第34話 天国と地獄
イタチ男が待ち合わせに指定した場所は『羅生門』という日本食レストランだった。
古めかしい作りの看板には漢字で『羅生門』と書かれているが正式な店名は『La-Syomon』というそうだ。恐らくこの店のオーナーが『Ra』を『La』と表記した方がお洒落だと安易に考えたに違いない。それでも一応は和式を踏襲しているようで内装は土壁と木を基調としており、オレンジ色の明かりが壁面の肌色をほんのりと浮かび上がらせている。よく見るとその照明はライトを囲う色紙が送風によってはためいていて『松明』に似せているようだ。床には所々に石畳が敷かれていてガラスに囲まれた内庭には小さいながら池や灯篭、松の木などが配されている。客席はすべて個室になっているようだ。
案内係に待ち合わせだと告げると、名乗りもしないのに『アンカー・S・カイドウ様ですね』と答えられて(なぜフル・ネーム?)と、戸惑った。が、イタチ男が自分のフルネームを知っていてもおかしくはない。何しろ頼みもしないのに口座に入金してきたり、本人ですら知らないiPS細胞の培養方法を熟知していたりと実に薄気味悪い奴なのだ。もし、自分が年頃の娘だったら訴えても良いレベルの粘着ぶりだ。そこのところは割り切って案内係についていくことにした。
(何だ? この怪しげな雰囲気は)
通された部屋を一瞥して驚いた。個室の真ん中には木目の鮮やかな一枚板のテーブル。部屋の中央には提灯をかたどった照明がひとつ天井からぶら下げられている。が、何よりも異様なのはその壁面だった。入って正面の壁には水彩画が一面に描かれている。
(左手に極楽、右手に地獄か……)
それはまさしく天国と地獄の絵だった。それは遠い昔にどこかの寺で見たことがあるような図だ。
テーブルに着きながら待っていたイタチ男に声を掛ける。
「この絵は本物のようだな」
するとイタチ男はちらりと絵を眺めて「ああ」と、頷いた。そして呟く。
「売り払ったのだろう。どこかの寺が」
彼の言う通り、恐らくどこかの寺の経営が立ち行かなくなって売れる物は何でも売ってしまえということになったのだろう。そしてこの壁画は寺の建物を解体して壁ごと輸出されたものと思われる。
「ジャパン・セール(日本の叩き売り)か……」
思わずそんな懐かしい言葉が出る。
日本という国の経済が崩壊してもう何十年になるだろう。きっかけは国債の暴落だった。簡単に言えば誰も日本の国債を買わなくなったのである。無理も無い。国家予算の半分以上を赤字国債に頼る国を誰が信用するだろうか。当時のIMF(国際通貨基金)のコメントがそれを象徴していた。
「再三の警告にも関わらず借金漬けの生活を改めなかった人間に金を貸したがる者がいるだろうか。信用を無くすのは一瞬だ。だがそれを回復するには相当の時間と努力を要する」
当時の政府も高をくくっていた節がある。確かに「日本には国や地方の借金総額を上回るだけの個人資産があるので大丈夫だ」という意見も一部にはあった。ハイパーインフレや預金封鎖といった『禁じ手』を使えば何とかなるとも目されていた。だが、金持ちほどそんな政府の思惑を敏感に感じ取り、自らの資産を外貨建てに切り替えはじめたのだ。その動きはあっという間に一般人にも広がり、人々がこぞって預金を解約して外国債や外貨預金を購入した為に預金が流出した銀行が幾つも潰れた。また、外貨を得る為に株や土地は叩き売られ暴落した。政府が規制に乗り出した時には既に手遅れで個人資産の約40%が外貨に入れ替わってしまった。その結果、資産が暴落するのに物価だけ高騰するという最悪の事態が日本経済をあっという間に崩壊させてしまったのである。
あの頃の状況を思い出しているとイタチ男が尋ねてきた。
「ジャパン・クラッシュの後か? 君が、日本を捨てたのは。」
「……人聞きの悪いことを言うなよ。一応、留学していたんだ」
「養い親と疎遠になった。それなのに?」
よくもまあそんなことまで知っているものだ。
「別に避けていた訳じゃない。『海堂』の家には感謝してるよ。それなりに」
それを聞いてイタチ男がまるでプロフィールを読み上げるような調子で『海堂』の情報を披露した。
「君の養父。海堂大貴は国営の養魚場で働いていた。岐阜の国立マグロ・センターだ。所属は給排水管理課。26年勤続。最後は課長職で定年。妻と2人暮らし。君を養子にしたのは彼が30歳の時」
「素晴らしい。パーフェクトだ」
わざと褒めてやった。自分が知らない事柄も含まれていたのでイタチ男の情報が正確かどうかは確かめようがないのだが…。
イタチ男は続ける。
「君は、アメリカの大学に進学してから日本には殆ど帰らなかった。海堂大貴とその妻、美希。そのどちらの葬儀にも出ていない。虐待されていた訳でもないのに。それはなぜだ?」
最後の部分は耳が痛い質問だ。だが、あの時の複雑な心情を言葉にするのは困難だし、いちいち他人に説明する必要も無い。
返答に窮しているとイタチ男はなおも追及する。
「なぜ自分のルーツを探ろうとしない? それが理解できない。私には。君は、自らのルーツに興味が無いのか?」
「無いね」
それは断言できる。
「なぜだ? それでは下等生物と同じだ」
「酷い言われようだな。そういえば自分の生い立ちについては養い親にも詳しくは聞いたことが無かったな」
イタチ男は明らかに苛立った口調で持論を展開する。
「犬や猫。植物や昆虫。下等生物はただ生きているだけだ。彼等が己の生い立ちを嘆いたり生きる事に意味を見出そうとしたりするか? 本能というものは生命を維持するための機能に過ぎない。そもそも……」
そこで給仕が注文を取りに来たのでイタチ男の話が中断する。
「お飲み物はいかがなさいますか」の問いかけに「ビール」「水」という言葉が重なった。
(水?)
不思議に思ってイタチ男の顔を見るが彼は気にする風でもない。給仕も同じようにイタチ男のことをちらりと見るが直ぐに気を取り直して「かしこまりました」と返事をした。そしてビールの種類について質問する。
「日本産の銘柄もございますが?」
「珍しいな。じゃあ貰おうか」
折角なので懐かしい銘柄を注文した。
直ぐに瓶とグラスが用意される。
ビールはいい。決して生活必需品ではないが長年人々に愛され作る側も熱心に改良を続けた結果、ひとつの文化として一定の地位を築いているからだ。こういうものが身近に存在するということは悪いことではない。どんな店でも100年続けば『老舗』と呼ばれるように、どんな商品でも100年続けば名品になるものだ。
久しぶりに味わう日本産のビールの味にほっとする。
話の途中で遮られたイタチ男が無表情に口を開く。
「アーシェンジャーの『輪廻』は、読んだか?」
その問いにうんざりして首を振る。
「またそれか……まだだよ」
「やはり読んでいないのか。多分そんなところだろうと思って、用意しておいた」
そう言ってイタチ男は一冊の本を差し出した。
意外に立派な茶色の表紙にはタイトルが金色で記されている。
(これが例の『輪廻』という小説か……)
受け取ってパラパラとめくってみる。明らかに紙が劣化していて埃っぽい。
「渡したい物というのはこれだったのか。悪いがあらすじを解説してくれないか? 読むのが面倒なんでね」
試しにそう言ってみたがイタチ男はゆっくりと首を横に振る。
「それでは意味が無い。必ず読まなければならない。自らのルーツを知る為には」
「フン。仕方ない。そのうち読むよ」
「子供のような言い訳だ。必ず読め。出来れば早急に」
「興味の無いものに時間を割くほど暇ではないんでね。あんたに依頼された仕事もあるしな」
するとイタチ男は微かに首を傾げた。
「果たしてそうかな? 大して成果を挙げているようには見えないが」
「……報酬に見合うだけの仕事をしていないとでも言いたそうだな」
「いや。前にも伝えた通り。方法は問わない」
確かにイタチ男の出した条件は『ヘーラー』と対決するという実に曖昧なもので、また成果は問わないということだった。しかし、そもそもなぜイタチ男は自分をけしかけるのだろう? その部分について聞いてみた。
「残念ながら今回の件ではヘーラーは出てこなかった。その代わりにあんたのお仲間に初めて会ったよ」
「仲間ではない。それは少し違う」
イタチ男は以前もそんな事を言っていた。自分はバベルに近いがバベルではないと。
「俺がヘーラーと対峙する事でバベルに何らかのメリットがあるんじゃないのか?」
「それは無い」
と、またもや彼は即座に否定する。
「少なくとも俺はそう解釈したんだがな。でなければあんな大金を出す意味が理解出来ない」
が、イタチ男はじっとこちらを見据えながらロボットのような反応しか見せない。
「我々は君自身に興味がある。それだけだ。一連の依頼は、きっかけに過ぎない」
「気持ち悪い事を言うなよ。大体、俺があんたと何の関係が……」
そこまで口にしてぞっとした。イタチ男が僅かに口角を上げるのが目に入ったからだ。
(何なんだ……こいつは……)
柔らかな照明に浮かび上がるイタチ男の表情は、まるでロウソクの明かりを下から浴びた陶器製の人形のように見えた。相変わらずの黒スーツに趣味の悪いシャツとネクタイ。今日は紫のシャツに爬虫類のようなネクタイをしている。
「そう言うな」と、前置きしてイタチ男は軽く顔を上げると今度はにっと笑みを浮かべた。そして信じられない言葉を口にした。だが、そのあまりに場違いな単語に我が耳を疑った。
(何……だと? 今何と……)
ビールを噴出しそうになるのを堪える。動揺を抑えながら尋ねた。
「今、何て言った?」
「聞こえなかったのか。『ブラザー』」
その言葉に対して冗談で返す余裕は無い。声が震えないように質問するのが精一杯だ。
「兄弟だと!? ……バカな。な、何を言っているんだ?」
「やはり自分のルーツにはもっと興味を持つべきだ。その調子だと自分の名前すらよく分かっていないようだ」
イタチ男にそう言われてはっとした。
「名前? まさか……『S』は何の略だ?」
自らの名前である『アンカー・S・海堂』のSが何の略なのか自分は未だに知らない。養い親が決して教えてくれなかったからだ。その質問は海堂家ではタブーだったのだ。
イタチ男はぽつりと答えた。
「名字の略。『瀬戸』のS」
……何という事だ!!
その名を聞いて思い出したのだ。チャンとの会話を。
忘れもしない。チャンが手に入れた30年前のバベル捜索隊に名を連ねていた『瀬戸源一郎』という日本人。まさにイタチ男に瓜二つの肖像を思い出した。
「あんたは……『瀬戸源一郎』本人なのか?」
恐る恐る聞いてみた。しかし、イタチ男は何も答えない。それどころか「本を読め」とだけ言ってゆっくりと水を口に含み喉を潤した。
(否定も肯定もしないか……)
イタチ男と自分の共通項について思考を巡らせる。が、どうしても拒否感がそれを邪魔する。
そんな自分の葛藤を見透かしたようにイタチ男が急に話題を変えた。
「ヘーラーの情報を幾つか与えておく。詳しいものは後で端末に送るが」
「今さらヘーラーの情報を貰ってもな。知ってるだろう? サァラがバベルに保護されてしまった事を」
イタチ男は軽く頷く。
「報告は受けている。だから君は別な行動を選択しなければならない」
やはり彼はバベルと通じているらしい。それにしても『別な行動』とは何を意味するのだろうか。
「別な行動とはどういうことだ?」
「ヘーラーの目的はバベルと同じと言って良い。ただプロセスが異なる。彼等のやり方に対して君が何を思い、どう関わりを持つのかに興味がある」
正直、彼の真意を測りかねる。
「興味ね……で、俺に何をしろと?」
「ところで『悪魔の口』というのを知っているか? 7年前にカナダのバンクーバーで発見された地面の裂け目のことだ」
「噂では聞いたことがある。カナダ当局と米国がひた隠しにしているそうだが」
「その通り。公式には地震によって出来た単なる断層と説明されている。だが実際はもっと深刻なものだ」
「何がどう深刻なんだ?」
「海底火山。どうやらそれに直結しているらしい」
「海底火山だと? それが何だって言うんだ。地震にしても局地的なものなんだろう?」
「バンクーバー沖の海底火山にはかなり大きなエネルギーが溜まっている。これは最新の地層観測でも確認されていることだが、これが活性化すると恐らくは急激な海面上昇に繋がると考えられている」
「活性化の規模にもよるだろう。それで?」
「彼等は核を使って人為的に海底火山を噴火させようとしている」
イタチ男の言葉に思わず苦笑する。
「馬鹿馬鹿しい。核爆発で海底火山を? まるで作り話だ」
「レーザー圧縮の水爆。これを用意している、と聞いてもか?」
「……それは確かな情報なのか?」
核融合の要はいかに高温・高圧の状態を作り上げるかだ。水素を使った核融合の場合はその圧縮技術が極めて高度なのだが、まさかレーザー圧縮という国家機密レベルの最先端技術を彼等が手中にしているとは…。
イタチ男は両方の手のひらを下にして指先を重ねてみせた。そして説明する。
「地震のメカニズムは知っているな? プレートは絶えず動いている。そしてこのような形でプレートとプレートが重なっている部分にはエネルギーが蓄積される。これが限界に達した時にプレートが跳ね上がって地震が起きる」
「それは知っているが……」
「理論的にレーザー圧縮で爆発させた水爆にはエネルギーの限界は無い。が、所詮は人為的なものに過ぎない。大自然のエネルギーと比較すれば微々たるものだ。だが、プレートの端っこをこうやって『てこの原理』で押し上げてやれば何倍もの圧力を与えることは出来るかもしれない」
そう言ってイタチ男は自らの手のひらを使って人為的に地震を誘発するメカニズムのモデルを示した。
「にわかには信じ難い話だな……」
実に滑稽な計画だ。もし、ヘーラーが本気でそんなことを実行しようとしているのだとすれば狂っているとしか言いようが無い。
イタチ男は表情を変えずに話を続ける。
「他にも彼等は色々と水面下で工作をしている。例えば、国際ウィルス研究所を支配して空気感染するウィルスを作っている。極めて致死率の高いものを。それと最近、頻発している若き天才と称される各分野の職人の連続失踪事件。あれも彼等が絡んでいる。それから月面基地のストライキも……」
「ちょっと待った。一体、何なんだ? ヘーラーは何がしたいんだ?」
「パライゾ(キリスト教でいう天国)を作りたいのだろう」
「パライゾだと? 奴等がやろうとしているのはテロ行為じゃないか」
「そうとも言える」
イタチ男はしれっとそんな風に言うが、それが事実ならとんでもない話だ。
「奴等のテロを俺が阻止しろとでも言うのか? 映画が何本も撮れそうな内容じゃないか。やれやれ。体が幾つあっても足りないぜ」
「……誰も阻止しろとは言っていない。それは君自身が決めればいい」
その時、ふとイタチ男の変化に気付いた。やけに饒舌になった、というよりもまるで別人のように口調が変わった。この男の場合、元々は言語障害を疑っていたぐらいだから喋り方は明らかに奇妙だった。それがヘーラーの話になったあたりから普通の話し方になったような気がする…。
イタチ男はコップを口に運び、口元を丁寧に拭ってから言葉を繋いだ。
「世界の終わりについてどう思う?」
そう言って彼はじっとこちらを見た。唐突な質問だと思って「さあ?」と、返す。すると彼は静かに持論を展開し始めた。
「ここ数年の動き。例えば次世代インターネットだ。今のネットワークは言葉ではなく感情をダイレクトに共有することが出来る。これも脳の仕組みが解明され、電気的な刺激で感覚をコントロール出来るようになったおかげだ。その点、トレース社の技術、いや元を正せばジョナサン・ホフマン教授の功績だろう」
脳の特定部位に電気的刺激を与えることで他人の感覚を体験出来るという『トレース』の技術は確かにネットワークの世界を大きく変貌させた。それは分かっているが彼は何を言いたいのだろう? 続きを促す。
「それと世界の終わりに何の関係が?」
「多くの人間が感覚や感情を共有するということ。それがどんな結果を生み出すと思う? そこで生まれるのは『総意』だ。個々人の意識レベルを超えて繋がった全体意志とでも言うべきか」
「……それは分かる」
「うむ。よろしい。では、この『総意』は正しい方向に向かっていると思うか?」
それは……なんとも言えない。なので首を捻ってみせるしかない。するとイタチ男は(そうだろう)という風に頷いてから話を続ける。
「ネットワーク世界の発達は人類の進化ともいえる。具体的には情報を発信する側の演出・やらせ・虚像の垂れ流しといった作為が通じなくなった。何十年も前なら人々はメディアが発信する情報を素直に信じた。しかし、ネットワークというシステムが、嘘や秘密を簡単に暴いてしまうようになったのだ。その代わりにあらゆる事象は『総意』の前に晒されることになってしまった。まるで身包みはがされた子羊のように事象は『総意』によって容赦なく解剖されてしまう。時には美談ですら『総意』の前では偽善と断罪されてしまう。こういった傾向をどう思う? エゴ、嫉妬、怒り……最近の『総意』というものには人間の悪い部分ばかりが前面に出ていると思わないか? 叩きはより激しさを増し、ネイションなどというものはファシズムそのものじゃないか。価値の低いものを認めないという傾向は以前からあった。しかしそれがより強くなり、結果、多くの人々が向上心を捨ててしまった。今の倦世感や厭世感はまさにそれだよ」
イタチ男の論は極端ではある。が、認めざるを得ない部分もある。自分には自分なりに考えるところがあって、確かに現実世界よりもネットワーク世界での繋がり、つまりイタチ男の言うところの『総意』に軸足を置き、自らの感情すら積極的に委ねてしまう人々の多さが今の世の中を象徴していると思う。
「この絵を見たまえ」
と、イタチ男に言われて我に返る。
「……天国と地獄か」
そう呟いて改めて壁に描かれている絵を眺める。天国はともかく地獄の図は典型的なものだ。針山地獄に血の池地獄。釜でゆでられる者、鬼に鞭打たれる人々…。これと似たような絵を見たのは子供の頃だったろうか。嘘をついたり悪いことをしたりすると死んでから地獄に落ちるよと脅されたのを思い出す。
イタチ男は絵を眺めながら言う。
「あくまでもこれは一般向けだ。分かり易く表現しているに過ぎない。仏教的にはこの形で示す方が都合が良かったのかもしれん。正確には死ぬと個体の意識は全体的な意識の塊に還る。統合されると言った方が良いか。つまり個としての意識ではなくなる訳だ。そして全体的な意識は、定期的にその一部を切り取り、新しい肉体に意識を送り込む。肉体という器に分け与えられた意識は、その器の生命活動を通して経験を積む。そして器が朽ちれば元の場所に還る」
「輪廻転生か」
「そうだ。意識を魂と読み替えれば分かり易い。そう考えればこの天国と地獄というのは全体的な意識というのは決して均一なものではなくて、幸福な経験を積んだ部分とそうでない部分があってそれをビジュアル的に表したものだと解釈できる」
「……バベルは仏教をベースにしているのか?」
「一概には言えないが強いていえばこの考え方に近い」
「随分と壮大になってきたな。俺にはピンと来ない話だ」
人よりもずっと長生きするであろう肉体を持ってしまった人間にとって宗教的な生死観はまったくの他人事のように感じられた。
「これから何をすべきかは自分で考えたまえ」
そう言ってイタチ男が突然、立ち上がった。
「おいおい。まだ前菜しか出てないぜ。水を飲んだだけで帰るのか?」
「用は済んだ。その本を渡すことが目的だったから」
そう言ってイタチ男は、例によって黒いスーツケースを持って部屋を出て行った。
(参ったな……)
こんなところで独りで食事というのも落ち着かない。それにイタチ男に聞きたいことは他にも沢山あったのだ。
このまま帰るという手もあったが、せっかくだから日本食でも摘みながらイタチ男が寄越してきた『輪廻』を読むことにした。