ではなく立体的に回路を組んでいたのだろうか? それに細かい部分は判別出来ないが大小様々な部品のようなものが無数に骨組みに組み込まれている。
『これもアシム氏の受け売りですが、中は金で作られた電気回路のようです』
「金。確かに金は電気を通し易いが……」
『金で組まれた電気回路を水晶に埋め込む。さぞかし長持ちすることでしょうね』
「まさかこれも動くのか?」
『いいえ。というよりまるで使用方法が分からなかったそうです。これが何かの機械装置であることは確かなのですが』
これを単なるオブジェと断定するには無理がある。ひとつひとつの半球内部に詰め込まれたこの電気回路らしき物体に宗教的な意味を見出すことの方が不自然だ。
よく見ると半球型水晶の表面には記号のようなものが並んでいる。
「表面には文字のようなものが彫ってあるな」
『ええ。だけどシュメール文字とは少し違うんです。アシム氏の手帳を使えば簡単なシュメール文字は判読出来るんですが、これは解読できません』
水晶のような固い物質に細かい文字や記号を正確に刻むには相当の技術を要するはずだ。しかし考えようによっては極めて長期間、情報を保存するにはこれ以上の方法は無いように思える。ある情報を何千年も保管しようとするなら『紙』では心もとないし、電子化するにしてもそれを読み取る機械を承継していかなければ意味が無い。一見、原始的な方法のように思えるが石に情報を刻むことが最も効果的な記録方法なのだ。
『謎の装置はこれぐらいにして次の部屋に行きます』
チャンはさっさと次の目的地へ向かおうとするが他にも気になる箇所は幾つもある。このデコボコなすべり台の隣、つまり部屋の中央にはゆうに3メートルはあろうかという一枚岩が壁にめり込んでいる。高さといい形状といい多分テーブルとして使われていたのでは思われる。最も壁に向かって宴会をするはずはないので作業台と表現した方が正しいのかもしれない。また右手にはミサイルを縦にして無造作に並べたような一角がある。それにやたらと高い天井にも何かが潜んでいるように思える。壁面ひとつとってもどんな材質で出来ているのか実に興味深い。だが、今、自分が見ている映像はチャンから送られてくるものに過ぎない。そこに自分は居ないのだ。チャンが歩けば景色も変わる。少々名残惜しいような気分でチャンの進行方向に従う。
チャンは再び暗視スコープの映像に切り替えると、来た道を戻る形で今度は分岐点の反対側に向かった。
『ここからまた通路が続きます。左右に幾つか部屋があるんですがどれも中は空っぽです』
「何の部屋なんだろうな。先客は何と言っている?」
『手帳には「多分、図書館か資料室だろう」と書いてありました』
「本の無い図書館、か」
『その代わりに文字や記号が壁にびっしり彫られています』
「そりゃまた随分と無駄なスペースの使い方だな」
『ひとつ見てみましょうか』
チャンは適当な部屋を選んで中に入った。
(これは狭いな)
トイレぐらいの間口に奥行きは2メートルほど。縦長の小部屋といった感じだ。
『ほら。壁にぎっしりと彫られているでしょう』
確かにチャンの言うように壁一面に呪文のような文字が隙間無く彫られている。ひとつひとつの文字はコガネムシぐらいの大きさで、その形はとりとめがなくまるで統制されていない。だが、トイレの落書きにしては熱心すぎる密度だ。恐らく何か意味があるのだろう。
『こういう小部屋が30以上あります。念のために映像で記録して『ジイサン』さんに送っておきました』
「少年。そのミスター・ジイサンというのは止めろよ。聞き苦しいから」
『え?』
「ジイサンだけでいい。ミスターは要らない」
『え? 言ってる意味が分かりません』
「いや。ジイサンというのは日本語で……年寄りを指す敬称だ」
説明するのが面倒だったので適当に答えてしまった。日本語の微妙なニュアンスを外国人に伝えるのは手間がかかるのだ。
チャンは再び進路を奥にとる。
「少年。肝心の塔にはどこから入るんだ?」
『今向かっています。この先、さらに地下に潜る縦穴があるんです』
「どれだけ深いんだ。この地下基地は」
確かに洞窟や地下などで遺跡が発見された例は多い。だが、大昔の人間はそんなに穴倉を好んだのだろうか?
そんな疑問を持ちながらしばらくチャンの足取りに任せる。すると正面に像のようなものがふたつ目に入った。
「少年。それは石像か?」
正面には出入り口がある。その両脇に設置されているのは像のように見えた。
『石、ではないです』
「この形……見覚えがあるな。何かに似ている。ちょっと寄ってくれ」
『はい』
そう言ってチャンは左側の像に接近した。台座に乗った1メートルほどの像は、丁度、チャンの身長ぐらいの高さになる。
「……阿修羅像。いや、こっちが元祖なのか?」
一目見て連想したのがそれだ。日本のそれはスラリとしたスタイルに3つの顔、6本の手を持つのに対してここにあるのは頭こそ3つあるがバランスは良くない。頭でっかちで3頭身ぐらいか。手も申し訳程度についているだけで突起のようにも見える。
『アシューラ像って何ですか?』
寺の名前が思い出せなかったので手元の端末で検索をかける。あった。これだ。
「……興福寺という寺があってな。そこの仏像だ」
『日本では有名なんですか?』
「まあな」
情報を眺めながら「修羅の起源は古代メソポタミア文明の~」のくだりを発見した。なるほど、シュメール文明と関連があると思われるこの場所にこのような像があっても不思議ではない訳だ。
「リアルな造形ではないが……石でないとすれば材質は何だと思う?」
『やはりこの地下施設全般に使用されている黒っぽい材質ですね』
「そもそもそれは何なんだ? 先客は分析していないのか?」
『……断定はしていませんが、セラミックのようなものかと。それも金属とグラフェンを組み合わせているとか』
グラフェンは最高の強度を誇る炭素原子素材だが五千年前にそれが実用化されていたとはとても信じられない。
「ではその阿修羅像の出来損ない……もとい原型みたいなのもバリバリの現役ということか」
『ええ。おそらくは五千年前から変わらずここの門番をしていたのでしょうね』
なるほどチャンが言うようにふたつの像は入口を挟む形で立っている。ということはこの奥が塔に通じる重要な場所ということか…。
徐々に興味が沸いてきた。というよりも正直、はじめは半信半疑だった。だが、次々と突き付けられる事実を前にしては考え方を改めざるを得ない。この先に何があるのか。今はそれを知りたいという衝動が優っている。
「それじゃ先に行ってくれ少年」
入口を入って直ぐに『らせん階段』があった。手すりなどはついていない。まるでDNAのモデルのように足場だけがらせん状に連なる実にシンプルな階段だ。
『ここからは結構、時間がかかります』
「エレベーターは無いのか?」
『怪しい部分はあるんですが残念ながら起動しないんですよ』
「そうか。30年前の先客も自分の足でここを上り下りしたという訳だな」
五千年前に作られた階段を下りるとなると普通は強度に不安があるものだがチャンは平気なようだ。ということはそれだけ材質が安定しているのだろう。
長い階段を下りる間にチャンが塔について分かったことを話し出した。
『アンカーさんに地上で見てもらった部分は全体の四分の一ぐらいです。なので高さは300フィート(約90メートル)近くになります』
「計ってみたのか?」
『ええ。この端末のレーダーで測定しました。中は空洞なんですよ』
「空洞? 空っぽなのか?」
意外だった。さも意味がありそうな佇まいの割には中味が空っぽとは…。
中は空洞と聞いてなぜかパーティで被るトンガリ帽子を連想した。下から見上げた感じでは上の方は尖っているようだったが。
「少年。形はどうなっているんだ?」
『強いて言えばソフトクリームみたいな形ですね。外壁がこの階段みたいにらせん状になっているんです。内部は吹き抜けになっているんですが、壁にくっつく形で『パイプ』みたいな物がらせん状にてっぺんまで続いているようです』
「まさか『飾り』というわけでもないだろう」
『僕はアンテナなのかと思いましたけどね』
「先客の見解を聞こうか」
『残念ながらアシム氏の手帳にはそれらしき記述が無いんです。おそらく探索隊の人たちも戸惑ったんじゃないでしょうか』
「目的はバベルの塔を見つけることじゃなかったのか? なぜこんな塔が建てられたのかを調べなかったとしたら探索隊の意味がないじゃないか」
『確かにそれは……でも彼らは十分すぎるぐらいの成果を得たんじゃないでしょうか』
「ここの技術か?」
『ええ。まだ分析は完了していませんが、さっきの図書館。もしもあそこに記されている情報が今の技術を凌駕するものだったとしたら……』
「つまり奴らはここの技術をパクったということか!」
可能性はゼロではない。いや、むしろそう考える方が妥当だ。30年前にここを訪れた連中はいずれもその後、成功している。カール・パウリは素粒子の研究でノーベル物理学賞を受賞した。ホフマン教授は脳科学の分野で第一人者になり、エメリッヒ・コーツはその技術を応用してトレース社を世界的な企業に成長させた。アル・ハシリドにしたってイスラム経済連合のトップに登り詰めたぐらいの人物だ。何らかの恩恵を受けた可能性が高い。しかし、瀬戸源一郎だけは表舞台に出てこなかった…。
厭なことを思い出してしまった。昨夜読まされた『輪廻』の内容とイタチ男の顔がダブった。
(瀬戸源一郎はここで何を得たんだ?)
流石にこの話は今チャンに伝えるべきものではない。
チャンが最下層に降り立つまでの間、様々な憶測が脳裏をよぎっては消えていった。
『さあ。着きましたよ。ここが塔への入口です』
チャンは前方の入口を見ながらそう言った。
と、その前に左手にも入口が見える。
「左手にも部屋があるようだが?」
『ああ……ここは最後に見せようと思っていたんですが……』
チャンのテンションが下がる。
「どうせ塔の内部は空っぽなんだろう。だったら見ても仕方がない。それにいい加減、目が疲れてきた」
『そうですか。では仕方ないですね』
チャンはあまり気乗りがしないような様子だ。どうしたのだろう?
チャンは渋々といった足どりで左手の入口に向かった。そして室内に入ると先ほどの大部屋の時のように暗視スコープを切り替えて端末を操作した。すると今度は上から光が降り注いでくる。
「ここは上からか……」
目が慣れるのを待って室内の様子に注視する。はじめに目に付いたのは水槽かバスタブか水を貯めておくような形の物体だった。
「あれはバスタブか?」
『いいえ』
と、チャンが首を振る。それに連動して映像も揺れたのでまた目が回りそうになる。
『ちょっと寄ってみますね』
チャンはバスタブのような物に近付くとある箇所に注目した。それは水晶のプレートだった。
「何だそれは? 何か書いてあるのか?」
「ええ」
そう頷いてからチャンは水晶版に刻まれた記号を指差す。
『これをC、こっちをH、それからこれをOと置き換えたら……何になると思います』
「……何だかパズルみたいだな。で、答えは?」
『ブドウ糖です。これはブドウ糖の化学式なんです』
「な……それは……」
『偶然ではないですよ。他にもグルタミン酸とかロイシンとかアミノ酸の化学式がありましたから。それに中には見たこともない化学式がありました。検索してもヒットしないような謎の物質がゴロゴロと』
チャンの口ぶりは驚きを通り越して半ば呆れているような風でさえあった。
(間違いない。やはり五千年前にここで何かをやらかしていた連中はある程度の科学知識どころか今以上の科学力を持っていたのかもしれない)
まるで夢でもみているようだ。これまでの常識が覆される瞬間というものは常に軽い目眩を伴う。絶対だと思い込んでいたロジックが揺らぐ時、人は混乱する。それは脳が葛藤しているのだと思う。自分はオカルトの類は信じない部類だと思い込んでいた。だが、現に今その自覚は脆くも崩れ去ろうとしている…。
『問題は次の部屋です』
チャンがそう言いながら隣の部屋へ移動する。
「問題って何が?」
そう尋ねてもチャンは返答しなかった。どうもさっきからチャンの様子がおかしい。顔は見られないが声の調子や反応が妙に冷めているのだ。
『ここです。もしかしたらここがこの施設の目的なのかもしれません』
チャンが足を踏み入れた途端にこの部屋にも明かりが点いた。
「これは……寝室、という訳では無さそうだな」
部屋の中央にはベッドのような台座が3つ並んでいる。壁際には正体不明の造形が並んでいる。
『手術室だと思われます』
そう言われてみれば手術室に見えなくはない。台座の上の発光パネルは周りよりも強い光を放っているからだ。
「しかし、こんな地下で手術をするものか? 何か他の……」
『もっと恐ろしいことですよ』
チャンに言葉を遮られた。その口調には明らかに怒りが含まれている。彼は吐き捨てるように呟いた。
『脳幹結合……』
チャンが口にした言葉。その意図が掴めずに困惑した。
「それはどういう意味だ?」
『他人同士の脳幹を結合することです。さっき見たアシュラ像のように』
「なっ! なんだと?」
いきなりチャンが突拍子も無いことを口にしたので唖然とした。
「正気か? ……少年」
思わずそんな言葉が口をついた。