第八十五話 覚えていて
踏破祭の歓声を後ろに、石畳を歩いていく。
呼び声が聞こえる。
「શું તમે આવી રહ્યા છો」
意味が段々わかってきた。
罵倒するような感じでは全然ない。
さっきから「早く来て」みたいなことをずっと言っている気がする。
「જલદીકર」
体調は悪くない。
十分寝てるし食べてる。
なんだかふわふわする心地。
前みたいに頭がガンガンしてるわけじゃない。
もっと平然と受け答えするうちに誘われるかのような、そしてそれが嫌じゃないような、そんな感じ。
リタ=ハインケスが言っていたことはこういうことなんだろう。
カミラさんの危惧は正しい、だが順番が違うんだ。
迷宮の呼び声を聞いたから迷宮に向かうんじゃなくて、もともとそういうやつが迷宮の呼び声を聞く。
「やあ、ヴィム」
家の扉を開けると、ハイデマリーが我が物顔でソファーで寝転んでいた。
「なぜそんな平然と……」
「裏口の鍵が開いてたからね。この状況で不用心にもほどがある」
「いや、なぜそんな平然と……」
というか裏口の鍵は閉めたはずだが。
記憶違いか?
施錠の方向を右回りと左回りで間違えた、とか?
「ラウラは?」
「屋敷の方に帰ってもらった。闇地図被害者って話がちょっと広まっているみたいで、しばらくは付き添いの人がいないと外には出ちゃいけないと思う」
「ふーん」
「だからちょっと、場合によってはラウラのことを頼みたいというか……」
ハイデマリーは冗談めかした苦い顔をした。
これはきっと引き受けてくれたってことだ。
「わざわざ貸し家じゃなくて持ち家にしたのって、ラウラの為だよね」
そして相も変わらず、その奥の意図まで汲み取っていた。
「うん」
贖罪と言うと言いすぎだ。
でも何かしたかった。
せめて先立つ物の用意くらいは。
「まあ、その……最初からそういうことを考えてたわけじゃないけど、頭の片隅にあったというか。そうなってもいいようにと」
金をぽんと渡してもラウラは受け取ってくれないだろう。
そっちよりは戻ってくるときのために管理してくれ、しばらく使ってくれと言って合鍵を渡したほうが受け取ってもらいやすい。
「君がそこまで責任を感じる必要はない、なんてことは言うつもりはないぜ。無駄だし」
「……助かるよ」
「まあラウラの側もそんなところまで責任背負われちゃたまったもんじゃないってのは……いや、そういうことも込みだよね。ごめんごめん、何か言いたくなっちゃった」
ハイデマリーはソファーで寝転んでいる状態から起き上がって、俺の方に向いて座りなおした。
ところで、ここに何をしに来たんだろう。
重大な話をしに来たような雰囲気もあるけど、あえて軽い空気を醸し出してくれているから判別がつかない。
「狐と葡萄の話って知ってる?」
突然、そんなことを言った。
狐と葡萄?
聞いたことあるような、いや、ないな。聞いたことない。
「何それ」
「なんでもないよ。灰かぶり姫は知ってる?」
「知らない」
「白雪姫は?」
「……うーん、聞いたことはある、かな? 民話みたいなやつ?」
どれも若干聞いたことあるような気がするけど、まるで中身は思い出せない。
なんだなんだ。
急にどうしたんだハイデマリーは。
「全部民話だよ。まあ、置いておいてくれ」
確認事項でもあったのか、俺に何かを伝えたいわけじゃないらしい。
「ヴィムってさ、あんまり食べ物全般得意じゃないよね。特に苦かったり、いろんな味がしたり」
「ん? ……ああ、まあ、そうだったかな。いやそんな食欲全般を否定されると違うとしか言えないけど」
「いっつも同じ物しか飲まないし食べないよね。いや、過去形か」
「うん。最近いろいろ食べられるようになった。みんなのお陰かな、へへへ」
俺がみんな、と言ったとき、彼女の顔が曇ったように見えた。
「ねえ、ヴィム」
声色の深刻さが一段と増した。
何を聞かれているかわからないけど、彼女の方には何か思うところがあるみたいだった。
「【夜蜻蛉】の人の名前、どのくらい言える?」
瞳を射抜かれていた。
ここに限っては、問い詰められる覚えがあった。
「カミラさん、はわかるよね。マルクさんとは話してたと思うけど」
「そりゃ、もちろん」
「じゃあ、アーベルは?」
「……この前話した人、で合ってる?」
俺が言うと、ハイデマリーは肩の力を緩く抜いた。
「ハンスさんは? ベティーナさんは?」
黙り込むしかない。
俺は答えられなかった。自分でもさすがに異常だと思っていた。
実のところ俺は、【夜蜻蛉】の人の顔と名前をほとんど覚えられていない。
昔から人の顔を覚えるのが苦手ではあった。
それがどんどん酷くなっている。この前やったらしいやり取りも覚えていない。
なのに俺と最初から知り合いでしたみたいな顔をして話しかけられるから、何度も混乱した。
わからない。自分の特性なのか、それともあまりにストレスを溜めすぎて頭がおかしくなっているのか。
覚えてないことだけにまったく危機感も覚えられない。
「じゃあ、行くよ」
黙り込む俺を横目に、ハイデマリーは立ち上がった。
「え、結局、なんだったの」
「雑談さ。忘れてもらって構わない」
「えぇ……」
わけもわからず聞きたい放題聞かれて終わったぞ。
なんだったんだこれは。
「カミラさんに呼ばれててね。君のことについてさ」
「あー、それは、申し訳ないな」
そう言われたら引き留められない。
棒立ちしたままさよならを言うのも難なので、せめて扉の前までついていって見送ることにする。
ハイデマリーはゆっくりと扉まで歩いて、そしておもむろに靴を履く。
祭りの夜という状況で変に昂っているのか、妙に意味深長な感じがする仕草だった。
……やっぱり、バレてるよな。
俺がここを立ち去るつもりだってこと。
「ねえ、ヴィム」
こちらを見ずに、彼女は俺の名前を呼んだ。
彼女はこうして俺に呼びかける。
普通に呼びかけるときだったり、話題の転換のときだったり。長話をよくするがゆえに生まれた定型句みたいなものだ。
「一つだけ、約束してくれ」
振り返らずに、彼女は扉を開けた。
どんな顔をしているか見えなかった。
「私のことを覚えていてほしい。できれば一日一回、私のことを思い出して」
「……なんだそれ」
ハイデマリーはじゃあね、とは言わなかった。
つまりこれが別れの挨拶の代わりだってことに、あとになって気付いた。
*
肌寒い夜。
後ろ暗いことをするにはお誂え向き。
この時間帯になれば祭りの最高潮は大分すぎたくらいだろうか。
来たのは郊外の広場で、喧噪が懐かしくなるくらいしんとしている。
街の中央からは大分離れており、逢引きしているカップルもいなければ人っ子一人見当たらない。
クロノスは俺に「殺してやる」と言った。
意味は多様に取れるが、クロノスの場合それは決闘の申し込みというのが一番近いんじゃないかと思っていた。
現に街中で人ごみに紛れて刺してきたり、暗殺者を雇うような真似もされていない。
暗殺者に関しては雇いたくても金がなかったのかもしれないけど。
高らかに○○で待つ! とは言えないだろう。
だから来たのは手紙というか、紙切れだった。
当然馬鹿正直に待っているわけもないので、遠くから様子を窺っているに違いなかった。
「来たよ! クロノス!」
夜の闇に響くように、叫んだ。
この名前を呼ぶのがずいぶん久しぶりだと思った。
そう、俺とクロノスは追放された日以降、まともに顔を合わせていない。
この前も一瞬だけ見合ったくらいで、いろいろ所業を聞きつけはしたけども、俺の方が持っている印象は昔のままで保存されている。
しばらく沈黙が続く。
風切り音とわずかに聞こえる虫の声が余計に静寂を強調する。
そして、カツン、カツンと鎧を着た人間特有の硬い靴音が夕闇から聞こえてきた。
姿を現すのを勿体ぶるように、月明かりが体の一部からゆっくりと照らしていく。
果たしてそこに見えたのは、クロノスその人だった。