第七十一話 気狂い
リタ=ハインケスは早口だった。
興味がない人ならすぐに聞き流してしまうくらいに。
でも、俺には彼女が何を言っているか理解できてしまった。
「──というわけで、君の論文によるモンスターと動植物の分類に基づいて各階層を並び替えると、見事な規則性が見い出せるんだ! ほら!」
黒板に貼られた台紙には、各階層の番号が配置されていた。
美しく、しかも概ね均等に並んでいる。
そしてこの配置に使われた論文を書いた俺だからわかる。
この配置は正しい。そして新たな事実を示唆できる。
「君なら、この並びと仮想大陸を重ね合わせた意味がわかるでしょ!?」
この人でなしの口から出る言葉を否定できない。わかってしまう。
仮想大陸というのは、広がる海に一つの大陸を仮定したとき、海流や風向きからその大陸の各箇所が理論上はどのような気候を持つのか、ということを考えた思考実験だ。
原則地下にある迷宮の階層の生態系を考察するとき、気候は考慮されない。
しかしその気候を考慮していないはずの配置において、気候が存在するとしか考えられない規則性が見出されたら?
「これは……」
「うん! 近縁種のモンスターなら北に行くほど大型化するし、淵に位置する階層では明らかに水棲、もっと言えば海獣のモンスターが増えるよ! それでね!ヴィム君、ほら、ここ。第九十八階層ね」
指されたのは仮想大陸の端。
「君が倒した階層主ってさ、海牛の類だって書いてたでしょ。でも特徴からするに違うんだよ。あれはアメフラシっていう生物が元になったモンスターだ。文献でしか存在を確認されてないんだけど、かつてはこの大陸でも西の海に生息していたらしい生き物なんだよ。見つかってないだけで今でもいるかもしれない」
意味深に大げさに、演出するように呟く。
「まあ、特にこれが何を示すとかはないんだけどね! でも、何か現実に差し迫ったことを示唆している! くらいのことは感じてもいいんじゃないかな!?」
この人の所業を忘れたわけじゃない。
今だって脅されて仕方なく話を聞いている。
「迷宮は別の大陸にある! そしてその大陸は異空間なんかじゃなくて、この現実と地続きの場所にあるかもしれないんだ!」
だけど、俺はこの仮説を斬新だと思ってしまっていた。
あまつさえ、面白い部分を感じていた。
手のひらの上だということはわかる。
だけど普通に冒険者をやっている人では出せない話だということも、また理解できてしまう。
「さて、もう話は終わりですよね? 行っていいですか?」
ハイデマリーがそう言ってくれなければ、もう少しで身を乗り出してしまうところだった。
「んー、どうして賢者ちゃんが迷宮の呼び声を聞いてないか謎なんだよね。ずっと素質があるとは思ってるんだけど」
「リタさんと違って理性が強いので。ほら、ヴィム、行くぞ」
言われるがままに手を引かれる。
了解を得られた以上は一秒たりとも長居すべきじゃない。
そうするのが正しいともわかる。もと来た階段を上っていく。
「それじゃーねー! 【黄昏の梟】を今後ともよろしく!」
背を追ってくる声は、どこまでも屈託がなかった。
*
「本当にタチが悪いよね、あの人」
郊外の道を並んで歩きながら、ハイデマリーは言った。
「自分のやっていることの雑さもわかってるからね。なりふり構ってないようだけど、ああ見えてフィールブロンを維持するためにやってはいけない範囲とかもわかってる。だから今回みたいな一見何も失うものがないような無茶は通さざるを得ないんだ。カミラさんも結局は従ってたでしょ」
「……にしたって無茶苦茶だ、あんなの」
すぐにでも思い出せる、ラウラの怯えよう。
そしてリタ=ハインケスがその直後に見せた、純粋な探究心に輝いた目。
紡がれた言葉。
「リタさんの話は一部魅力的だと思うよ、私も」
ハイデマリーはまた、俺の心底を見抜いたように言った。
「私も、って」
「そして【夜蜻蛉】に多い人種がリタさんみたいに迷宮を俯瞰することにあまり興味がないというのは、恐らく傾向としてはそこそこ的を射てるんじゃないかと思う。私やヴィムがどちらかというとリタさん寄りの人種というのも、まあ暴論だけど一部正しい」
こうもあっさり認められると、自分が馬鹿らしかった。
ハイデマリーはとっくにリタ=ハインケスの影響を客観視して、その上で退けていたのだ。
「でもね、わざわざあんな人でなしになる必要はない」
「……わかってるって」
自分の浅慮が嫌になる。
ああするしかなかったとはいえ、ハイデマリーがいなかったらもっと簡単に口車に乗せられていた自覚がある。
そのくらい俺はあちら側に親和性が高いということを、察してしまっていた。
しばらく歩くと、道のむこうにたくさんの人が見えた。
【夜蜻蛉】のみんなだ。
カミラさんもラウラもいる。無事に合流できたらしい。
「ヴィムさま!」
ラウラにギュッと抱き着かれる。
元気そうで安心した。
みんなの表情を見ても明るい。どうやらリタ=ハインケスはしっかりと約束を守ったようだった。
「よく戻ってくれた」
カミラさんは優しい声で言った。
「リタに、何か言われたか」
ハイデマリーと目を合わせる。
そして首を横に振る。
それだけでカミラさんは俺たちの間にあった微妙な空気を読み取ってくれた。
「しかしヴィム少年、君はここに戻ってきた。それは奴に立ち向かい続け、打ち勝ったということに他ならない。君は自身の正しさを証明した」
そう言ってくれると救いになるような、ならないような。
そこからの帰り道、すっかり空気が弛緩する中、カミラさんは自然に俺の傍に来て、俺だけに聞こえるように言った。
「迷宮の呼び声を聞く者はな、場合にもよるが、大抵は自分には居場所がないと感じているものなんだ」
図星だった。
そしていろんなことに符合した。
流れるような切り出し方だったけど、俺は言葉に詰まった。
「わからないんだ、ヴィム少年。私の目には君は確かに満たされているように見えた。私は君に最大限の報酬を払い、環境を用意したつもりだ。君は我々に価値を感じているようにも尊敬してくれているようにも見えたし、私たちのために自らを変えようとし、そして実際に変わってくれたと思っていた」
その通りだ。
だってそう思って、そうなるように振る舞っていたんだから。
カミラさんにもそう見えたのなら、俺にしては上出来だ。
「……息苦しかった、のか?」
だけど、本心なんて言えるわけがなかった。
角猿との闘いで気付いてしまったことなんて。
「私は、もちろん私以外の連中も、間違いなく君の相談に乗ってやれる。それは距離を取りたいということも含めてだ。屋敷が落ち着かないなら別に物件を手配する。既婚者にはそうしているものもいる。距離感だって人それぞれだ。どうにでもなる。私たちならどうにでもできる」
カミラさんは相も変わらず公明正大だった。
「だから、早まった判断は待ってくれないか」
言葉に嘘はなく、そして【夜蜻蛉】は応えてくれる。間違いはない。そこになんの疑問もない。
「……まずは心を休めてくれ。少なくとも踏破祭の間くらいは」
俺はずっと黙っていた。会釈をするくらいが限界だった。
頭が疲れた。長い一日だった。
正気を失いながら迷宮に潜って、馬鹿みたいに戦って、ラウラを見つけて、そしたら【黄昏の梟】に追われて、最終的にはリタ=ハインケスという気狂いによるご高説を聞かされた。
考えることが多すぎた。
そしてその考えるべきことは、まだ残っている。
それはもっと重大なことかもしれなくて、もし正しいなら俺は……
頭を振る。今はダメだ。
正常な判断ができるとは思えない。まずは眠らないと。
こんな状態で踏破祭を迎えるのは、憂鬱だった。