第28話 手負いの人形
ホテルの部屋に戻ってまずはナミをベッドに座らせる。
何か飲むかと尋ねると「冷たい水」というのでミネラル・ウォーターを与えた。それで幾分、落ち着いたようだが彼女の消耗は相当なものだろう。
「横になった方が良い」
「ありがとう……助かったわ」
そう言って彼女はゆっくりと仰向けでベッドに横たわった。
「医者を呼ぶか?」
「……止めとくわ。どうせ再生治療は出来ないし」
普通の人間なら左手の甲にチップを埋め込んでいるからDNAデータはすぐ読み取れる。が、彼女の左腕は義手だ。
彼女の左わき腹辺りが血に染まっている。
「顔色が悪いぞ。輸血ぐらいはした方が良くないか?」
「いいえ。医者は呼ばないで」
「分かった。無理強いはしない。しかし、その傷はいつ出来たんだ?」
「あの部屋に行く前に撃たれたの。わき腹をかすっただけよ。応急手当はしたんだけど」
「血圧が上がって出血してしまったようだな」
彼女は無言で頷いた。
「ゆっくり休め。部屋は自由に使っていい。俺は当分帰らんからな」
「どこに行くの?」
「登山帽を買いに行くんだ」
「え?」
「冗談だ。サァラ達を追って山登りしなければならないんだ」
「山……そうなの」
少し考える素振りを見せて彼女はじっとこちらを見上げる。
「ワタシも連れて行って」
「……けが人に山登りは無理だ」
「仕事抜きでもダメかしら?」
「組織にはどう言い訳するんだ?」
「……死んだことになってるわ」
そう言って彼女はモニターに目をやった。
ニュースでは先ほどの一件が『事故』として扱われていた。しかも休日で誰も出社していなかったので死者およびケガ人は無かったということになっているらしい。
「真相は闇の中か。まあ当然といえば当然だな」
少なくともナミの部下と攻撃を仕掛けてきた連中があの瓦礫の下に埋まっているはずだ。或いはピンポイント爆撃で粉々になったか…。いずれにせよ事実が公になることはあるまい。只でさえクロウリーが絡んでいるのだ。おまけにチョビ髭が使用したのが本当に『バンカー・バスター』だったとしたら軍の威信も損なわれる。
彼女は天井を見上げて呟いた。
「もう十分だわ……」
それはまるで自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
窓の外は雪だった。雪は音も無く夜の底に沈んでいく。それに対して分厚いガラスを挟んだこちら側では沈黙が漂い続ける。
もう一度、彼女の方に視線を移した時、その涙に気付いた。
それを直視することが出来ず、今度は目を閉じた。
「ね。明日でいいでしょ。準備をするのは」
「いや。できれば今夜のうちに……」
「冷たいのね。けが人を放っておくつもり?」
彼女は訴えるような目でこちらを見る。
どこまで本心なのかは分からない。だが、その目…。
(そんな悲しげな目をするのか……)
ベッドに腰掛けて彼女の顔を眺める。
「じゃあ、どうしろと?」
「続き、なんてどうかしら」
「続き?」
すると彼女は目を細めて呟いた。
「森の中であなたがした事」
「……なんだ。てっきり脈が無いと思っていたんだがな。一昨日、再会した時にスルーされたから」
「いやとは一言も言ってないわ」
顔を近づけて唇を上からそっと被せる。B国の時は奪った形だったが今度は違う。
彼女の唇はそれを受け入れた。やわらかさの中にぬくもりが広がり、まるで開花寸前の花びらについた朝露のような湿り気に触れる。
雪が地表に降り注ぐように、そっと身体を重ねる。
彼女の首筋に唇を移そうとした時だった。
「待って」と、彼女が声を漏らした。
「電気を消すか?」
「ううん。そのままでいいんだけど……」
不思議に思って身体を離す。すると彼女はゆっくり身体を起こしてベッドの端に座った。
「見てて欲しいの」
そう言って彼女はチャックを下ろした。
彼女が戦闘服のような『つなぎ』を脱皮するように脱ぐとスポーティなグレーの下着が現れた。予想以上に白く美しい肌に目を奪われる。左のわき腹に貼った応急テープには血の乾いた跡があった。
次に彼女は座ったままの姿勢で両腕を自らの太ももの間に深く差し込んだ。
何かのロックが外れる音…。
彼女が腰を引く。その瞬間、彼女と彼女の脚がすっと離れた。
(な!?)
残された両足がまるでベッドの端に立て掛けられたように見える。彼女の胴体、丁度、太ももの付け根に当たる部分には肌の色に合わせたリングがはめ込まれている。恐らくここに足を繋ぐのだろう。
彼女は下着姿でじっとこちらを見た。何を言いたいのかは分かる。しかし、期待で高まっていた鼓動が突然停止してしまったような気がした。まるで身体の内部で冷たい汗が流れるような感覚に支配されてしまう。
何かを訴えるような目。それは今まで彼女が見せてきた姿とは正反対の弱さを感じさせた。
さらに彼女は胸の前で腕を交差させると今度は自らの脇の下に指を潜らせた。
再び鳴る乾いたその音…。なぜかそれは処刑台のスイッチを連想させた。
「はずして……」
そう言われて彼女の左腕にそっと手を伸ばす。二の腕と肘をそれぞれ掴み、恐る恐る引いてみた。ほとんど抵抗も無く左腕が肩から外れる。同じように今度は右腕を外す。その重みが『生身』の物と比べて重いのか軽いのかは分からなかった。
「……下着も取って」
流石にそれは躊躇した。が、自力で脱ぐことが出来ないのは明白だった。意を決して下着に手をかける。
胸を覆う下着は少しずらしただけで簡単に外れた。下着を取り去った瞬間に露になった彼女の上半身はあまりにも無防備だった。
「これで全部よ。残りは生身だから」と、彼女は言った。
彼女の手足は驚くほど精巧に作られていた。が、切り離されてしまった今となっては用済みになったオブジェのように見えた。
彼女はわざと明るい口調で微笑む。
「これでもいいなら……どうぞ」
そんな彼女を愛おしく思う衝動が半分、戸惑いが半分の状態で抱きしめた。そして彼女の頭と背中を支え、そっと寝かせた。その流れの中でもう一度、口付けをする。彼女の唇は一回目の時よりもずっと柔らかかった。
何度も唇を重ね合わせてから胸に手を伸ばす。新雪をまとった丘のように形の良い乳房は、手のひらで触れるとわずかに震え、押すと遠慮がちに押し返してくる。その触感を確かめるように何度か脹らみをなぞった。そしてその中心にある頂点に口付けをする。
(……駄目だ……集中できない)
目の前には美しい乳房がある。が、その隣に……その付近にあるべきものが無い。まるで断崖絶壁に切り取られた山肌のように彼女には腕が無かった。たったそれだけのことなのにどうしても罪悪感が拭い去れない。触れてはいけないものを対象にして性的な欲求を露にすることは酷く躊躇われた。
「……どうしたの?」
「……いや。何でもない」
「ひどい汗……」
(頭では分かっているのに! 身体がいうことをきかない……)
胸の奥にべったりと張り付いたトラウマが吐き気すら引き起こそうとしている。
「……すまない」
こんな形で中断することがいかに彼女を傷つけることかは分かりきっていた。だが、彼女は何も言わなかった。かえってそれが胸をしめつけた。
「……ある女の子を思い出してしまった」
思わず本音が出てしまった。さっきから何度もフラッシュ・バックする女の面影。それがどうしてもナミと重なってしまう。
「どういう人だったの?」
「君と同じだ」
その言葉に彼女は目を見開いた。
「……話して」
この話は封印した記憶だ。ジイサンにすらしたことがない。だが、もしも誰かにこれを話すとしたら恐らく今しかないのだろうと思った。
「……分かった。ただ長くなるからな。このままだと冷える」
彼女に毛布をかけてやる。それからあの忌まわしい出来事について話すことにした。
「あれは2050年代前半、今から25年ほど前の話になる。当時の俺は探偵の仕事も無く、プライベートでも行き詰っていてな。少々荒っぽい仕事を好んでこなしていた。そうやってブラブラしていた時分に元海兵隊のカイルという男に誘われた。なんでも俺の能力を聞きつけてきたらしくて「是非、作戦に参加して欲しい」と言われてな。一旦は断った。俺は傭兵はやらないと。だが、カイルは諦めなかった。「これは人命救助だから」と言って何度も事務所に足を運んできた。とうとう根負けした俺は一回限りという条件でカイルの作戦に参加することになった。
仕事の内容は単純明快。武装集団が守る別荘を襲撃して囚われている女を救出することだった。ただ、問題はその場所だ。向かったのはT国の高級別荘地だ。妙だなと思った。なぜこんな所にわざわざ傭兵を20人も送り込むのかと。しかも助けるのは女一人。どういう事情があるのか? それと現地でカイル中尉の部隊に合流して妙なことに気付いた。どう見ても軍隊筋ではない人間、恐らくは一般人なんだがそいつが同行するという。カイル中尉の態度からこのアメリカ人がスポンサーだということは分かった。ただ、どこかで見た覚えのある顔だなとは思った。いずれにせよ私設で軍隊を組織してわざわざ東南アジアの敵地にまで乗り込もうっていうんだから金はたんまりあるんだなと理解した。
敵の別荘は入り江のような場所にあった。三方を険しい崖に囲まれて正面だけが海に面している。俺の役目は門を閉めさせないように門番を素早く片付けることと別荘の主が逃走するのを防ぐことだった。
夜になって作戦は直ぐに実行された。まず、我々本隊は闇に紛れてボートで入り江に侵入して別荘の外壁付近の茂みに身を隠した。そこへ予定通りの時刻にヘリが近付いてくる。依頼主のアメリカ人が「商談」と称して別荘主を訪問するようアポを取っていたんだ。本当は別荘の敷地内にヘリポートがあるんだが「エンジントラブル」だと偽って、わざとヘリを門の外に着陸させる。そこで門が開いた所が勝負だ。
門から出てきたのは自動小銃を持った警備員達だった。何をそんなに警戒しているのかは分からなかった。多分、マフィアかなんかだとは思ったが。とにかく俺は淡々と役目をこなした。門番4人の首を掻き切り、門を開放した。その足で別荘の正門を突破して、予め頭に叩き込んでいた間取り図に従って真っ直ぐ3階に向かった。途中で何人か敵に遭遇したが問題は無かった。正直、あの頃の俺はこの能力を使うことを得意がっていたからな…。多分、5分ぐらいで目的の部屋に到着したと思う。部屋の前に居た敵は銃を構えるヒマも与えずに殺した。で、扉を破って部屋の中に入った。そこは一目見て寝室と分かった。何しろ部屋の真ん中にバカでかいベッドがでんと構えていたからだ。
ベッドの上では予想してた通り、別荘主がお楽しみ中だった。主の顔を確認して、俺は奴に拳を一撃喰らわせた。殺すなと言われていたから手加減はした。それで……」
そこまで話して喉の渇きに気付いた。いったんビールで喉を潤し、ひと息をついた。
自分が話をする間、彼女は黙って聞いていた。
彼女が何を思うのかその表情からは読み取れなかったが、その目は続きを促しているようにも見えた。そこで続きを話す。
「別荘主の他にベッドの上には2人の女が居た。救出する女は一人と聞いていたが、同じような境遇の人間がもう一人居るのだろうぐらいに考えていた。だが、その2人を見た瞬間、我が目を疑った…。
はじめ、それが人間だとは気付かなかった。ひとりは白人、もうひとりは東洋人だった。2人とも裸で……2人とも手足が無かった。それを見て、一瞬、ギリシャとかローマの古い彫刻を連想した。正直言って作り物ではないかと思い込みたかった。だが目の前の2人は共に生きている……どれぐらい茫然としたことか。
やがてカイル中尉達が部屋になだれ込んできた。続いて依頼主のアメリカ人が入ってきた。彼はベッドの上の女を見た途端、その場に泣き崩れたよ。彼が変わり果てた娘を抱きしめてやるまで俺達は黙って見守るしかなかった。これが現実の出来事なのかどうか疑いながら……」
手足を失った美しい娘2人がシーツの上で並んでいた姿。その時の光景は20年以上経った今でも鮮明に脳裏に焼きついている。
ナミがぽつりと言葉を発した。
「その子達はなぜ?」
「人身売買。後でそう聞かされた。T国には人身売買をする組織があって、中には若い女性を誘拐して売り飛ばす奴等がいたらしい。彼女達はその犠牲になったんだ」
「……酷い。本当にそんなことが……」
「金持ちで変態のリクエストがあると、たまにそういうことをするようだ。とても人間のやることとは思えんが」
「それで、その子たちはどうなったの?」
「白人の子は『キャサリン』といって依頼主の一人娘だった。もうひとりは日本人で名前は『ミキ』といった。アメリカでも十本の指に入る大金持ちの依頼主は極秘裏に2人を連れ帰り大邸宅でケアすることにした。専門の医師、技師、それからカウンセラーをつけてな。それからなぜか俺もキャサリンに請われてしばらく依頼主のところに厄介になることになった。多分、俺がミキと同じ日本人だったというのもあるんだろう」
「彼女たちと話したの?」
「キャサリンとはよく話した。だが、精神的に不安定だったミキは何もしゃべらなかった。そばに居てやるよう言われていたからそうしていたんだが一度だけだったな。彼女が口を開いたのは」
「一度だけ……それはどんなこと?」
「監禁されていた時のことだ。手と足を奪われて寝返りもうてない中、彼女はずっと天井を眺めていたそうだ。身体の大半を失っても、なお生き続けることの意味をずっと考えていたと。その時、彼女は手や足が痒いのにあるべきものがそこにないという感覚に随分と悩まされたらしい。そしてこう言っていた。それを絶えず思い知らされることで身体の境界が曖昧になってくる。そのうちまるで自分がベッドと同化してその一部になってしまったような気分になってくる。そして最後には、どこからどこまでが『自分の境界』なのか自信が無くなってしまうんだと言っていた」
ナミは今にも泣き出しそうな顔で話に聞き入っていた。
「それからミキはこんなことも言っていた。その時に不思議な体験をしたと。独りで居る時は気付かなかったが、キャサリンが近くに居る時に彼女の感覚が伝わってきた。例えばキャサリンがあの忌まわしい別荘主に身体を触られた時の感触や嫌悪感。それに共鳴するようにミキにもそれがはっきりと感じられたという。ひょっとしたらそれは錯覚かもしれない。だが、キャサリンも同じことを言っていた」
手足を奪われた者同士が完全に隔離された空間で共有した感覚。それがどういうものなのかは分からない。しかし、あの2人は確かに一心同体のように、ある種の通じるものを持っていたと思える。
「それで彼女たちは立ち直ったの?」
「結局、俺は二ヵ月後に邸宅をあとにした。キャサリンとミキは最高の医師と技師で構成されたチームによって最高級の腕と足を与えられ、社会復帰を果たそうとしたらしい。キャサリンが時々手紙をくれてね。字の上達具合で回復の度合いが分かった。はじめはミミズがのた打ち回ったような文字だったのが見るからに進歩して2年目ぐらいには普通の字がかけるまでになっていた。ところが事件から3年後、俺の元に訃報が届いた。ミキが死んだという知らせだった。それからまもなくキャサリンも亡くなったと聞いた。かけがえの無い仲間を失った悲しみに耐え切れなかったのかもしれない」
「……そうなの」
そう呟いたナミの顔を見てミキと話した時のことを思い出した。
「彼女……ミキはその話をしてくれた後、ある頼みごとをした。それがすべてを物語っていたような気がしてならない」
「彼女は何て?」
「……私を殺して、と」
二ヶ月一緒に居ながらミキは一度たりとも笑顔を見せなかった。また、自分から何か語ることもなかった。結局、自分は彼女に何もしてやることが出来なかった。にもかかわらず、彼女はたったひとつだけ願い言を口にした。あの時のミキの言葉……すべてを諦めてしまったような表情、それらがトラウマとなって自分を苦しめる。
「……彼女のこと愛してたの?」
「いいや。同情はしていたが……そうではない」
「もし、彼女のことを愛してたら……殺してた?」
「なんでそんなことを?」
ナミは何を望んでそんな質問をしたのだろうか。
「ううん。いいの」
こうやって毛布から顔だけを出しているところなどはまだ十代と言っても通用するぐらいにあどけない。なのに時折見せる不安げな表情には決して拭えぬ哀しさを孕んでいるようにも思える。
「ねえ。その別荘の主はその後どうなったの?」
「分からない。だが、傭兵達の噂では特別に酷い拷問を受けて死んだことになっていた。それと奴に彼女達を売った人身売買組織はカイル中尉の隊に全滅させられたそうだ。誘拐の実行犯から彼女達を手術した闇医者、組織のボスまで一人残らず生きたまま手足をもがれて見せしめにされたとのことだ」
あまりにも残酷な話に気分が滅入ってしまった。
ナミの顔を眺めながら考える。
(この話をして良かったのかどうか……)
寝るにはまだ早いがそろそろ眠らせた方が良い。そう思って明かりを小さくした。
「長々と済まなかったな。もう休め」
すると彼女は小さく首を振った。そしてか細い声で訴える。
「……わたしの話も聞いてくれる?」