第九十三話 真髄
すぐに立ち上がってこちらを向いてきたけど、動きに精細を欠いていたことは明白だった。
「ガアッ!」
一見、依然戦う意志はあるように見えた。
だけどあまりにわざとらしい。
歯を剥き出しにして肩幅を広げて威嚇している。
そうしながら徐々に佇まいをさっきのように迫力のある感じに直そうとしている。
どう考えても逃げる算段を立てていた。
嘘だろ、と心内で呟いた。
「おい、ふざけんなよ、お前」
そんな浅ましい真似が通じるとでも思ったのか?
違うだろ。
期待してたのに。信じてたのに。
角猿とならどこまでも行けると思ってたのに。
現にうまくいってたんだ。
互いに高め合って、足掛かりにしあって、どんどん高いところに昇っていったじゃないか。なのに。
俺を死なせてくれるはずだったのに。
「こっちは全部捨ててんだよ! どうしてくれんだよ!」
だけど重なる視界が、無意識で重ねた計算が、俺の期待よりも角猿の危機感の方が正しいと言っていた。
勝利を確信していた。
さっきの攻防が終わった瞬間に勝敗は決していた。
まだしばらくは戦えそうだが、結局どのような道筋を辿ろうとも絶対に俺は勝てる。
負ける要素が見当たらない。
脳はすべて見切っている。
そうであっても情けない。
角猿は俺の剣幕に尻込みしていた。
たかが人間の付与術師、命を懸けなきゃ戦えない、この俺程度の存在に。
「ビビッてんじゃねえよ!」
どうしてくれよう。
ここから挽回する方法を考える。
もう一度高め合うあの時間を取り戻せないか模索する。
もっともっと頭を回す。脳の中で火花が散る。
なぜこいつは諦める?
人間じゃないだろう。
俺より遥かに重くて速くて強いはずだろう。
加速された脳はあらゆる可能性を検討し、野放図に膨らんだ処理を瞬時に終了させる。
──ダメだ。それでも俺は負けられない。危機にも陥らない。
その結論に確信がある。
不思議な感覚だった。
導き出された答えは定まっているのに、導出過程が明確じゃない。
肝になる数点の要素だけが確定していて、それ以外は雲みたいになっている。
無意識で行う処理は逐次的じゃないってことか?
もしかして脳って俺が想像するのと別の体系で処理してる?
論理的思考じゃない。閃きの連続。
何か、何かないかと提示された選択肢を検討し続けた先に、その中に一つ、特異な道筋があるのがわかった。
俺の望む打開策じゃない。
だけど目立っていた。
これは、この戦闘の最適解か?
無意識とはいえ自分が考えたことなのに戸惑う。
他の道筋とはまったく違う。
発想の転換が為されている。
この道筋で考えられていたのは付与術の範囲の話だった。
他者に強化をかけることは難しい。
なぜなら他者の意識の領域に踏み込むには障害が多く、莫大な魔力を消費するから。
むこうが能動的に魔術を受け入れている状態でようやく現実的に運用可能な付与術を行使できる。
だから他者に強化をかける際には承認宣言が必須なのだ。
しかしそれは言葉で対象と付与術師を明言していればより強力になるということで、必ずしも定型句で表現しないといけないわけじゃない。
効力は大分変わるが、態度や心情のみでも承認宣言と“みなせる”場合は多々ある。
裏を返せば、強化は効力さえ考慮しなければ誰にでもかけられるってことだ。
そうか、そういうことか。
一歩、角猿の方へ踏み出した。
「君と俺は、通じ合っていたと思うんだ」
よく戦った。
茶番のような剣戟に付き合ってくれたし、こちらもむこうの嗜好に付き合った。
言葉を交わしていたに等しいだろう。
それよりも強く心と心を通わせていたかもしれない。
当然それは好敵手のように。
互いに焦がれるさまは、自分で言うのも気持ち良いものではないが恋人のようだったかもしれない。
角猿は何かを察する。
忍び寄る危機に逃走か反撃かの二択を迫られる。
選んだのはあまりに杜撰な反撃。
「なあ、それは──」
──承認宣言、なんじゃないのか?
感覚が極まってきている。
無意識に積み上げた閃きが結果だけを意識に返す。
脳が示した勝利への最短の道のとおりに、俺は象徴詠唱を口にした。
「『停滞』」
脳を強化していなければできない芸当。
互いの意識の架け橋を侵入口に、単位時間当たり何百もの象徴詠唱を叩きこむ。
飛び掛かってくるはずだった角猿は空中で完全に停止し、地面に這いつくばった。
逆強化が完全に発動していた。
「……ハハッ」
思わず乾いた笑いが漏れた。
これこそが付与術の真髄か。
脳を強化し圧倒的処理速度を得てようやく辿り着ける領域。
わずかな攻撃のやり取りを意志をもった応答だと無理やり解釈し、逆強化を強制的に押し付ける。
こんなの、どう考えても強力無比に他ならない。
わずか数撃を交わすだけで相手を地面に這いつくばらせることができる? なんだそれ。
世界の均衡ってやつかな。
付与術師の素があまりに弱いのは、ここまでたどり着いたときの強さが尋常じゃないから、とか?
この世の真意なんてわかるわけないか。
事実は事実だ。そういうものとしか。
完全に勝負はついた。
あとは角猿がこと切れるまで、この手に握った山刀を雑に振り下ろし続ければ終わる。
肩透かしにも程がある結末だった。
体得した逆強化という奥義は俺の望みと対極にあった。
密林の聖域に虚しい俺が一人だけ立っている。
地位も名誉も責任もすべて捨てて、いろんな人を裏切ってきたはずなのに、何も得られなかった。
わずかな願いすら何一つ達成されなかった。
この先の強敵を求めようにも、この奥義ではどう足掻いても楽しいことにはならない。
絶望する。
だってこれは高め合う技じゃない。
相手の頭を地面に押し付ける技だ。
──いや、まだだ。
このまま終わらせたって、何も面白くない。
まだ検討していない可能性があるかもしれない。
さっきと同じように頭を回す。
あえて目的を勝利に設定しない。
計算するのは俺側の可能性。
半ば夢想に近いくらいの緩やかさで、俺の心、技、体を検討する。
うん、やっぱり。
まだ形がはっきりしないけど、大きな可能性を残している。
それは俺が望む形にかなり近い。
発想の種は得た。
ここから先は不確定すぎてさすがに試していくしかないか。
俺が今気付いたのは付与術の真髄であって、俺の、ひいては『傀儡師』の真髄じゃなかったのだ。
この先にもう一つの領域がある。
「立て」
俺はあえて、角猿の逆強化を解いた。