第七十話 同胞
「階層間の移動は転送陣のみでしか許されてない! 実は迷宮が地下の建物の階層構造みたいに連なっていると担保してくれるものは何もないんだ! ここまではいいよね! ……あれ?」
リタ=ハインケスは心底不思議そうに、純粋な目で訝しんだ。
「これを言うとみんな『俺もそれ考えてた!』って言ってくれるのに」
ついていけない。
言葉の意味がわからないとかじゃない。
人質までとって、あれだけたくさんの人を恐怖に陥れて始めるのが、こんな話?
「ん~」
身を乗り出して目を覗き込まれる。
「うわー、濁っちゃってるよ。【夜蜻蛉】なんかにいるからそうなるんだ。あーあ、同胞が毒されてしまった。あーあ」
忙しそうにガクンと肩を落とす。
「あ、でも賢者ちゃんは大丈夫そうだね! しっかりとあの連中とは線を引いてるんだ!」
「あなたと一緒にしないでください。単に好きな距離感でいるだけです」
「うむうむ。大変良いことだ! 問題は君だよ! ヴィム君!」
ビシッと指される。
「いい? ああいう社会に迎合しきった連中は世界の構造なんて知ろうともしないし、真実にも興味がないの。それを知るにも能わない。あんなやつらに毒されたら当たり前に見えるものが見えなくなっちゃう!」
もういい、話にならない。
「……話はそれだけですか。その、そういう歪んだ啓蒙みたいなことがしたいんだったら、後々書面にでもして送ってきてください」
立ち上がって山刀を構える。
脅されるのかと思えばそうじゃないらしい。
なら、多少の咎を背負ってでもこの人を斬り伏せることが選択肢に入ってくる。
「あー、ヴィム。リタさんを斬るのはご法度だ」
「……どういうこと」
「あの人の首にはフィールブロンの人口の数割の命が懸かってるんだ。あれでも抗争を抑える要石なんだよ。下手をすれば虐殺が始まる」
「……は?」
「だからカミラさんも手を出せないんだよ」
前を見る。
リタ=ハインケスは屈託のない笑顔でいる。
ハイデマリーの方を見ると、大人しく座れという手振りをされた。
この場ではそうするしかないと知っているみたいだった。
「もしかして、前にも?」
「まあね。勧誘されたときに似たようなことをされたんだよ。吐き気を催したからお断りしたけど」
ああもう、調子が狂う。
従うしかないのか?
でも丸きりペースが掴めない。こっちの理屈とこのリタ=ハインケスの態度がまるで釣り合わなくて混乱する。
「さっきからヴィム君は私に敵対心を抱いているよね。でもそれは甚だ的外れなんだよ? だって君も、迷宮の呼び声を聞いてるんでしょ?」
呼び声、という言葉に体が勝手に反応してしまった。
それを悟られたことも。
「どーせカミラはテキトーなこと言ってるんだろうけど、アレはね、本気で聞きたくないと思ったらびっくりするくらい簡単に聞こえなくなるものなんだ。逆に聞くには心の底から切望しないといけない」
俺の目をじっと覗き込む。
「心の鏡みたいなものだね。あの呼び声は常に迷宮からフィールブロンまで満ち満ちている。能動的に語りかけてきたことも何度かあるから、そこはまだいまいち仮説の段階でしかないんだけど」
その口ぶりから察する。
カミラさんはリタ=ハインケスに気をつけろと言っていた。それは何も身辺のことだけじゃない。
「まさか……」
「そうだよ? 私は今も呼び声を聞いている。受け入れてみればなかなか心地良いものなんだ!」
もっと思想的な、俺個人の特性も含めての言葉だった。
「だからねヴィム君。君はすでに私たちの同胞なのさ!」
この問答は俺に一方的に不利なものだと悟った。
もっと打算的なやり取りを予想していた。
でも違った。これは俺の個人的な面を責め立てるのが目的。
そして、この先のやり取りで自分がどう思うのかも、想像がついてしまった。
「さてさて、それでね、話の続きなんだけど、私たちの取り組みが基本的に何をしているか、ってことを知っておいてほしいんだ。つまり【黄昏の梟】は大量に調達した資金を何に使っているかということだね」
リタ=ハインケスは高らかに語りかけてくる。
「それはね、掘削なんだ。おっと、賢者ちゃんにはここまでは話してるよね?」
ハイデマリーは忌々しそうに頷く。
「迷宮の壁、地面、天井を掘るに掘っているんだよ。あの恣意的に閉じ込められた空間の外に、どう考えても迷宮の秘密があるに決まっているだろう? しかしこれがまあ、今までちーっとも成果が出なかった! すぐに崩落するし一瞬だけ見えたものは解析不可能な結界だしで、まあそれ自体を知れたことは多くの資金に見合った以上の成果だけどね」
釘を刺すようにハイデマリーは俺に耳打ちした。
「その掘削とやらでこれまで何万人単位の人が犠牲になってるから」
彼女が一緒でよかった、と心の底から思う。
じゃないと目の前にいる人間が人でなしであることを忘れてしまいそうだった。
「それでね! 実は賢者ちゃんを勧誘したときとは状況が変わったんだ! それは第九十八階層、奇しくもヴィム君がその手で扉を開いた階層でね! わかるかいヴィム君、第九十八階層が私たちに示した最大の事実とは!?」
名指しをされた。無視を決め込みたかった。
「ほら、答えて。じゃないとラウラは解放されないよ」
腹立たしい。
お前の抵抗は無駄だと言われていた。
そして実際に無駄だった。
頭を回すまでもなかった。
第九十八階層の特異性となれば、とんでもなく大きなものが一つある。
「“空”、があることです」
「そう! 何が嬉しいかってこれで迷宮の所在に関しての議論が明快になった! 迷宮がすべてフィールブロンの地下にある、という認識は完全に破壊されたんだよ!」
よく言われる与太話として、迷宮の構造は実際にどうなっているか、というものがある。
話の種としては単純で、より下の階層に行きたいのならひたすら地面を掘れば良いのでは? というものだ。
そして実際にそれを試した話もちらほらあって、大抵は掘り切れなかった、というオチに終わることが多い。
そこで出てきた仮説が二つ。
一つはそのまま地下説。
階層間の隔たりが人力では掘り起こせないほど大きいのでは、というもの。
もう一つは異空間説。
迷宮とは特殊な建物であり、すでにある空間を拡張しているだとかいう突飛なもの。
そして、“空”の存在はこの地下説を概ね完全に否定する事象だ。
「というわけで話はちょっと横に逸れて、じゃあどうして冒険者たちは迷宮は地下にあるということを漠然と、しかし確かに信じているのか、という疑問が出てくるよね。これは実に簡単というかしょうもない話で、第一階層が地下にあって、そしてそれ以降に転送陣で書かれた古代文字が、ここは第何階層です、ってご丁寧に書いてくれているからなんだ。つまりなんとなくの雰囲気でしかない」
リタ=ハインケスは止まらない。
「これが結構有効なの。世間様は完全に信じ込んでいて、疑っているのは一部の人間だけ、というのは我々の歩みを止める大きな枷になる。君も覚えがあるでしょ?」
そして確かに、俺にはそういう覚えがある。
迷宮に対して根本的な問いを投げかけても、誰もそれを考えていないという体験。
まるで思い出すかのように、そういう疑問を抱えていた自分が蘇ってくる。
「迷宮の真の所在についての話に戻ろう。地下説が否定された以上、転送陣は私たちを任意の場所に運んでいるだけ、ということになってくる。別に異空間を仮定してもいいんだけど、それは転送陣に加えてもう一つの不思議要素を追加することになるよね。空間をいじる魔術は今のところ存在が確認されてないし。まあそこは保留ということで我慢してくれ! 論証は厳しい!」
そう言って彼女は、軽やかに会議室から二、三歩外に出て、用意していたであろう物を持ってきた。
「はい! じゃあね、ここから先は『じゃあ俺たちは転送陣でどこに飛ばされているの?』という疑問にお答えします!」
台紙だ。かなり大きい。
「というわけで、これ! ここからはヴィム君が前まで出してくれていた研究も関わってくるよ!」
黒板に貼られた台紙に描いてあったのは、風船上の形をした図形。
「これは仮想大陸。私はね、迷宮はどこか別の大陸にあると考えているんだ!」