第六十三話 遠くが見えるようになって
氷の杖を振って声を張れば、思い通りに事が動く。
肘を支点に前腕をくるっと回して張って指すと、弧を描いて水蒸気が氷結する。杖の振りに吹雪もついてくる。
風圧で大木の幹がたわむ。あの太さでも植物にはちゃんと弾性があるんだってわかる。
敵はその風圧で為す術なく飛ばされる。反撃は意味を為さない。
私の周りの空気は制御下にあった。
飛来する物体のエネルギーは瞬時に冷却され停止する。斬りかかってくる者も同様で、何も見なくたって勝手に凍り付いて倒れてくれる。
思いつくことよりできることの方が多い。全身を動かしていると思ったら手のひらを握って開いているくらいだと気づいて、もっと大規模な魔術を使える確信が芽生えて育つ。
夢みたいだ。
力の大きさを自覚するなら、それに応じて相対するやつらも群で捉える気分になった。
そうじゃないと張り合いがないから。試せるものも試せないから。
一度だけ、後ろを振り返った。
「『ちょっと待っててね、ヴィム』」
足に力を溜めて、大きく駆けだした。
森の外には敵の本隊がいるだろう。
そいつらを叩けば、この戦いは終わる。
私にはきっと、それができる。
一歩が大きくなっていてつんのめる。なんとか反応して、地面を余計に蹴って誤魔化す。それが偶然加速に繋がる。
「『飛べたり、しない?』」
つぶやくと一歩がさらに大きくなった。
滞空時間が延びる。右、左と両脚を前後に大きく開き続ける。
これは助走だ。伏線とも言う。でも縛られちゃいない。今私が、無理やり伏線にして、弓の弦として引っ張った。
重い杖を振る。手足の振りと周期を合わせて、全部が揃う一瞬を見計らう。
「『行くよ!』」
そして私は、飛躍した。
*
葉の影を抜けて、視界が一気に拓けた。
今、上空から見たリョーリフェルドの景色は、かつて丘の上の屋敷から見ていたそれとは違っていた。
まっすぐな畝に沿ってどこまでも続いていたはずの緑の馬鈴薯畑は荒れ果てていた。緑でも茶色でもなく、見えるのは赤と黒、炎と煙である。
あちこちで火の手が上がっている。
鉄の音が聞こえる。
敏感になった鼻孔を火薬の香りが突き抜ける。
寄り合っていた小屋が破壊されている。
見たくなくても目が引っ張られてしまうような肉塊みたいなものが、そこかしこに転がっている。
局所的なものには見えなかった。地平の果てまでその景色は続いていた。
争奪戦だとか、小競り合いとかじゃない。
戦争だ、これは。
賢者の依り代の話が本当なら、こいつらは私を狙ってこんな殺し合いをしていることになる。
なんて、なんて──
大きく跳んだだけだから、落下が始まっていた。
──むかっ腹が立つんだろうか。
私をどうにかできると思われているようだった。大掛かりなことさえすれば、私の力と人生を利用して思い通りにできると目論まれている。
「『浮遊……は、できる?』」
そう言ったら、落下の速度は緩んだ。
なるほど、大きく跳んで滑空はできるけど、浮遊とか飛行はまだまだ難しいらしい。
魔術の限界ってやつなのかな。
飛べないのは残念だけど、ようやく力の輪郭が一つ見えたから、落ち着く部分もある。
ゆっくりと戦場に降り立つ形になった。
私の右にいるのは、たぶんこの国の軍隊で、左にいるのはちょっと違う信徒っぽい感じの部隊。こいつらは鉄仮面で顔を隠している。
その時点で彼らは私を注視していなかった。意識に留めてもいない上からぽつんと小娘が降りてきただけだったから。
「『あー!』」
声を張る。
「『あー!』」
二回目のあー、は一回目と比べ物にならないくらい大きく響いた。
「『私はハイデマリー。君たちがお求めの賢者の卵だよ』」
軍隊はようやく反応を示す。
唖然としているのが半分、ざわついているのが半分、といった具合。
「『ごめんね、もう起きちゃったんだ。だから戦いはおしまい。ほら、帰った帰った。たしか、〝繭〟の状態じゃないと意味が薄れるんでしょ?』」
言っている途中で、矢が飛んできた。
その矢は停止して、垂直にすとんと落ちる。
地面に綺麗に転がって、矢印みたいに指していた。でもその指す方向は私の方ではなくて、ややズレて肩の斜め上を通る塩梅。
遠慮がちな意味合いが見えた。
威嚇射撃、というやつだと思う。
「『ふざけんな』」
確かめるように攻撃するなんて無礼の最上級だ。
杖の先に球が渦巻いた。雲になって雹ができて、前後左右にまき散らされた。
さっきの矢を逆探知して、そこを起点に樹形に氷結した。狙ったのはあくまで武器で、弓と矢と剣を凍り付かせた。
前列のやつらはこれで戦闘能力を失ったはずだ。
でも、迎撃準備、という声が聞こえてしまった。
撤退の意思はないらしかった。
相対していた軍隊は私を共通の敵と定めた。
銅鑼と笛が合図になった。
左右から壁が押し寄せてくる。私よりもずっとずっと背の高い大人の男どもが叫んで、合戦の勢いで圧し潰そうと向かってくる。
そんな性急で大雑把なものだから、こっちも相応に応じる。
両手で杖を固く握って、回転する。イメージは大剣を振り回すように、大質量の不揃いの氷を順次生成して前後左右に撃ち出した。
「『吹っ飛べ、雑魚ども』」
兵隊たちは吹っ飛んだ。箒で落ち葉を払うみたいだ。
もう一回転、してみる。
「『蹴散らせ』」
人体がまたも舞い上がる。
何度も、何度も、撃って、払って、ついには私は駆けだしてやつらを一掃しにかかっていた。
正直な話、面白い。
力が通用するどころじゃない。こんなにも簡単に、私に押し寄せてくる脅威を排除できる。
募っている苛立ちと昂揚の区別がつかない。力は使いこなすほど増幅する。
「『切りがないな! あと何回、どれだけ吹き飛ばせ』」
いつの間にか、口が引っ張られる感触があった。
むしろ馴染む。引っ張られるというより、つい言ってしまう。
私の魔術は次の段階に来ていた。
「『もう、終わりにしよう』」
大丈夫さ。
こいつらはとても弱いから。私の氷を弾くことなんてできやしない。
そのためにどう動けばいいのかわかった。ちょっと違うかも。どう動くことにすればいいのかがわかる。
無造作に質量を扱ったことで、私はようやく自分の力の全容を掴んだ。
試してみたい。全力を。すべて出し切ってしまいたい。
杖を地面に突き刺した。
刺さった尖から根みたいに地中に杖を広げて、土地そのものを掌握する。
自分が何かこの世界で異分子みたいに思うのが間違いだったんだ。
漏れ出る発音には一切の恣意性がない。
転がした石がぴったりと穴に嵌まって、そのまま地面になるような。
魔術ってもともと、そういうものなんだと思う。
これは私の言葉。
周りが話していたのを真似したんじゃない。歴史が紡いだものを学んだわけでもない。
「『氷の冥府』」
土木に含まれていた水分が一気に膨らんで氷結していった。
地面が体積の膨張に耐えきれずに割れて、爆発痕のようにめくれあがっていく。
遅れて空気が弾かれて、ぶわっと吹いた。
巨大な質量が一瞬で氷結すれば、キン、と音が鳴るらしい。
甲高い。あらゆる物質の断末魔の叫び声。
何も聞こえない。この世界に私だけしかいないみたい。
この日私は、リョーリフェルドを凍らせた。
*
ようやく慣れた歩幅を最大に使って、森の中まで走って戻った。
「『ねえ、ヴィム!』」
ちょっとの移動ですら力を使いたい気分だ。
これは戦士と同じ肉体の強化。一歩一歩でぎゅんぎゅん加速するし、木の幹にぶつかりそうになったら手で押さえて、またぎゅんと方向を変えて無理やり避ける。
運動のエネルギーというやつが波打って手足を行き来しているのがわかった。これはきっと扱えるエネルギーが大きくないと感じられない感覚だ。
戦いが終わって緊張が解けて、肩肘の力を抜いて練習をするような気分になっている。今でさえ上達している。
楽しくて、たまらない。
「『見てたかい!? あのね! 私、動けた!』」
一直線にヴィムが待っている場所まで向かおうと思っていたけど、自分が凍らせた森で景色が変わっていたから、ちょっと迷いそうになった。
そして迷いながらも、その景色の壮観さに自分で感嘆する。
この景色は全部、私が作ったんだ。
「『動けたんだよ! 自由に! 初めて!』」
行きたい場所にはすぐ着いた。
私のヴィムは木の幹に背を預けて項垂れていた。
てっきり力なくあぁ、とかうぅ、とか返してくれるものだと思っていたら、どうもピクリとも動かない。
無理もない、あれだけ頑張ってくれたんだ。
駆け寄って、しゃがんで、顔を下から覗きこむ。
目をつぶっていて、意識はないみたいだった。
顔もずいぶん様変わりしている。頭の隅にはもしかしたら他人なんじゃないかって過ってしまっているくらいだ。
土のような顔色をしていた。肌に張りなんてなくて、老いた魔女みたいによぼよぼになっていた。
「『ずいぶんしわがれちまってよ。治るのかな、これ』」
治るのかな、って言いながらも、治せる確信がある。
魔術師の魔術に戦士の肉体を得て、神官の癒しを行えない道理がない。
早く治してしまおう。ゆっくり休んで、休みながら、いろんな話をするんだ。
「『聞こえるかい、ヴィム。たぶん言霊みたいなやつを送るぜ。ちょっと原理の方は……癒しで原理不明なのはさすがに不味いかね?』」
言わなきゃならないお礼がいっぱいある。謝らないといけないことも。
責任だっていくらでも取ってやる。
私は未来に想いを馳せることさえしていた。
形は違ったけど、私たちは力を手に入れた。あのとき潰えた冒険の続きは目の前に開かれていた。
きっと私が先陣を切って迷宮を進んで、ヴィムが半ば咎めながらついてきてくれるんだ。そのくせいざとなったらこいつはどうせ無茶をして、間一髪のところで──
「……ヴィム?」
ここにきてようやく、なしの礫であることに思い当たった。
自分が一方的にまくし立てていたことが際立って、やってはいけない楽観をしていたことに気づく。
昂揚していたからか、自分が得た力に酔っていたからか。何もかも思い通りになると思ってしまったから、あらゆることに力が及んで事をうまく運ぶような錯覚をしていた。
口元に手を当てる。冷たかった。それは私が凍らせた森の冷気からくるものじゃなくて、体の芯から温度が生み出されていないがゆえに感じる、底知れない冷たさだった。
ヴィムは、息をしていなかった。