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第三十三話 迷宮潜

 冷たい風がぶわっと吹いたみたいだった。

 強風の中に放り出されたのかと思ったら、まったく静か。


 ハイデマリーと横目で見合う。


 着いたのか、と確認して、肩透かしになる予感にちょっとだけ恐怖する。


 だけどそんな心配なかった。時間差で実感が来た。


 鳥肌がぞわぞわっと立つ。肌の表面を境に内と外が完全に不連続になっている。


 異界だ。


 暗い。洞窟の中にいる。だけど閉塞感はなし。

 果てない空間に閉じ込められている。


 冷気の源は水分らしかった。

 鍾乳洞……という言葉が後から出てくる。まるで人の手で芸術を目的に輪郭を描いたような洞窟。


 ぴちょん、と水が落ちる音。延々と反響している。遠くからは原型のわからない音が響いてくる。


 百科事典(ブリテンニカ)の一節を思い出す。


 雨風で削られたものは自然になっていくが、その先は超自然に、不自然になっていく。



 ここは迷宮(ラビリンス)第二階層。



 視界の隅々に蠢くものがいる。蟹か(さそり)か、藻か触手か、遠近感が狂ってわからないけど、きっとびっくりするくらい大きい。


 フィールブロンには精々欠片が散りばめられていたくらいだったらしいことがわかる。全部はここから始まっている。世界の何か不思議なものはここで生まれている。


「さあさあ、走るぞ!」


 味わっている暇はない。転送陣からはもうすぐにでも追手がかかるはず。


 どこに行くかわからないけど、二人で駆けだす。


 地面が思ったよりも柔らかい。いや、めちゃくちゃ固い地面に一層だけ柔らかい泥がある?


「どこまで行くの!?」


 声が響く。


「どこまでも!」


 計画なんて立てられないだろうという話で無策でやってきた。それが正解だった。こんなところ、何か知ったかぶって来る方が危ないに決まっている。


「あ……でも!」


 彼女は何かを思いついたように言った。


「帰りは考えなくていいなこれ! あいつらどーせ捕まえにくるでしょ! それに私たち、遠くまでなんて行けっこない!」


 溌剌に言い放った等身大の諦めに、唖然とする。

 ハイデマリーらしくない、という俺の反応はすぐに気取られてしまう。


 子供の立場に完全に甘えきる覚悟を決め込んだわけだ。


 ……いや、かえって潔いかも?



「さあ行くぜ 正真正銘の冒険の始まりだ!」



 気持ちの良い声が、深奥に届くんじゃないかってくらい反響した。





 石筍の林を越え、脇見した滝に半身を濡らされながら走る。


 虫が飛んでいる。甲虫かと思えば大きな蚊。目に見えるくらい太い針、絶対に刺されたくない。


 石の床を割って根を張る大木が、蔓のようにうねる幹を巨石の塔に絡ませて私たちの行く手を阻んでいる。水たまりくらいに大きな葉っぱの隙間には対の光が隠れていた。私たちを狙っているのかもしれない。


 その幹は何本もあって、中でも一番乗り越えやすそうなところを越えるべく足をかけてみると、ぐにんとした感触を覚えた。


 ビクッとなってすぐに掌で触って確かめる。


 ひんやりとした感触の奥の、温さ。


「どうしたの、ハイデマリー」


 ヴィムが聞いてくる。


「やべえかも」


「……何が?」


「鱗だ、これ」


 地響きがした。


 ひとりでにぐんと持ち上がった。


 私は後ろに飛ばされかけて、ヴィムがなんとかこける寸前で止める。


 魔獣(ボア)のときなんかと比べ物にならない巨大な怪物がそこにいた。


 蛇だ。


 とぐろを巻けば家よりも大きいであろう蛇が、メキメキと音を立てて私たちの方に鎌首をもたげている。


「死ぬ気で走るぞヴィム。じゃないと死ぬ」


「……それ、どっちにしろ死ぬのでは」


 全力で駆けだした。


 走ってきたばかりだからすぐに肺が痛くなった。でも止まるわけにはいかない。


 死ぬ。絶対死ぬ。


 また絶景が隣で過ぎていく。


 目が慣れて天井に散らばる鉱石たちの明かりも見え始めた。青い光が水と反射して網目模様を作っていた。


 巨大なモンスターなんてごろごろいた。私とヴィムがドタドタと隣を駆け、蛇が追いかけて通り過ぎてようやく寝返りで反応するくらい。


 なんだここ。


 全身に生命力を浴びているみたいだ。



「楽しい! 楽しいぞヴィム!」


「それどころじゃないって!」



 自分から自信をもって浮足立っている。呼ばれているんじゃない。向かっている。



「来たぞ! 迷宮(ラビリンス)に!」



 やはり私は、間違ってなんていなかった。


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― 新着の感想 ―
ハイデマリーも呼ばれていた頃は死ぬまでのスリルが生きてる実感として楽しかったんかな
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