3 二人ぼっちの世界
ヴァイセンベルク家の令息がほとんど没落しかけの弱小貴族の令嬢を見初めた……などという話は、瞬く間に社交界へと広まった。
人の集まるところにいくと誰もが私の方を見てひそひそするので、最近はほとんど夜会にも出ていない。
出るとすれば……ジークベルトに連れられた時くらいだ。
「おぉ、ではそちらが噂の……」
「ユリエ・グレーデと申します」
「ユリエは博識で、話しているとまるで世界が広がるようです」
「噂に違わぬ才媛というわけですか。誠に素晴らしい!」
ジークベルトに紹介された紳士は上機嫌で手を叩いたが、私を値踏みするような目は隠せていなかった。
……また、胃がきりりと痛む。
あちこちから視線が刺さる。
好奇と、嫉妬と……憐憫の視線。
「あの女性が今度の……」
「今までの相手に比べると地味じゃないか?」
「珍しがってるだけよ。女の癖に留学なんて」
「遊ばれてるのにも気づかずに、馬鹿な女」
いやいや気づいてますよ。最初にはっきり「遊ぼうよ」って言われたし。
心の中でひそひそ話に言い返す。
……実際には、何も言えずにそっと拳を握るだけ。
「ユリエ、踊ろう」
ジークベルトが私の手を引いてフロアの中央に進み出る。
そしてすぐに曲にのってワルツを踊り出す。
私はダンスは苦手だけど、ジークベルトはエスコートが上手かった。きっと今まで、数え切れないほどの女性の手を取ってきたのだろう。
彼と踊るときだけは、不思議と落ち着いた気分になれたのだ。
「言いたい奴には好きなだけ言わせておけばいい」
二人の距離が近づいた拍子に、ジークベルトが私にしか聞こえない声で囁いた。
「誰もがあなたみたいに割り切れるわけじゃないわ」
「君が羨ましいんだよ。僕の視線を独り占めできて」
「とんだナルシストね。吐き気がするわ」
そう言い捨てると、ジークベルトはにっこりと笑った。
……本当に、彼のこういう所はまったく理解できない。
「ほら、ユリエも笑って。皆に見せつけてやろう」
彼の言うことに従うのは不服だったが、仏頂面でワルツを踊るのも変だろう。
私は仕方なくひきつった笑顔を作った。
きっと、傍から見れば仲睦まじい男女が踊りながら語り合っているように見えるのだろう。
ターンするたびに、会場の視線が私たちに向いているのが手に取るようにわかる。
……ジークベルトは、今までずっとこんな世界で生きてきたのかもしれない。
◇◇◇
少し休もう、とジークベルトはダンスフロアから私を連れだし、休憩のできる部屋へと誘った。
部屋へ入り二人きりになった途端、ジークベルトは大きなソファに寝ころび足を投げ出していた。
「ふぅ、疲れたー」
「やめなさい、行儀が悪いわ」
「いいじゃないか。僕と君しかいないんだし」
彼が甘えたように私を見上げてくる。
ジークベルトと共に行動をするようになって驚いたのが、完璧な貴公子に見える彼も誰も見ていない所ではこうして雑な振る舞いをするという事だった。
「ユリエ、こっち来て」
「っ……!」
ジークベルトが寝ころんだまま手招きする。
嫌だったが、私は仕方なくそれに従った。
……彼の気分次第で、私もグレーデ家もあっというまに消されてしまうだろう。
だから、どんな内容であろうと私に拒否権はないのだ。
「ここ座って」
「……何をするつもりなの」
「膝枕して」
「嫌よ!!」
そんなの他の女にしてもらえ! 彼が頼めば喜んで膝枕をする女など掃いて捨てるほどいるだろう。
「いいじゃないか、ユリエ。……僕と君の仲だろう?」
ジークベルトが意味ありげに笑う。
はっきりとは言わなかったが、私にとってそれは脅しと同義だった。
仕方なく足を閉じてソファに腰掛ける。
ジークベルトがもぞもぞと動いて、私の太ももの上に頭を乗せてきた。
そして落ち着いたのか、ふぅ、と大きく息を吐いた。
「ユリエは柔らかいね」
「……セクハラよ」
「褒めてるんだよ」
柔らかい、と言われたが、私の体は緊張で固まっていた。
誰かに膝枕をすることなどこれが初めてだ。ジークベルトが次に何を要求するのかと嫌な想像を巡らせていたが、不思議と彼はそれ以上何も言ってこなかった。
……本当に、この男が何を考えているのかわからない。
あのヴァイセンベルク家の庭園での口づけ以来、彼がそうやって私に触れてくることはなかった。
ただ夜会やサロンに誘われ、彼の家に招かれ、料理を作って欲しいだとか何か演奏してくれだとかわけのわからない要求をするのみだった。
こんなことをして楽しいのだろうか。……やっぱり最初に言った通り、これは「遊び」なのだろう。
きっと、狼狽する私を見て楽しんでいるに違いない。
そう思うとふつふつと怒りが湧いてきた。何か文句を言ってやろうとジークベルトの様子を確認して、私は驚いた。
彼は、私の膝の上で小さく寝息を立てていたのだ。
「よくこの状況で寝れるわね……」
私に寝首をかかれるとは思わないのだろうか……。
まあ、そんな事をすれば私の首が飛ぶだけだ。もちろんそんな勇気はない。
小さくため息をついて、なんとなく彼の見事な銀髪を撫でる。
「…………ェ、ノ……さま……」
夢でも見ているのだろうか。ジークベルトが何かつぶやいたのが聞こえた。
こうしてみると、普段の胡散臭さは鳴りを潜めてまるであどけない子供のようだった。
少し、かわいく思えてくるから不思議だ。
「……って何考えてるのよ」
いけない。私まで悪魔に取りつかれるところだった。油断大敵だ。
きっと、彼もいつかはこの遊びに飽きるはずだ。
私にエミリアとのことを公言される危険がないと分かれば、きっと解放されるだろう。
その日までの我慢、と自分に言い聞かせて、私はそっと息を吐いた。
……どのくらい時間が経ったのだろう。
ジークベルトはまだ眠ったままだ。
そろそろ起こした方がいいのだろうか、と思案したその時、ガチャガチャと部屋のドアノブを回す音がした。
だが、ジークベルトが鍵を閉めていたのか、がちゃがちゃと音がするだけで一向に開く気配はない。
取りあえず出た方がいいだろうか、と立ち上がりかけて、私は少し不審に思った。
……鍵が閉まっている時点で、中に誰かいるのはわかるはずだ。
それなのに、何の声掛けもせずにドアノブを回し続けるなんておかしくはないか?
一体誰がドアの外にいるのだろう。
そう考えた途端、私は気づいてしまった。
この部屋はダンスフロアからそう離れていない。
なのに、
ダンスフロアの人々のざわめきも、音楽も聞こえない。
まるで、この部屋だけ世界から切り離されてしまったような気すらした。
慌てて窓の外を確認したが、そこには漆黒の闇が広がっているだけだった。
相変わらずドアノブを回そうとする音は鳴りやまない。
鍵は閉まっている。でも、無理やりこじ開けられたとしたら?
「っ……!」
急に恐ろしくなった。
ドアの向こうの得体の知れない者も。今の状況も全てが。
体が震える。悲鳴を上げそうになって、慌てて手で口を塞いだ。
今声を出せば、ドアの向こうにいる者にも聞こえてしまうだろう。
怖い、怖い。
一体、どうすれば……
「大丈夫だよ、落ち着いて」
その時優しい声と共に私の手がそっと握られた。
見れば、ジークベルトが私の膝に頭を乗せたまま微笑んでいたのだ。
「僕がついてる。何も怖がることはないよ」
「でも……!」
「大丈夫。ユリエは何も心配しなくていいからね」
そう言うと、ジークベルトは自らの指にはまっていた指輪を抜き取ると、私に手渡してきた。
これは……ユグランスでも指折りの名家にのみ伝わる滅茶苦茶貴重な指輪じゃないのか……?
「これって……」
「はめなくてもいいから持ってて。それで大丈夫だから」
彼は安心させるように何度も大丈夫、だと繰り返した。
そんな言葉は信用できないが、今頼りになるのはこの男だけなのだ。
私はぎゅっと指輪を握りしめた。
ジークベルトは立ち上がると、私を後ろに庇うようにしてドアを睨み付けた。
「ふぅ。じゃあユリエは僕の後ろにいて。指輪は離さないで。怖かったら目を瞑っているといい」
そこまで言うと、彼はいつもの余裕たっぷりの笑みを浮かべた。
「……どうぞ、入ってもいいですよ」
彼がそう口にした途端、大きな音を立てて部屋の扉が開け放たれた。