第一話 書庫の幽霊
ヴィムがどうしてあんなにも卑屈かと聞かれれば心当たりはたくさんある。
まず環境と人間関係だし、それから事件に、あと適性とか。外部要因はいくらでも挙げられる。
しかしそのうちの何を選んでどう吸収するか、という話になれば本人の資質が大きく関わってくるだろう。
まったく同じ環境にいればまったく同じ人間に育つなんてことはありえない。
人は経験をつくり、経験は人をつくる。その相互作用によって人格は形成されて──
まあ鶏が先か卵が先かみたいな話だ。決着はつくわけもない。
だけど私はヴィムの盟友として、幼馴染として、あえてここで鶏が先だと言ってみたいと思う。
ヴィムは最初から、割とあんな感じのやつだった。
◆
──父と子と、精霊の御名によりて、エイメン。
一通りの説教が終わって、偉そうな神父はくたびれた表情で両手を合わせて目を瞑った。
終わったのか、終わったのか、と平行に並べられた長椅子に座るガキどもがそわそわっとし始める。
だけどここからちょっと長い。あの神父はここから黙祷でロザリオの一鎖を進めやがるから、しばらく待って祈ってましたという顔をしなけりゃいけないのだ。
というかあの神父、チラチラと私の方を気にしている。
大方暴れ出さないか心配しているんだろう。大人しく話を聞きにきたのだからそんなことするわけもあるまいに。
……まあ、この前大反論はしたけどさ。
礼儀くらい弁えているので、黙って待っていた。
「マリー、何読んでるの」
「上巻。あの神父テキトーなこと言ってやがった。あとマリーと呼ぶな」
神父曰く、約束された民は本当はさみしかったので、約束された地を自らの部族以外の民に明け渡したらしい。
みんな仲良しで一緒。変に尖っちゃダメ。平和と調和で万歳万歳。
しかし聖書の上巻で書いていたことはまったくもって違うのである。語り口はそんな風じゃない。勝手な神父の解釈で可愛らしい感じに書かれてしまっているのである。
「いいじゃんマリー。可愛くて」
「可愛いのが嫌なんだよ。ハイデマリーで頼む」
「マーリーィ!」
「……勝手にしろ」
神父が目を開けて言った。
「主は皆さんと共に」
「「「またしさいとともに!」」」
お決まりの挨拶と共に日曜学校が終わり、ガキどもは一斉に十字架と反対の方向に走り始めた。
ここはリョーリフェルドの教会。毎週日曜日のミサのあとには子供たちが集められて、神父から主の尊い教えを学ぶのである。
「そんじゃ私も行くかね」
聞きたいことは聞いて感じもわかったので、立ち上がる。
本来は日曜学校なんて来るガラじゃなかったんだけど、最近ちょっとだけ聖書を読まなきゃなって気がしたから、話を聞いてみたのである。
パイプオルガンの前に置かれた祭壇の方を一瞥する。
金色の食器と、千切られたパンにワイン。それをいそいそと片付ける神父。
中でもいっそう丁重に扱っているのが、天秤。通称“賢者の秤”。あの祭壇の上にあるものの中で唯一ちゃんとした機能を持つ魔道具だ。
ガキ相手に眉唾ものの教えを振り撒く愚か者が何か金品をしまっているように見えたのでたいへん浅ましいとは思うが、それでもまあ世話にはなった。
というわけで一礼して振り向く。
「マリー、どこ行くの」
「書庫。聖書返しに行く」
◆
教会の階段を一つ降りて地下。私がのそのそと歩いていくとティナがついてきた。
主の教えを分析してやろうなんてしないと書庫になんて行く機会がないだろうから、珍しく映ったのかもしれない。
神父の説教というのはボーっとしていたら面白くもないものだが、神学の根本である聖書というのはわりとしっかりはっきりしていて、歴史書として読める。これが案外面白かった。
主の教えを記した聖書は上巻と下巻に分かれている。
下巻の方が五百年くらい後にできたもので、今の主の教えの大きな部分を担う。対して上巻は下巻の原点と呼ぶべきものだけど、もうちょっと民俗信仰的な言い伝えの色が強いというか、猟奇的で一々人を生贄に捧げたりする。
個人的に私が好きだったのは、上巻では主人公を務める約束の民たちの考え方。
──選ばれし民は我々。来るべき日、異教徒には神罰が下る。
偉そうも偉そうである。自分がその民族であるからという一点張りでなぜか救われると思っている。だから他の民族に嫌われたし、虐げられたし、奴隷にもされて苦しみ続けた。
その民たちの中で、選ばれし民ということを他の民族にも当てはめようとした救世主が現れるのが下巻である。
この救世主が約束の民の教えを手広くしたお陰で、今の主の教えというのは大陸中に流布されることとなった。
さてはて、この約束の民は下巻で救われたのでしょうか。
そんなあたりの話が気になったから、ちょっと勉強することにしたのである。
「ねえねえマリー」
「なんだい」
「そんな分厚いの読んだの」
「まあね」
「面白いの?」
「そこそこ」
話していると書庫に着いた。
重い扉を引いて開ける。あんまり空気が入れ替わらないように、書庫の中は風通しが悪くなっている。窓も小さな磨りガラスの枠が一つだけでうす暗い。
えーっと、聖書の本棚ってどこだったかな。
見回す。すると気付く。
先客がいた。
「げっ……ヴィムじゃん」
ティナが囁くように言った。
黒髪のチビが、地べたに座って、自分の胴体より大きな表紙の百科事典を開いて熱心に耽るように読んでいた。
私たちが目を遣ってもまったく視界には入ってないらしかった。扉が閉まるギィという音が響いてようやく、彼はこちらに気付いた。
「……ひっ」
何かこう喉から音を出して、彼は本棚の向こうに消えてしまった。
横のティナを見れば、手でしっしっ、とやらないまでも、いやーな目線を送っている。
「マリー、あの子と暮らしてんでしょ……?」
「いやまぁ、広く言えばそうだけどさ」
「私絶対やだよ」
「……そうかい」
それを見て私は、なんとなくもやぁっとした気分だけを覚えて、でもティナが弁えてないわけではないから、ぶつけようがなくて黙っていた。