第五十六話 第二次防衛戦線
最初に森に侵入してきた集団は三つだった。それぞれ一定の距離を保ちつつ別々に入ってきている。
一つは隣国の軍隊だ。青い軍服を着ているからわかった。
残り二つはわからない。一つは鎧を着たまたどこか別の軍隊。もう一つは軍隊と言うよりは特殊部隊と言うべき、軽装の集団だった。
少なくともジーツェンの黒髪盗賊団ではない。まだ時間がかかっているのか、情報を集めているのか。それとも諦めたのか。
注意しなければならないのは、焦ってはいけないということだ。
攻撃をしてしまったら森の中に潜伏していることが看破される。
まだすべての軍隊が森に向かって来ていないということは、やってきている三つの集団はあくまで確証なしに先んじて来ているだけのはずだ。
俺がむこうの情報をまったく持っていなくて、どこの所属かわからないのと同じように、むこうも俺の情報を持っていないはず。
だからしばらくは戦う必要はない。最深部に到達されない限り泳がせるのが基本になるだろう。
妨害するとしたら、巧妙に、だ。
*
隣国の軍隊は荒い隊列で森に入ってきた。
俺は彼らの側面に回り込んで、観察に徹する。
できれば情報を拾えないかと耳を澄ませたが、聞こえてきたのは外国語だった。何を言っているのかわからない。
しかし様子を見るに、厳戒態勢を敷いてゆっくりと行軍していくというよりは、逃げた鹿を駆るかのような散策具合だった。兵隊たちは緩い支持の中で木のうろを見たり、岩陰を確認したりしていた。
どの程度だ。どの程度把握されている?
子供が賢者の卵を連れてここに逃げ込んだかもしれない、というぐらいか。
まだ森の最深部までは遠いから、ちょっかいは出さない方がいいか。
しかし、むしろ好機だと思いなおす。手段は一つでも多く欲しい。
隊列の一番端の端、のほほんと落ち葉をめくっている弓兵に狙いをつけた。
弓兵であるというだけで、職業持ちではない常人であるということがわかる。
魔術師ならば遠距離攻撃を魔術で行えるので弓は必要ない。戦士なら、よほど巨大な弓でもない限り特別に弓を武器として扱う利点もない。付与術師はそもそもいない。
だから、こと遊撃戦においてじわじわと戦力を削っていくなら、狙うべきは弓兵なのである。
……という仮説を、今立てた。
落ち葉を踏まないよう、固い木の根の上だけを伝って、たん、たん、と跳んでいく。一跳びごとに身をかがめ、見つからないようにする。
弓兵に最も近い大木まで辿りついた。反対側の、隠れられる影のある大木にも目星を付けた。
あとは、飛び出すだけ。
弓兵を見る、他の兵隊の視線も確認した。
大丈夫だ。会話もしていない。彼は誰からも見られていない。
しかし体が動かない。
防衛のためとはいえ、初めて行う積極的な加害に、尻込みしていた。
耳の裏で心臓が鳴る。相手との距離が近い。動くのは口だけ。
「『我が身に宿れ』」
だから、唱えた。動き始められる勢いがついた。
見られるのはほんの一瞬だけにしたい。できれば猿か、猛禽類の仕業だと思われたい。
息を止めた。
落ち葉を踏むのは一回だけ、と定めた。
木肌を蹴った勢いで、山刀で弓兵の喉を横から刺した。
断末魔が上がらなかったことに安堵し、絶命した弓兵と一緒に、静かに優しく、落ち葉の上に着地する。
すぐさま山刀を抜いて、矢筒と弓を拝借する。
そのまま跳んで、軍隊からは死角となる大木の裏に隠れた。
「……ぃっ!」
ぎゅん、と肺に空気が入った。激しく呼吸をするあまり音を立ててしまいそうだったから、口を押さえた。
──案外、うまくいくもんだな。
音が戻ってきて、音が消えていたことに気付いた。聞こえたのは激しい外国語。見れば、弓兵が殺されたことが騒ぎになっていた。
探される前にその場を離脱する。強化された全身で、できるだけ落ち葉を踏まないように、根の上から根の上、ときには木にぶら下がって、猿のように跳んで行った。
強化が体に馴染んできているかのような錯覚を覚える。
感じる痛みから逃避するのが、却って集中力に繋がっていた。そして痛みを遮断し己の感覚を取り去ったことで、純粋に強化の作用を予測し機械的に体を操る動作の取得ができたようだった。
昂っている。
先刻まで不可能だった動きが実現しているのが楽しい。浮遊感と加速感、減速感がヒリヒリする。
快さの反面、ああ、人を殺したんだな、と思った。
そこそこ無機質だった。大義名分があったから。
それよりも、思い当たったのが一つ。
弓兵は職業持ちじゃないと仮説を立てはしたものの、そういえば神官は戦士に次ぐ肉体の強化幅を持っているんだった。
近接の訓練をしていない場合に、普通の弓と大きさが変わらないくらいで固く張った弓を携えるのは、まあ理に適っている。
というか覚えがある。神官の装備として弓矢はそこそこ一般的だ。
「……あっぶね」
どうやら今日は、運がいいらしい。