第九十二話 どこまでも高め合って
形容し難い奔流に包み込まれた。
「あがっ、……あ゛っ」
全身の神経のところどころで信号がぶつかり、パチッ、パチッ、と弾ける。
対応する部位は不規則に跳ね、どのくらいかわからない、立っていることが難しい状態だった。
表情筋がぐねん、ぐねんと動く。
声帯が自由にならない。
表現する術を失った痛みと違和感が、野放図に膨れ上がって抵抗できない。
記憶が逆流する。
必要な情報がどんどんしみ込んでいく。
角猿の動き、俺の感触、予測と計画と実行、強化のコードの組み合わせ、あらゆる経験値が総ざらいされて結びつく。
対して流れ出るのはなんだ。
断片的な明るい景色。
これは食事をしているのか?
屋敷もある。気分も明るい、かな?
嬉しいこともあった。その反対も。こっちはかなり大きい。
「ヒヒッ……ヒヒヒヒッ」
勝手に喉が空気を吸い込んで何かわからない音を出す。
本の項をめくるみたいに光景が流れ出ていく。
それから薄れていく。
全部俺がやっているのか?
それはそうだろう。
脳の処理を加速させているんだから、俺がやっているに相違ない。
無意識なだけだ。
──ん? 何か、引っ掛かってる。
なんだこれ。
何かの一群だな。
何かいろいろ集まって食べたり騒いだりしている。誰だこれ?
勝手に処理すれば良いのに、許可を求めてきているわけか。
これがあるとこの先に行けないと。
大事なものだったみたいだけど、どうかな。
思い切って、捨てちゃうかな。
いいから捨てて……
あれれ、ちょっと抵抗あるな。
そんなに大事か? 精査するべき?
いいや、そのためにここに来たわけだし。
本の背から全部の項がバラバラになって、一気に散った。
「……よし」
落ち着いた。
まだ風船を破裂する寸前で膨らまし続けているような危機感はあるけど、それでも現状維持は可能だった。
角猿は俺を待ってくれていた。
それとも実は時間があまり経っていなかったのか、まあ野暮なことはしないやつなのだ、きっと。俺だってそうする。
視界に明らかに変化があった。
これが、“次の領域”。
景色が何十にも重なっている。
なんだろう、これ。自分の体も感覚としてブレている。
でも違和感はまったくない。できることが明確にわかっている。
「『瞬間増強・千倍がけ』」
出力が段違いに上がる。
さすがにここまで来ると効率が高かろうが短期決戦は必至か。
せっかく用意してくれた戦場だから、まずは利用してみようと思った。
後ろに跳ぶ。そして、着地? 言うなら着木かな?
木の幹に弾くようにじゃなくて吸い付くように飛びつくと、巨木ながらもしなやかに曲がる気配があった。
これは使える。
弓矢の弦みたいにしならせて、自分自身を矢にして発射する。
そして俺は左の山刀を、投げた。
次の瞬間には両手で残していた方の山刀を握り、下段から突き出しながら突撃していた。
右脚は反作用を担うべくすでに伸びきっている。
先に投げた山刀が角猿に着弾すると同時に、衝突。
完全に予想外の動きだったらしい。
防御は俺が握っている分の山刀しかできなかった。
投げた方は深々と肩に突き刺さっている。
「ガアアアアアア」
角猿は初めて叫んだ。
痛がる素振りはそのまま隙になる。
防がれた方に込める力はそこそこに、先に刺さっている方の柄を握って引き抜き半分回転半分で抉る。
追撃しようと思ったが、むこうが取ったのは逃げの一手だった。
慌てて俺と距離を取り、大樹を伝って上まで避難している。
上から鮮血が落ちてくる。
見上げて叫ぶ。
「おいおい嘘だろ!? まだ上がるよねぇ!?」
血走った獰猛な目にさらに力が入った。
筋肉は一瞬で締まって凹凸が非生物的なまでにはっきりする。
階層主特有の異様な気配がいっそうの存在感を発揮する。
太い部分は太すぎるのに、細い部分は細すぎる。
一切の無駄を省いた奇妙で幾何学的な影が地面に落ちた。
角猿は大樹を蹴って蹴って視覚的に俺を翻弄し始めた。
前後左右、伝う度に速くなる。
視界の重なりが奇妙に動いた。
角猿の姿がいくつもの影になって分裂し、数種類の道筋で俺に接近していた。
と思ったら多くの影は消えて一つの影に収束し、また分裂してを繰り返す。
慣れれば見やすいかも。少なくとも鮮明で詳細だ。
選ばれたのは俺にとって最も不可避に近い道筋。
それでいてほとんど落下のような体勢で激突するのでなおかつ圧倒的に不利。
迎え撃つことにする。
力の塊が俺を襲う。
質量と加速度からして原理的に防げるわけがないほどの攻撃。
俺がとった手段は、連撃による力の分散。
奴の一薙ぎを俺の二撃で受ける。
繰り出される片手ずつの攻撃を、俺は両方とも両手でわずかな時間差で受けきる。
「アハ! アハハハハ!」
無我夢中ではできない。
すべて自覚して、腕の振りが刃の交わりも、自分の声も超える。
ここまで速いと切り返すだけで腕がもげるから、瞬間瞬間に強化をかけて腕を繋ぎ止める。
音が聞こえ始める頃には、俺は角猿を上に弾くことに成功していた。
二本の山刀を上に向かってそれぞれ別方向に、ブーメランのように回転させながら投げた。
すぐさま膝を大きく曲げて、跳び上がる。
状況有利とはいえ今から徒手空拳。
頭がおかしくなったか?
でも脳は最適解だと言っている。
隙だらけの角猿の腹を下から殴る。それから蹴る。
繰り出されてきた爪に当たらないよう、薙ぎが加速する前に掌を掴んで軌道を逸らす。
俺の打撃によって角猿を押す形になり、距離が空いた。
すかさず遅れてやってきた山刀が角猿の背を斬りつけて通過する。
またくぐもった声が上がる。
「おい! このままじゃ、死ぬぞ!?」
両腕を掲げればそこには柄があった。
予定通りだ。がっちり掴む。
空中で獰猛な目と見つめ合う。
奴は今、俺よりもずっと死の淵に近いところにいる。
──どう? 楽しい?
でもこのままだと終わっちゃうよ?
落下するまでのわずかな時間で連撃が開始される。
もはや俺たちにとってはわずかですらない。
角猿は俺に追いつくべくまた一つ段階を上げた。
こっちが上げたらそっちも上げる。常識だ。
速度は青天井。どんどん上がる。
「……ヒヒッ!」
全身が狂喜している。
上がった先でもまだ足りないと渇望し、満足した瞬間にまた飢える。
刹那と思っていた瞬間が膨張していく。
お楽しみの時間がどんどん増える。
同時に命の危険は途方もなく増していく。
ここは、最高だ。
余分なものがまだあった。
情報の霞が体の滑らかさを邪魔している。
振り払う。
剣戟に徒手空拳が加わった。
角猿もそれになんとかついてきていた。
処理する情報が増えてこれまた楽しい。
また余分なものが見つかる。振り払う。
打ち合ううちに、景色の重なりが意味するところを言語化できるようになっていた。
これは可能性だ。
あらゆる動きの予測が無意識で全部計算されて視覚化されている。
それが分裂と収束を繰り返して俺に結論を教えてくれる。
ああもう、邪魔なものがまた出てきた。
こんなもの、全部忘れてしまって構わないのに。
まとめて全部、振り払う。
一々俺に許可を求めるな。
不必要なんだから全部要らない。
全部、捨てたんだ。
視界が澄み切っている。快適そのもの。
まだだ、まだ上がる。
一つ天井を抜けてみれば、まだまだ上がる余地があった。
行ける。行けるよ、これなら。
もっと高い場所へ行ける。
まだまだ危険になれる。
もっと死の淵で踊れるんだ。
こんな甘いもんじゃない。
一緒に行ってくれるよね。
大丈夫、だって君は人間じゃない。角猿となら……
「……は?」
着地して目を向けたその先。
角猿はその場に、膝をついていた。