第35話 輪廻
結局、イタチ男に貰った本はレストランでは読みきれなかった。止む無くホテルに持ち帰り読み終わったのは深夜2時過ぎだった。
(酷い小説だ……)
それが読み終えた時の素直な感想だった。一言で表せば気分が悪くなる代物だ。電子化もされず直ぐに絶版になったのも頷ける。それだけ酷い内容だった。イタチ男は熱心にこの本を薦めたが、これのどこに己のルーツを探る手掛かりがあるというのかさっぱり理解出来ない。
『クロード・F・アーシェンジャー』
1994年生まれのこの無名作家は3冊の本を出したという記録しか残っていない。そのいずれも大して売れずに絶版になってしまったようだ。そのうちの一冊がこの『輪廻』という50年前に書かれた小説という訳だ。
この小説、というよりは狂った妄想を要約するとこんな具合だ。
舞台は19世紀のノースカロライナ州。主人公は四つの大牧場を経営するクロフォードという大富豪だ。
ある日、クロフォードは神の啓示を受ける。それは「お前は重要な人物であるから、必ず自分の代わりを作らなくてはならない」という奇妙なものだった。しかし、クロフォードはそれを真に受けてしまう。そんな彼には3人の息子と2人の娘がいた。が、その誰もが自分そっくりではない。彼は一番自分に似ていた二十歳になる次男のカールに期待する。
ところが再びクロフォードの前に現れた神は「似ているだけでは駄目だ。所詮、彼は違う。カールはお前ではない」と告げる。勿論、物語の設定がクローン技術開発以前の話だから強迫観念に取り付かれてしまったクロフォードはノイローゼになってしまう。
そんな時に三度、神が彼の前に現れ「お前は創らねばならない。お前自身の手で、お前自身の分身を」と最後通告を行う。そこで追い詰められたクロフォードは、とんでもないことを思いつく。自分の分身を作る為にクロフォードが選択した方法。それは、血を濃くするという忌まわしい計画だった。なんと彼は自分の娘を犯して女の子を産ませたのである。さらに彼はその女の子にも自分の子を産ませればもっと血が濃くなると考えた。彼の行為は正気の沙汰ではない。それは、本編の言葉を借りれば「悪魔ですら顔を背けるような企み」だった。
結局、彼は死ぬまでの間に4度もそのような行為を行った。その過程で奇形児が生まれたり、犯された女の子が自殺したりと凄惨な出来事が一家を次々と起こった。それは天罰としか表現しようのない結果であったが、クロフォード自身は「神の啓示に従ったまでだ」と、最後まで己の過ちを認めることはなかった。
(まったく救いようの無い話だ)
近親相姦を扱った話は無い訳ではない。だが、そもそも幾らフィクションとはいえ、ここまで反道徳的な内容は異常としか言いようが無い。強いてテーマを挙げるとすれば「自らの分身を作ることに取り憑かれた男の狂気」ということになろうが…。
そこで思い出したのが瀬戸源一郎のことだ。『バベルの塔』捜索隊の一員であった彼は確か医学生だった。もし、彼がこの小説の主人公と同じような妄想に取り憑かれていたとしたら?
(有り得ない話では無い……か)
30数年前にバベルの塔を探索していた瀬戸源一郎。その頃の彼とまったく同じ風貌のイタチ男。この2人は同一人物なのか、もしくはイタチ男はクローン人間なのか?
奴が自分と同じ『不老』なら瀬戸源一郎本人である可能性が高い。だが、この本にヒントがあるというのならクローンということも考えられる。「あんたは瀬戸源一郎本人か?」と、聞いた時の奴の反応。奴は肯定も否定もしなかった。そして『ブラザー』という言葉の意味。それが血の繋がりを示すものなのか単に親しみを込めた呼称なのかは分からない。そこまで考えて首を振る。
(兄弟? それは無いだろう。大体、俺とイタチ男は全然似ていないじゃないか!)
冷静に考えればそうだ。ただ、自分が普通の体質ではないことは分かっている。また、自分の出生に重大な秘密が隠されていることも…。
そこで喉の渇きに気付いた。
冷蔵庫から缶ビールを出して喉に強い刺激を与えることで、もやもやとした気分を追い払おうと思った。が、缶を開けた音でナミが目を覚ましてしまった。
ベッドで眠っていた彼女が気だるそうに上体を起こす。
「……まだ起きてたの?」
「すまない。起こしてしまったようだな」
ナミは目を擦りながら首を振る。
「眠るつもりじゃなかったけど貴方が熱心に読んでたから……それって面白い?」
「最悪だな。読む人間をもれなく不快な気分にさせる。ある意味、凄い才能だ」
「それで何か分かったの?」
「いいや。余計に混乱した」
「そう……」
そう言って彼女はベッドから起き上がる。そしてすっと自分の側に寄ると哀れむような目で顔を覗き込んできた。
なぜか、ため息が出てしまった。彼女にそんな目で見つめられると何だか自分が酷く無意味な存在のように思えてきたからだ。それは以前、生活が荒んでいた頃によく感じた無力感だ。なぜ自分は歳を取らないのか。なぜ人よりも長く生きなければならないのか。こんな世の中で長生きすることに何の意味があるというのか。そういった思いが複雑に絡まって、ただ生き続けることに対する嫌悪感がどうしても払拭できないことがある。
ふと彼女の胸元に目がいった。ガウンの胸元がはだけている。恐らく眠っているうちにずれてしまったのだろう。それを直してやろうと手を伸ばすと、彼女がその手に自分の手のひらを重ねてきた。
目のやり場に困ったので「ガウンが乱れているぞ」と、目を逸らせる。しかし彼女は何も答えなかった。言葉の代わりに手の温もりが伝わってくる。
うんざりするほど時は静かに流れた。意地の悪いことに時はそれを持て余した時ほどゆったりと流れる。
微かに何かが落ちるような気配。
(なんだ?)
そう思った瞬間、目の前に美しい乳房が現れた。
驚いて彼女の顔を見上げる。突然の出来事に言葉を失った。
彼女はガウンの下に何も着けていなかった…。
「下着ぐらい着けたらどうなんだ」
つい口調がぶっきらぼうになってしまう。
が、彼女はすました顔で答える。
「無いんだから仕方ないでしょ」
「下着が、無いだと?」
「貴方が買ってきてくれないから」
やれやれ。そうきたか。
「風邪を引くぞ。それに俺は……」
彼女の答えは予想外のリアクションだった。
(なっ……)
いきなり視界が塞がれ頭の自由を奪われてしまった。顔全体に受ける触感と温もり。彼女の重みで椅子の背もたれに押し付けられる。
そのままの姿勢でしばらく葛藤した。封印していた感情が溢れてくる。
そして……考えることを止めた。
衝動の赴くままに太ももの間に手を滑り込ませた。
「……思ったよりも柔らかいな」
「腿の部分? そうね。ここがクッションにならないと歩く度に衝撃が腰に来てしまうから痛めてしま……んっ!」
指先で彼女の言葉を遮る。
目の前の無防備な柔らかさに顎を埋める。その弾力に翻弄されながら中心に吸い付く。まるで波間を漂う漂流者が夢中で浮き輪に捕まろうとするように。
彼女の漏らす『すすり泣き』にも似た吐息を耳元に受けながら湧き上がる欲情を解き放つ。もう後戻りは出来ない…。
そう。これでいい。このままで。感情の赴くままに…。
* * *
端末の呼び出し音で叩き起こされて朝の到来を知った。相手はチャンだった。
「どうした少年? こんな朝っぱらから」
『これでもそちらが朝になるのを待ってたんですよ! 早く報告したくて』
ナミは隣でまだ眠っている。昨夜は少々、無理をさせてしまったようだ。
「分かった。ちょっと待て。場所を変える」
『え? 何かマズイことでも?』
「そういう訳じゃないが……」
彼女を起こさないようにそっと布団から抜け出し、ガウンを羽織りながら別室に移動する。
「で、その調子だと何か成果があったのか?」
『ええ。大発見ですよ! でも、最初に発見したのは30年前の探検隊で僕たちはその後を辿っているだけなんですけど』
「ということは……まさか本当に存在したとでも?」
『はい。間違いなくこれは『バベルの塔』です』
チャンは自信満々のようだが俄かには信じ難い。
「そこまで断言するからには証拠はあるんだろうな?」
『そう言うと思ってじっくり調査しておきましたよ。ところでアンカーさんのマルチ・スコープには『リアル・ビューワ』機能は付いていますか?』
「一応は。あまり使わないが」
リアル・ビューワとは右目用のカメラと左目用のカメラで同時に撮影した映像を視聴者の右目と左目それぞれに送ることで遠近感のあるリアルな映像を見せる仕組みだ。その映像は見る者の目に隣接して左右別々に映されるので臨場感がある反面、自分の首を動かしたわけでもないのにカメラの視点が切り替わると脳が混乱してしまう為、慣れないうちは気分が悪くなるのが欠点だ。
『まずは外観を見て欲しいんです。今僕が見ている景色をダイレクトに送ります。準備はいいですか?』
チャンに急かされてマルチ・スコープを装着する。
「いいぞ。で、ここは……」
ホテルの一室からいきなり緑の世界に飛ばされた。視界を覆う圧倒的な緑は密林の中に居ることを示唆している。
「森。いや密林に近いな。そこは本当にイランなのか?」
『間違いなくイランですよ。この辺りは峡谷だったようです。両サイドが結構な断崖になっているでしょ』
「おい。あまりキョロキョロするな。目が回る」
自分が首を動かしたわけでもないのにやたらと視点が動くので非常に違和感がある。
『あ、スミマセン』
「しかし良くこんな秘境が残っていたものだな」
『現地の人は決して近付かない場所のようですよ。なんでも宗教的に汚れた土地とやらで。方角も悪いみたいですし』
「ちょっと待て。その足元……それは住居の跡か?」
チャンの進行方向に壁が崩れたような痕跡があったのだ。
『気がつきましたか。草木で埋もれていますが似たようなのが点在しています』
古い遺跡、それもかなり風化が進んでしまったように見える。
「もしそれが遺跡だとすれば何時ぐらいに存在したものなんだ? 」
『5000年前のものです』
「5000年だと!? 年代測定はしたのか?」
『いえ。色々な方法を試した結果です。間違いありません』
「……そんな馬鹿な」
『紀元前3200年頃に栄えたといわれる古代シュメール文明の頃と一致しますね』
五千年前の残骸が現存すること自体、驚きであるが、なぜそんな考古学的に重要な遺跡がこれまで放置されていたのだろう。シュメール文明はメソポタミア文明の前身だと習った記憶がある。メソポタミア文明が発達した場所は現在のイラクだからイランにも遺跡があることは想像できるはずだ。
「なぜこれまで発見されなかったんだ?」
チャンは事前に調べていたようでその質問に簡単に答える。
『イランではではチョガ・ザンビールというジッグラト(聖塔)が有名ですが、その建造は紀元前1250年頃と言われています。この国で発見された遺跡は年代がずっと後なんですよ。まさかメソポタミア以前にこの地にシュメール人が巨大なジッグラトを作ったとは誰も考えなかったのでしょう。それにこの土地は放射能汚染されていた疑い濃厚です。地元の人々がこの場所を汚れた場所として長年近付かなかったのはこれと関係しているのかもしれません』
「ちょっと待て。放射能だと? 本当にそんな反応が出たのか?」
『ええ。年代測定を幾つか試した時に気付きました。計算では今から約4000年前に重大な放射能汚染があったと思われます』
「……やれやれ。そんな時代に核戦争をやったとでもいうのか? 何かの間違いだろう」
確かに『ウラン』が自然の力で核分裂反応を起こす可能性はゼロではない。例えばウラン鉱脈に流れ込んだ地下水が減速材の働きをすれば理論的には可能だ。天然原子炉という例もある。だが、その為には核分裂反応をし易いウラン235がウランの中に占める濃度が3~4%であることが必要だ。現在、自然界に存在する天然ウランは核分裂をしにくいウラン238が99%以上、ウラン235の割合は1%以下でしかない。しかも大多数を占めるウラン238の半減期が45億年であるのに対してウラン235は半減期が7億年と寿命が短いので時間とともにそのシェアは低下していく。つまり何十億年も前ならともかく、ほんの数千年前にウラン235の濃度がこの地で自然に高まり、核分裂反応を起こしたというのは考えられないのだ。
「人為的にウラン235を濃縮するしかない……まさかそんな大昔にそんな技術が?」
思わず唸った。するとチャンが冷静に答える。
『まあ中に入れば分かりますよ。驚くのはまだ早いです』
「中? 中ってどこの……」
そう言いかけて息を飲んだ。
その質問に答える代わりにチャンが寄越してきた映像。つまり、今現在の彼の視点で見上げた光景に言葉を失った。
「これは……」
ぱっと見は緑に包まれた山のように見える。だが山にしては小さく、立ち位置からさほど離れていない。高さは20メートルぐらい。周りの高い木々に囲まれて一際、濃厚な緑の塊がある。ちょうどビルを見上げた時のような具合で今、緑の塊を目の前にしている。
「これがバベルの塔、だと?」
よく見るとその緑の塊は、蔦のようなものでびっしりと覆われ周りの木々と同化していた。が、その大きさといい、質感といい、見れば見るほど異様な存在感だ。まるで森全体がひとつの生命体になっていてこの緑の塊がその『核』になっているような気がした。
チャンの足取りに合わせてその物体の異様さが伝わってくる。やはりこれは自然に出来たものではない。例えば、巨大な岩がぽつんとここに残され、そこを中心に緑が広がって森が出来上がったというものではない。
「確かに岩ではないな……自然に出来たものがこんな形になるはずがない」
認めたくはないが緑の塊は、その形状はどう考えても人為的に作られたものであるように思える。
チャンが解説する。
『らせん状の建造物ですよ。先ほど『ジイサンさん』には大量にデータを送っておきましたので分析待ちですけど間違いないと思います』
らせん状の建造物と聞いてブリューゲルの絵を思い出した。ただ、あれに比べると随分と小ぶりなのだが…。
「想像していたのとは違うな。高さは20メートル。直径もせいぜい30ぐらいじゃないか」
正直な感想を述べるとチャンは首を振った。その拍子にまた視点が揺さぶられたので迷惑する。
『いいえ。これは地表に出ている部分だけですから』
「何!? ということはこれが全部では無いのか?」
『ええ。表に出てるのは一部だけですよ。あとは埋まっています。というか元々、地下に作られたのかもしれません』
チャンの説明では同行しているハマド少年が所有していた手帳のおかげでこの場所を見つけることができたらしい。ハマド少年は30年前にバベル探索隊のガイドを務めていたアシム青年の息子なのだが、亡くなった父アシムが隠し持っていた手帳には、この場所や建物内部への経路などが細かい文字でびっしり書かれているそうだ。しかも『シュメール文字』や見たことのない記号や図を解読したものまで記載されているという。
『おそらく、この手帳が無ければ僕たちはここまで来られませんでしたよ』
チャンはそう言って歩く速度を上げた。そして真っ直ぐに緑の塊に向かう。
「少年。中は……中には何があったんだ?」
『それは入ってからのお楽しみです』
「勿体ぶるなよ。これでもお前さんのスポンサーなんだぞ」
『分かってますよ。でも、アンカーさんは疑り深いじゃないですか!』
その回答に思わず苦笑した。
(こいつ……ちゃんと分かっているじゃないか。それにしてもここに何があるんだ? あるはずが無いと思っていた『バベルの塔』。それを30年前に発見した連中が居るという事実。果たしてそれがバベルという組織にどう繋がるというんだ?)
そこでふと喉の渇きに気付いた。いつの間にか緊張が高まっていたらしい…。