第九十一話 まだ知らぬ領域
相対する。
角猿の佇まいは静かだった。冷めてはいない。
これから上がっていく予感を前に、熱い闘争心を暴走させることなく滾らせていた。
俺の方も似たような感じ。
でも不安がある。
前はもっと自然に未知の力を探り探り、無我夢中で試していた。
効率は悪いがそれゆえに温まるとかそういうことを考えなくてよかったんだ。
だけど今からしばらくは目的がある。
それは前と同じところまで上がること。
中断のせいで辿り着けなかった領域の手前まで体と頭を温めること。
ふうー、と腹の底から息を吐く。
ゆっくりとなった景色が意味深に揺らいでいる。
頭の裏でいろんな記憶がフラッシュバックしている。
【竜の翼】のこと、【夜蜻蛉】のこと、そしてもっと過去のこと。
あるいは踏破祭のこと、それからあの亜人族の少女──
──えっと、うん、ラウラのこと。
そうだ、闇地図のことだ。
嫌な記憶だ。
いや、良い記憶もある?
浮かんで流れていくのは光景とそれに伴った感情なので、あまり文字が浮かばない。あくまで断片的。
一通り流れたらすっきりする時間がある。
そうなれば頭はまた一段と回り始める。
停滞することなくこれを、戦いながら続けていかねばならない。
「じゃあ、やろっか」
声をかけると、流れるように打ち合いが始まった。
ちょっと拓けている場所だ。
遮蔽物も不規則な足場もないから互いの腕に集中しやすい。
初撃は角猿からだ。
避けるために一番大きく動かなければならない正統派の袈裟の攻撃。
正の構えだから隙がなかった。
まずはこの一撃から組み立てようという提案だろう。
右の山刀で、同じく上から下に受け流しながら弾く。
ギン、と火花が散る。
同方向への運動量を分け合っているのでお互い右腕を戻すことはできない。
すでに意識は左腕及び両脚。
ほとんど反射でもう一度打ち合う。
その要領を繰り返している。
むこうの攻撃には大量の囮動作が混じっている。
十発あったら九発はまったく体重が乗っていない。
この配分が肝だ。
体重が乗った一撃にはこちらもそれで返さないとやられる。
しかし囮動作の方も防御をしないと四肢が飛ぶので避けるか防ぐかはしないといけない。
すべてに体重をかけられるわけではないので、全部を見分けないと死ぬ。
筋肉の捻れと全体の組み立ての流れから、集中さえすれば見極めることは可能。
だけど一定確率の賭けが続いていることは否めない。
つまり、一瞬でも油断すれば死ぬし、油断していなくても死ぬかもしれない。
「……ハハッ」
これだよこれ。心底怖い。
それが気持ち良い。
そしてそれは角猿も同じ。
両手だけで器用に捌き合うのには飽きてきた。
前後の動きも加える。
飛んだり跳ねたりしながら、半分空中で打ち合う。
戦いに高さの要素が加わる。
これもまた塩梅が難しい。
高いところにいる方が重力を利用できて有利だが、上を取ろうとするあまり滞空時間が延びれば大きな隙になる。
二つの振り子みたいに打ち合っては下がり、跳んではまた打ち合ってを繰り返す。
幾度目かの跳躍。
お互い方向転換は利かないので、足が離れた瞬間にこの攻防の有利不利がわかる。
今回は俺の方がわずかに上。
そして俺の方がわずかに速い。
まだ攻撃される余地はないので大きな隙を作る溜めができる。
全身を三日月のように背屈させて肩甲骨を開ききり、両腕の山刀を根元から思いっきり振りかぶる。
そして、左右両側から十字に叩きつけた。
下から迎え撃つしかなかった角猿はあえなく後ろへ吹っ飛んだ。
まだだ、全然まだ。
綺麗に受け身を取っていた。追撃が必須。
着地してすぐさま距離を詰めようとしたところ、突如角猿は後ろへ退いた。
逃げようとしている感じではない。
場所を変えようと言っている。
いや、それにしては深く森の中に入っているな。
──誘導しようとしてる?
「いいよ! 乗ってやる!」
「આમંત્રિત」
いずれにせよ密林の中に飛び込む。
まだまだ打ち合いは続く。
拓けた場所じゃなくて木々が非常に邪魔くさい。
だけど足場は多いので発想の余地はもっと自由自在。
立体機動が前提になり脳への負荷が一気に増える。
知らない道を移動しながら、視界に入った木々をすべて記憶しないといけない。
その上で何通りも角猿の軌道を予測して、俺の側もどう迎え打つか考え続ける。
頭の中でいろんな汁が分泌されている。
頬を鋭利な爪が掠め、巨木の幹と間一髪ですれ違う度に背筋にじんわりと快感が走る。
この速度で移動しながら足を滑らせでもしてみろ、幹に激突して即死だ。
付与術師の俺は衝突の瞬間に硬化しているだけで素の強度は高くない。
一瞬でも予想が外れたら全身粉砕。
「ほら!」
角猿がキッと喉を鳴らしてから衝突。
打ち合って打ち合って、落下が始まるまでに運動量を交換しきる。
それから最後の一撃で、互いに大きく弾き合って推進力は元通り。
また次の衝突への準備をする。
離散的ではなく連続的なテンション。
次の一瞬への上がり具合が、その次の一瞬への期待感を煽る。
背景と角猿の動きが遊離していた。
視界が遅くなっている感覚がない。
俺たちだけが景色を置き去りにしている。
その上で、さっきから角猿の動きがやや揺らいでいるように見えた。
なんだこれは。
戦う分には問題ない。相手の側にも変化はない。
だから俺の問題? 『傀儡師』の作用か?
角猿が突然、高度と速度を下げた。
たん、たんと木の幹を蹴って、地面に着地した。
目的地についたらしい。
俺も間合いに最新の注意を払いつつ着地して、辺りの地形を確かめる。
完全な未開拓領域だった。
さっきまでの密林とは様変わりしている。
植物の種類がずっとずっと少ない。
木々は極太になる一方でその密度はまばらになり、背が高くなって天井のように広がっている。
一本一本の木に樹齢と尊厳を感じる。
下々の草花には一切の日光を与えないかのようだ。
こういうのってもっと北の方の気候の原生林じゃなかったっけ?
そもそも迷宮内で日照がどうとか意味がわからないけども。
ここには神秘の気配があった。
侵し難く、いるだけで不安になり、何度も振り返りたくなるようなそんな気分を煽ってくる。
不思議なことに葉擦れの音すらしない静寂が辺りを包み込んでいて、生命の気配が溢れているのに俺たちしかこの場にいないことが確信できる。
言うなれば、聖域。
白みを帯びた木肌が木暮の中で目立っていた。
おや、角猿がこの景色に妙に合っている。
木肌に既視感があると思えば、角猿の色か。
「ここって、君の庭だったりする?」
角猿は唇を剥いて歯を剥き出しにして、ガア、と聞いたことのない声を上げた。
同意する。
平地の戦いは単純すぎる。
かといって木々を抜けていくのは複雑すぎて出力を上げきれない。
それぞれの戦場に良さはあるけど、最適とは言い難い。
その点ここは丁度良い。
戦場としての面白さは唯一無二だろう。
混じりけのない全力を出せる。
嬉しくなる。
体は完全に温まっている。
感覚も極まってきている。
ここから先は完全に未知の領域。
さあ、ここからが本番だ。
全部解放しよう。
命なんてもっての外。相応しい使い方があるとすれば今。
頭の栓を、完全に抜いた。