第十話 接近遭遇
後ろ足が二回、払われたらしかった。
急転直下である。
何か堂に入るために助走をつけたり、覚悟を決めたり、集中したりする時間なんて、その瞬間になれば微塵もなかった。
私は右側に駆け出した。魔猪は突進を始めていて、その鋭い牙で私を突き刺そうとしていた。
私は魔猪から目を切っていた。頭をひねったままではとても避けられないと決め付けた。
仮定は二つ。
森の中では私の足はそこまで速くないこと。
魔猪は突進の向きを変えられるということ。
だから、頭の中で魔猪の動きを予測して、私との間に大木を挟んで盾にするしか回避の方法はないように思われた。
目につく一番大きな木の後ろに飛び込んだ。
ほとんど同時。
大木にひびが入る音を初めて聞いた。思ったよりも高いピキって音がなって、パンと破裂するような音がして、その下にずっしりくる鈍い振動で、直接は当たっていないのに飛ばされてしまった。
体勢を立て直す。倒れてくる木が目に入る。
前回りで受け身を取りつつ避ける。こんな技術が役に立つなんて思わなかった。
無我夢中だった。
パッと映した視界。切り取るように状況が止まっている。
折れた大木はもはや私の盾としては機能しない。魔猪は衝突を痛がる様子はなく、すぐに私を追い立てるべく力を溜めている。
遭遇から今まで、私は息を吸っていなかった。
どうしてここまで動けた?
そんなもの、妄想していたからだ。フカフカの暑苦しいベッドの上で、何度も何度も動き方を考えたからだ。
ああ、だけど、実際に見ると当然違う。
大きさは想定通りなんだ。巻き尺で部屋の壁に描いたくらい。力が強いのも知っている。
それよりも大きい。全身筋肉の塊。極太の四肢の毛皮の下には蠢く筋肉がはっきり感じられる。
私みたいな小娘とは差がありすぎるんだ。
逃走の算段が勝手に始まる。元来た道を帰るつもりになる。何本盾にできる木があるか考える。
勝てるわけが──
「ざけんなコラァッ!」
発奮する。
叫ぶ。
威嚇する。
「おまえがっ! 敵なんだな?」
めらめらと悔しい気持ちが膨らんだ。鞄にかけた鉈を持って、相対した。
ああもう、ずっと、ずっとだ。
生まれたときから私の周りには柵と壁ばっかりだったんだ。叩いても殴っても壊れやしない。暴れてたら変なやつだって言われるんだ。無知蒙昧で勇気のないやつらが白い目で見てくるんだ。
煩わしくて、仕方ないんだ。
「私を止めてみろよ! ぶっ殺してやる!」
頭の中で血がぐるぐる回る。
やつは突進してくる。
人間もそうだけど、まさか一歩目から最高速度に乗れるわけじゃない。ある程度の助走が必要で、逆に言えば走り始めは回避が容易なはずだ。
なら、安全策はかえって、肉薄。
折れた大木を左手で押さえるように跳び越す。魔猪が突進しようとしていた反対の脇に躍り出る。
がら空き。
狙うべきはどこ? 胴体? 無理。あんなの針の一刺しにもならない。
脚だ。大事な大事な後ろ脚。
「あああああああああああ!」
鉈を思いっきり振りかぶり、投げつけるように叩きつける。
入った。確かに、当たった。
鉈の柄は手から離れた。魔猪は叫び声を上げた。
そしてわずかに、身震いした。
次の瞬間、私は宙に浮いていた。体の重さが急に消えた。
遅れて頭から何かにぶつかって、次に胸を思いっきり地面に叩きつけられた。
「カハッ!」
肺から空気が全部抜けた。目がチカチカして白くなった。口の中に土が入った。
立ち上がらないと。殺されてしまう。
まだ意識は生きている。痛いし熱いけど胸の奥から湧き続けている。
「いてえ! いてえよ!」
荷物は全部どこかに飛んだ。
奇跡みたいに立ち上がれた。魔猪はこっちに向き直っていて、その両眼にははっきりと怒りの色があった。
「ピキャアアアアアアアア!」
咆哮。後に唸り声。絶対に殺してやると言われている。
「くそがっ! くそがくそがくそがっ!」
武器なんて何もない。勝算もない。心だけで立っている。
クソみたいな人生だ。
こんなところで死ぬのか。
まだ何も成し遂げちゃいないのに。
先走った冒険ごっこの報いか? まだ本当の冒険もしてないのに? 調子に乗った馬鹿の死に場所?
ざけんな、ぶっ殺してやる。
足元の石を手に取る。もう逃げるつもりもない。完全に血が上っている。
「あああああぁぁぁぁ!!!」
おかしくなった私の頭は、やつと刺し違えてやるつもりになっていた。突進されるかなぶり殺される瞬間をよけずに、真正面から目を潰してやろうと思っていた。
だけど、魔猪は私の方を向いていなかった。
やつが向いていたのは私の方ではなく、私から見て右側の空間だった。
その奥に、人影があった。
ピューイ! という指笛の音が聞こえた。右側からは小石が飛んできていた。
遠目からでもわかった。
ヴィム=シュトラウスだ。
あいつ、拘束を抜けて私の方にまで追い付いたんだ。
そして、何をしようとしている?
彼の背後には大木があった。魔猪は挑発に乗って既に突進を始めていて。
彼はまったく、足を動かす素振りがなかった。
「……は?」
囮で死ぬ気か? 自分の体を餌にでもしようってか!?
「馬鹿なことをするな!」
その危機のわりにやけにゆっくりで、落ち着いていて、ヴィム=シュトラウスの行動はあまりにおもむろだった。
彼は背後の大木に垂直になるように、持っていた山刀の柄の先をぴったりと木肌に付け、狙うように剣尖を魔猪の鼻先に向けた。
柄をしっかり握ってズレないように。自分も木に貼り付いて。