6 近づく心
私の作ったシュトーレンに満足したのか、ジークベルトはヴァイセンベルク家の庭園を案内してくれた。
以前の夜会でも彼と共に庭を歩いたことはあるが、こうして明るい時間に見る庭園はまた格別だった。
色とりどりの花が咲き乱れ、まるで楽園のようだ。私は興奮を抑えきれなかった。
「すごい、ここまで様々な植物が揃ってるなんて……!」
私は隣国への留学中、主に植物の研究にいそしんでいた。実家を立て直すために社交界に戻らなければ、植物学者になりたいとも思っていたのだ。
研究に明け暮れた日々を思い出し、胸が熱くなる。
「喜んでもらえてよかったよ」
ジークベルトは優しげな目で、きょろきょろと辺りを見回す私を眺めていた。
我も忘れてはしゃいでしまった事を思い出し、そっと咳払いする。
……いかんいかん、この男の前でそんな隙を見せてしまうとは!
そんな私を見て、ジークベルトはくすくすと笑った。
「……母上は花が好きなんだ。この庭園も、ここまで花でいっぱいなのは母上の希望だね」
「素敵ね…………」
私はそっと屈みこみ風に揺れる花を眺めた。
これは……南国ミルターナに主に群生するティラの花だ。どうやらこの庭園は、この辺りだけではなく様々な地域から花を集めてきているようだった。
見渡せば、遠くにいくつかの温室も見える。あそこでも、きっと温暖な地方に群生する花を育てているのだろう。
う、羨ましい……! 私も大学からいくつかの花の種を持ち帰ってきたが、貧乏貴族のグレーデ家では中々専用設備を用意しての栽培はできそうになかった。
この場所のような立派な設備があればあれの栽培もあの研究も……あぁ、本当に羨ましい!!
「ユリエは花が好きなんだね」
「えぇ、大学では植物の研究をしていたの」
「へぇ、じゃああの花のことはわかる?」
そう言って、ジークベルトはとある花を指差した。
「カモミールね。ハーブティーとしても使われているわ」
「あれは?」
「ヘンルーダ。香りが強いのが特徴よ。薬用にもなるのよ」
「じゃああそこのは?」
「ヒースの花よ。乾いた荒野でも負けずに育つの。馬車の通り道をよく見ると生えてたりするの」
楽しくなってそう答えると、ジークベルトは感心したように手を叩いた。
「すごいね、ユリエは」
「あなただって前に得意げに解説してたじゃない」
「僕が分かるのは有名な花だけだよ。正直似たような花はほとんど区別がつかない。よく母上にも呆れられるんだ」
そう言って彼はやれやれと肩を竦めた。
完璧な貴公子にもそんな一面があったのか、と私は少し驚いた。
「ユリエなら母上と気が合うかもしれないね。僕は話について行けない」
「そ、そんなの畏れ多いわ!!」
ジークベルトの母親と言えば、ヴァイセンベルク家の現当主の奥方様になるわけだ。
そんな雲の上のような御方と話が合うなんてとんでもない!
私なんて緊張して一言もしゃべれなくなりそうだ。
「……君は夜会に出ている時よりも、植物の話をしている時の方が生き生きしてるね」
ジークベルトがぽつりとそう呟く。
隠していた物を見つけられてしまったような気がして、私は思わず目を伏せてしまった。
「……本当は、あまりああいう場は得意じゃないの。妹はそうでもないのだけれど、不思議ね」
「へぇ、珍しいね」
「…………そうでしょうね。昔から、ダンスや歌よりも本を読むことの方が好きだったし、土をいじるのも楽しかったわ」
決して、社交界ではそんなことは言えない。
ただでさえ、女の身で留学などしていた変わり者だと思われているのだ。これ以上奇異の目に晒されたくはなかった。
「……自分だけの物を持っているって言うのは、素晴らしいことだよ」
落ち込む私を励ますように、ジークベルトがそっと肩を抱いてきた。
いつもだったらその場でやめさせたかもしれないが、少し心が弱っていた私は不覚にもその温もりを心地よいと感じてしまったのだ。
「そうだ、ユリエに見せたいものがあるんだ。行こう」
ジークベルトは何か思いついたようにそう告げると、そっと私を屋敷の中へと誘った。
◇◇◇
「すっ、すごい……!」
床から天井まで、見渡す限り無数の本の山だった。まるで、その空間全体が本でできているのではないかと錯覚するほどに。
ジークベルトに連れられてやってきたのは、ヴァイセンベルク邸の図書室だった。
そこには、想像を絶するほどの量の蔵書が保管されていた。ぎっちりと書物の詰められた背の高い本棚が迷路のように並び、私を誘っているような気すらする。
これは……大学の図書館にも引けを取らないかもしれない……!
「ご自由にどうぞ」
「い、いいの!?」
私は嬉しくなってあちこちを見て回った。
小説に実用書、地図に絵本まで様々な書物がぎっちりと棚に並べてある。
おぉ、これは植物学の専門書じゃないか……!
「気に入ったのがあったらあげるよ」
「そ、そんなことできないわよ!!」
「じゃあ貸してあげる。また今度返しに来てくれればいい」
そう言ってジークベルトは植物学の専門書を私に手渡した。
頭の中の冷静な部分は、その申し出を辞退しろと言っている。これ以上彼に貸や弱みを見せるのは得策ではないと。
だが頭の中の興奮した部分はそんな事は関係ないと叫んでいる。私としても、目の前の書物は喉から手が出るほど欲している物だったのだ。
検討した結果、私は誘惑に負け素直にジークベルトの申し出を受けることにした。
「もっとここを早く見せてあげればよかったね。あっ、でもそうしたらユリエが僕に構ってくれなくなるから駄目だな」
「……節度はわきまえているつもりよ」
口ではそう言ったが、私はこの図書室にすっかり魅了されてしまっていた。
あまりジークベルトに深入りすべきではないと分かってはいたが、うっかりこの図書室目当てでこの屋敷に通ってしまいそうになるくらいには。
◇◇◇
丁寧に辞退したのだが、ジークベルトは帰りはヴァイセンベルク家の馬車で送ると言って聞かなかった。
やめて欲しい。そんな事をすればますますうちの家族が大興奮してしまうではないか!
「ごめんね、僕はちょっと用事があるから一緒には行けないけど」
「……別に、一人で帰れるわよ」
馬車に乗り込む段階になってジークベルトに軽く腕を引かれる。
何かと思って振り返ると、彼の顔が至近距離にあって驚いた。
そのまま頬に手を添えるようにして、彼が更に顔を近づけてくる。
「…………」
終わった直後に慌てて御者を振り返ったが、御者も慣れているのか「何も見ておりません」とでもいうように真っ直ぐに正面を向いていた。
「いっ、いきなり何するのよ!!」
「なにって、キ──」
「言わなくてもいいわ!!!」
慌てる私がおかしいのかくすくす笑うと、ジークベルトは何かを取り出した。
「そうだ。これユリエにあげるよ」
私の腕を取って、彼はするりと私の腕に腕輪を通した。
シンプルな造りだが、一目で高価なものだと分かる腕輪だった。
中央の大きな蒼い石の中には、目を凝らすとヴァイセンベルク家の紋である雪の結晶が透けて見える。
私は、とんでもないものをはめられたのではないだろうか……?
「これを僕だと思って大事にしてくれ」
「こ、こんなのもらえるわけないじゃない!」
慌てて外そうとしたが、その手を摑まえられ止められた。
その力が思ったよりも強いので、私は驚いて顔を上げる。
すると、意外にも真剣な顔をしたジークベルトと目があった。
「……駄目だよ、ユリエ。いつも肌身離さず持っててくれないと」
優しい言い方だったが、それは命令と同じだった。
思わず外そうとした手から力が抜ける。
……そうだ。私と彼は対等な関係じゃない。
彼の言う事に、私は逆らってはならないのだ。
「いい? 常にはめててくれよ。……特に、外に出るときは」
ジークベルトはそう言うと、優しく私を抱き寄せもう一度口付けを求めてきた。
「それじゃあユリエのこと頼むよ」
「お任せください」
御者にそう言いつけると、彼は私をエスコートして馬車に乗せ、ひらひらと優雅に手を振った。
……まるで、何事もなかったかのように。
そんな彼も、豪華な屋敷も遠くなる。
順調に進む馬車の中で、私はずっとジークベルトのことについて考えてきた。
恋人のように振る舞ったかと思えば、その直後に私が逆らえない立場だという事を思い出させる。
半ば強制的にはめられた腕輪に視線を落とすと、薄暗い中でもその腕輪がきらきらと色褪せない輝きを放っていた。
一体、彼は何がしたいのだろうか。
悩む私を乗せて、馬車は進み続けた。