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温室に暮らす彼女が思う彼の抱く恋心に関する考察とそれに伴う弊害について

作者: 楽描ばぁど

 やっぱり恋心なんてのは碌なものじゃない。


 「恋」と「恋心」ってのは似てるようで違う。「恋心」っていうのは『恋であって恋ではない』、全く別の何かだ。


 じゃあ何かっていうと、しいていうなら『恋に恋してる』っていうやつ。

 テレビの中でも、学校という若者ばかりが集まる会社の中での恋愛話に出てくるような、見ていてやきもきするむず痒さをニ文字で簡潔に表現したもの、それが恋心だ。


 つまり今、彼は恋をしている訳ではなくて、自分の心の中に抱いた恋という幻影に恋をしているに過ぎないのだ。


 今の彼は想い人に左右されてるわけじゃない。自分で生み出した恋という妄想、未だに胸の内から一歩も外に漏れ出していないその自己発信の幻想に振り回されてるに過ぎない。言うなれば、恋をしてると勘違いして一人相撲してるだけなのだ。


 私は別に、彼が恋心を抱くことを悪いことだとは思っていない。構って欲しいと思っていてもいざ構われるとすぐに面倒になってしまうように、どうしても食べたかったものなのに差し出された途端に感動が薄れて感謝の気持ちも湧かないように、恋は成就するまでの恋心を抱いている時が一番楽しいということもある。そんな気持ちを彼が私以外の女にどれだけ抱いていようと私の知る所じゃない。



 だけど今、私がここまで彼の恋心を貶すのは、私が彼の恋心の被害者だからだ。彼が恋心に振り回されているせいで私の平穏も振り回されているからだ。実害が出ているからだ。だから私には彼の恋心に不平不満を言う権利がある。


 今朝もそうだった。会社に行く準備をする彼は上の空と嬉しそうを合わせたような顔をして、私への愛情はおざなり。挙句の果てに私の朝食と昼食の準備を忘れたまま家を出ようとしていた。すぐに気づいて私から声をかけたから良かったものの、危うく夜まで断食になってしまう所だった。彼は謝ってすぐにご飯を用意してくれたからそれ以上文句は言わずに欠伸ひとつで送り出してあげたけど。

 ご飯の準備を忘れられたのはこれが初めてじゃない。今日で四度目だ。私が毎回気づいて注意してあげているお陰でお預けになったことはまだないけど。

 彼はもっと、しっかり者の私に感謝してもっと愛情を向けるべきだ。それとご飯の準備を忘れかけたときはお詫びとして量を増やすべきだ。




 彼の口から彼女の話がよく出るようになったのは半年くらい前からだ。

 彼は私に会社の話をよくする。同僚の愚痴だとか、取引相手の愚痴だとか、上司の愚痴だとか。仕事の話は愚痴ばかりだけど、本気でそれが嫌だって感じじゃないからきっと言いたいだけなんだろう。それを黙って聞いてあげている私はなんて良妻なんだろうとよく思う。やっぱり彼は私にもっと感謝してもっと愛情を注ぐべきだ。


 そんな愚痴に混じって、彼女の話も前々からちらほらとは出ていた。会社の話の中では珍しく、お昼に食べたものの話以外でポジティブな話題だったから覚えてる。私のいない所で一人で美味しい物を食べた話をするたびに私の機嫌が傾いているとも気付かずに彼は嬉しそうにお昼休みの話をする。別にいいけど、別にいいけど。


 彼の口から彼女の話題が出る頻度は日に日に増えている。私はそれを聞いていてあることに気づいた。

 彼はよく彼女の話題を出すけど、直接彼女と接したエピソードがひとつもないのだ。彼が話すのは彼女の容姿や仕事ぶりなんかの話ばかりで、彼女と会話した事や、彼女と一緒に何かしたという話が全くないのだ。信じられないことに、彼は同じ職場にいながら彼女となんの接点も得られていないのだ。

 会社とは命懸けで恋をするところだ。テレビでいつも見ているから間違いない。今も画面の中では、一人の男を取り合っていた人のお腹にナイフが刺さっている。私はそれを眺めながら半分しか残ってないお昼ごはんを食べる。もう半分は朝食と一緒に既に食べてしまっている。だいたいいつもそうだ、ちょっとご飯が足りない、もっと量を増やてくれてもいいのに。


 そんなところに通っていながら未だに気になる人と何ら接点を得られていないなんて信じられない。彼は何のために毎日会社に行ってるんだろう。いくら彼が内気で人と接するのが苦手だからって、もう半年以上彼女の事を気にしてるのに、話を聞いてる中では何度も声をかけるチャンスはあったはずなのに、今日まで何ひとつ波風立ってないのは男として情けなさ過ぎる。私にはウザったい程に積極的に接してくるのに、彼はいったい何をやっているのだろうか。


 まぁ、積極的過ぎて大変なことに巻き込まれても困るけど。恋は命がけだ。会社で彼が命を落としたら私のご飯を準備する人がいなくなってしまう。テレビの中では、二股を責められていた男の前にさらに別の女が現れて男が刺されている。



 外が暗くなって、玄関からドアが開く音が聞こえた。部屋から彼の姿をチラリとだけ確認してからベッドの上に寝そべる。ビニール袋を鳴らしながら部屋に入った彼がただいまと声をかけるけど、私はそっぽを向いたまま動かない。こうしていれば彼の方からやってくる。案の定、荷物を置いた彼はいつも通り私の隣に座って頭から背中にかけて手を滑らせる。私は何も言わないでじっと彼に自分をなでさせてあげる。


 いつも仕事から帰ってくるともっと疲れた顔をしてるのに、今日の彼はなんだかご機嫌なようだ。そして何を思ったのか部屋の掃除を始めた。早くご飯にして欲しいのに、そう思って声をかけても、すぐに終わるからと私の事は後回しにされた。愛情が足りてない。

 片付けもあらかた終わったところでようやくご飯。それが終わるといつものように彼の膝に乗って話を聞いてあげる。


 彼の機嫌の良い理由がわかった。今日、ついに念願の彼女と初めて言葉を交わしたそうだ。しかも明日、彼女がここに遊びに来るという。それで急いで部屋を掃除していたという訳だ。彼女との会話を事細かに話す彼、共通の話題が見つかって大いに盛り上がったみたいだ。私のおかげみたいなこと言ってるけどよくわからないし興味もそんなにない。まぁうまくいったんなら良かったと少し思うけど。そんなに感謝するんなら態度じゃなくて物で示して欲しいと思う。

 興奮気味に、いつもより饒舌に話す彼に私は欠伸で返事をした。頼むから仲良くしてくれよみたいな事を言われた気がするけど、もう眠たくてあまり覚えてない。別に嫉妬なんかしてないし、私は他の女を刺したりしないから余計な心配しないでほしい。



 翌日、噂の彼女がうちにやってきた。彼は会社に行くのとは違った身だしなみの整え方をしている。今日みたいな雰囲気の彼は初めてみたけど、まぁ悪くないんじゃないかなと思う。たまになら二人の時もそういう格好してくれてもいい。


 迎えに行っていた彼と一緒に彼女が部屋に入ってくる。と、彼女は私を見つけるなり掴みかかってきた。私はその手を間一髪ですり抜けてベッドの下に滑り込んだ。


 なんだこいつ。危なかった。出会い頭に一体何をしようと言うのか。


 もしかして彼女は私と、彼の事を奪い合う気でいるのか。私には彼をどうこうしようという気はないから勝手にやってくれればいいのに、向こうの早とちりで襲われてはたまらない。


 彼女はしばらくこちらを覗き込んで何か話しかけてきたり腕を伸ばしたりしてきたけど、彼の一言でとりあえずは諦めたようだ。流石、会社に通っているだけあって行動が早い。油断しないようにしないと。


 私はそのまま彼女をじっと観察する。彼女への警戒もあるけど、実はそれよりも彼女の持ってきた箱が気になっている。


 私はベッド下から出て、彼を盾にするように彼の背中に回り込んでその箱をよく観察する。箱からもこちらを伺う気配を感じる。


 私が箱を見ている事に気づいたのか、彼女が箱を開いた。中から出てきたのは灰色で私と似た姿をした男の子だった。


 驚いたようにキョロキョロと周囲を観察するそれは、私に気づくと揺らりとこっちに近づいてきた。私も不思議と興味を惹かれて歩み寄った。自然と鼻が触れ合って、お互いを確かめ合う。そのまま灰色が私の後ろに回り込もうとしたところで警戒心を取り戻して飛び退き、再び彼の背中に隠れた。


 なんだろう、なんなんだろう、なんなんだこれは。呼吸を忘れてしまうくらい頭がグルグルして、体中の毛が逆立つ。何も考えられなくなっている所で灰色とまた目があった。どうして、あれ、気付かないうちに私の方が隠れた彼の背中から半身を乗り出していた。変だ、自分で自分を把握できない、悪い魔法でもかけられてしまったか。


 彼女を前に終始落ち着きなく空回りする彼と、その彼を盾にして灰色との間合いをはかって部屋をグルグル回る私。部屋の中に、私が生まれてから今日までで一番不思議で奇妙な時間が流れた。




 結局、あれからも私はあの灰色と距離を取り続けて、それが縮まる事はなかった。一晩たった今でも昨日のことがはっきりと、だけど幻だったかのように沸き出てくる。


 部屋にはまだ灰色の匂いが少し残っている。誰にも悟られないように、ごく自然に、よりほんの少しだけ深く息を吸い込む。理由はない、ただいつもよりほんの少しだけ長く息を吸っただけだ。


 思いにふけていると、遠くに彼の挨拶とドアの閉まる音が聞こえた気がした。会社に行ったのか、返事してあげられなかったけどまぁいいか。


 そう思ってしばらくして、はっと我に返った。焦って部屋を見回す。ない、ない、あるべきはずのものが見当たらない。部屋をニ周、三周してみるけどやっぱりない。私のご飯が見当たらない。


 彼は当然、彼女が帰った後も、一晩経った今朝も何時にも増して呆けていた。いつもの私ならこうなる事は容易に気付けたはずなのに、そうじゃなくても彼が家を出る前に必ずご飯の確認をしていたはずなのに。こんな失敗するなんて、全部昨日の灰色のせいだ。


 そう思ってまた、私のご飯抜きの原因を作った灰色のことを思い出す。やっぱり恋心なんてのは碌なものじゃない。

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