第四十七話 付与済み
浮遊していた賢者の依り代が、初めて不自然に、ぴくりと動いた。
俺が何を考えているのかもすぐにわかったようで、少し醸し出された憂げな雰囲気から一転して、中立的な、素朴な声に変わった。
『同胞を、ハイデマリーさんを、救いに行くつもりですか?』
「……はい」
わずかばかりの間があった。依り代に手足があるのなら、一瞬だけ顎に手を置いたかのような時間だった。
『今あなたにできることはそれしかない、その発想はわかります。しかしおすすめはしません。職業持ちとはいえ、付与術師の戦闘能力は疑わしい。ましてや職業取得後にすぐさま命を賭した行動に出るというのは、あまりに勝算がない』
理性的な正論をぶつけられる。
もちろん、その通りである。
戦士の職業をすぐに取得できるならわかる。筋力が数十倍になれば訓練抜きにできることも増える。魔術師も同様。もしかすると神官も。
付与術師が一人増えたところでなんになる、当然の疑問だ。
「あの……賢者様ならご存知かと思うんですけど」
俺とて、そこまで何も考えていないわけじゃない。最善を尽くしたという言い訳に終始するつもりは毛頭ない。
具体的な案が、ある。
「列なり馬車って、その……フィールブロンに行くための、あの激しい馬車ですけど……あの、奴隷列車って呼ばれている。あれに乗ったことがあるんです」
そう言った途端、また賢者の依り代はぴくっと動いた。
俺の事をちゃんと意志をもって考えられる主体だと、認めてくれたみたいだった。
「あの御者って、付与術師ですよね? あの馬はきっと、付与術で強化されている」
『……よくわかったね』
やはりか。
『確かに、列なり列車の御者は付与術師だ。戦争や迷宮攻略においての戦闘で大きな役割を持てない付与術師が未だに四大職業に数えられているのは、偏にあの革命的な移動手段の需要に依るところが大きい』
「だから……その、教えてさえいただければ、できることは……その、あるかと。追えますし、最悪、やつらに突っ込みさえすれば混乱を招くことくらいはできる」
考えたことを言い終わって、賢者様に向き直る。
即興の案だから現実的な妥当性はわからない。しかし賢者様は魔術の専門家。その膨大な知識によって、もし可能であるならば俺という駒を最大限使う案をくれるはず。
「付与術師の詠唱を、発行してください」
さあ、どうだ。
『……あなたたちは、やはりそうなのですね。当然と言えば当然です。私たちがそうであるように、魂は決定的に、運命に選ばせるかのようにふるまう。ふるまわせてしまう』
賢者様は少し、この場にそぐわない、余計な何かを考えたように見えた。
それはまるで、黄昏れるような。
『いいでしょう。詠唱を発行します』
*
先刻、魔術師の詠唱を発行したときとは、まるで違う雰囲気だった。
『覚えてくださいね。
我は居る
七つの海を経た大陸の
そのまた東の山脈の
鶏の足の上に立つ小屋に
素は埒の外に在り。
汝 ふるまうべし 装うべし
統則の遵守に 正しき礼節 清らかな魂を
今諒解する
付与済みであると
ほら、言ってみなさい』
「……すみません、もう一度お願いします。覚えられなかった……です」
『いいえ覚えています。諳んじて言ってごらんなさい』
「いや、どうい──」
──うことかと、聞こうとした。
俺は確かに、詠唱を覚えていた。
『適性とはそういうものです。あなたの性は自身の意志を打ち砕き、赴くままの運命を切り拓いた』
不思議な気分だった。
『だからそのまま、言ってみなさい』
頷く。
「『我は居る
七つの海を経た大陸の
そのまた東の山脈の
鶏の足の上に立つ小屋に』」
口が勝手に動く。馴染みが良い。最初から知っていたかのように、すらすらと出てくる。いや、それに留まらない。
「『素は埒の外に在り。
汝 ふるまうべし 装うべし
統則の遵守に 正しき礼節 清らかな魂を』
俺は告げられた詠唱の違和感にすら、気付き始めていた。
恣意性があったのだ。
これはそのままの形じゃない。
まるで故郷の言葉を、無理やり都の言葉遣いに合わせているかのような。
「『──骨と皮にまで痩せこけて
右手には杵 左手には箒』」
俺の口からは勝手に、さっき賢者様から聞いた言葉とは別の詠唱が漏れ出していた。
「『私は呪文の如く──』」
『それ以上はいけない』
ローブの端が俺の肩を叩いた。
『やはり辿り着きましたか。でも、ごめんなさいね、大人の事情なのですけど、それは内緒なのです。だからちゃんと、教えたとおりにお願いします。言葉は同じですから』
何を言っているかはわからなかったけど、知らぬ間に動いた口を止めることを求めらているらしかった。
「『今諒解する』」
呑み込むと、お腹の中にぽこんと何かが生まれたのを感じた。
筋肉と骨以外のすべてが作り替えられていく。痒さが痒さと感じないくらい同時に一気に湧き上がって、痛みともつかぬ何かが吹き込むように膨らむ。
そしてそれは、自ら押し込めるように収縮した。
「『──付与済みであると』」
儀式が終わったとわからないくらいの変化のなさ。精々息を長い間止めて、吸ったくらいの解放感。
喉の奥から、ひひっ、と声が漏れた。