16 薔薇と悪魔の取引
あの、彼に別れを告げた日から、ジークベルトに会うことはなかった。
しかし私に関する噂話はまだ消えていないだろう。私は夜会に出る気にもならず、ずっと屋敷に閉じこもっていた。
ジークベルトに新しい恋人でもできれば私のことも世間から忘れられるだろうか。
その日が来てほしいという思いと……できればそんな光景は見たくないという思いがせめぎ合う。
「……はぁ」
未練がましく机の上に置かれた腕輪が目に入る。
やはり、私はこの腕輪を見ると……いや、例え目に入らなくてもジークベルトとのことを思い出してしまうのだ。
滅多に目に入らないような奥に仕舞い込んでしまえばいい。そうわかってはいるが、どうしてもできなかった。
……私のこの思いも、いつか薄れていくのだろうか。
「……ユリエ、少しいいかい?」
遠慮がちに扉がノックされ、どこか気遣うような父様の声が聞こえる。
「えぇ、どうぞ」
慌てて腕輪を仕舞い込み、動揺を押し隠して返事をする。
父様は、ゆっくりと扉を開け部屋の中へと足を踏み入れた。
……私とジークベルトの関係が終わったことは感づいているだろうが、父様や母様、レーネですらその事に触れてくることは未だない。
有難い反面、どこか腫れ物に触れるような態度が気になるのも確かだ。
……はやく、元通りの私に戻らないと。
いくつか他愛はないやりとりをした後、父様は意を決したように口を開いた。
「その……クリーゼル家のご当主様から、お前に話が来ているんだ」
「話、ですか……?」
クリーゼル家の方……そういえば、夜会で何度かあった事があるはずだ。
紳士的な男性で、早くに妻を失くされ、今は一人身のおじさま……といった方だった気がする。
一体なんだろう、と首をかしげると、父様はおほん、と咳ばらいをした。
「その、お前を是非、後妻として迎え入れたいと……」
「え…………」
父様の言葉を、理解するのに少し時間がかかった。
「い、いや……もちろん、お前が嫌ならば受け入れる義務はないぞ。そうだ、やはりお断りを……」
「いいえ、お父様」
不思議と、自然に言葉を紡いでいた。
「そのお話、進めてください」
◇◇◇
記憶力とレーネの情報を総動員して、私はなんとかクリーゼル家の御方のことを思い出そうとした。
年は……私よりもかなり上だ。親子と言ってもいいくらい離れているだろう。
……でも、貴族社会ではそんなのは珍しくない。うん、大丈夫なはずだ!
彼とは何度か話をしたことがあったはず。そういえば、彼は私が隣国に留学していたことを珍しそうに聞いていた様な気がする。
たぶん、話も合うだろう。たぶん……。
そして最大の問題。没落間近の我がグレーデ家を支えてくれるかどうかという部分だ。
資産に関しては問題ないだろう。クリーゼル家は手広く商売を営んでおり、財政状況に関しては申し分ない。
実際に援助してくれるかどうかは……私の努力次第だろう。
正直言うと、何故彼が私に結婚の話を持ってきたのかわからなかった。
ジークベルトに捨てられた女、という悪評が立ちロクな嫁ぎ先も見つからないであろう私を哀れんだのだろうか。
……なんだっていい。元々、グレーデ家を立て直すのが目的だったんだから。
きっとこれは、千載一遇のチャンスだ。
なんとかして、グレーデ家に有利な条件で結婚まで持っていかなければならない。
「…………はぁ」
……そんな事しか考えられない自分に嫌気がさす。
こんな汚い心の中は、見られないようにしなければ。
「……姉様、本当によろしいのですか」
実際に彼に会う日取りが決まった頃、レーネが真剣な顔でそう切り出してきた。
「た、確かにクリーゼル様は素晴らしい方だとは思いますが……姉様とは年も離れてますし……」
「別におかしくはないわ。そんな夫婦もたくさんいるじゃない」
「で、ですが姉様にはジークベルト様が……」
「レーネ!」
思わず大きな声を出すと、妹はびくりと体を竦ませた。
「……あの人とは、もう……なんでもないのよ」
静かに、レーネに言い聞かせる。
……本当は、妹ではなく自分にそう言い聞かせたかったのかもしれない。
◇◇◇
そして、ついに彼に会う日がやって来た。
本来なら格下である私が出向いてもおかしくはないのだが、なんとグリーゼル様はこちらまで来ていただけるとか。
私は一人応接間で、手に汗を握って彼の到着を待っていた。
……失礼のないようにしなければ。私の行いに、今後のグレーデ家の運命が掛かっているのだから!
私は必死に頭に入れたマナー講座本の内容を思い出そうとしていた。
そういえば、ジークベルトと一緒に居た時はこんな風に気を遣う事はなかった。
二人っきりの時はもちろん、社交の場に出る時も常に彼が私をフォローしてくれていたのだと、今更ながらに思い当たる。
そんなこと、今更考えてもどうしようもないのだけど。
……それにしても遅い気がする。
まさかうちが格下だから舐められているのだろうか。
そんな風に嫌な考えが浮かんだ時、部屋の扉がノックもなしに唐突に開かれた。
「っ……!」
グリーゼル様がいらしたのかと思い慌てて立ち上がる。
だが、その向こうに立っていた人物を見て私は固まった。
「やあ、随分と待たせてしまったかな」
「……な、なんで…………」
月光のように輝く銀の髪に、全てを見透かすような銀の瞳。
何故か大きな袋を傍らに抱え、いつも通り気障ったらしい笑みを浮かべたジークベルトがそこにはいたのだ。
困惑する私をよそに、ジークベルトは扉を閉めるとずかずかと部屋の中へ入って来た。
そして、私の正面のソファにそのまま腰掛ける。
「それじゃあ始めようか」
「……ちょっと待って! どういうこと!? グリーゼル様は!?」
まったくわけがわからない。
なんで、ジークベルトがここに!? グリーゼル様はどうなったの!?
混乱する私の様子がおかしかったのか、ジークベルトはくすくすと笑っている。
「あぁ、グリーゼル殿なら急用ができたから来ないよ」
「…………は?」
急用……ができたのはわかったが、じゃあ何故ジークベルトはここにいるのだろう。
わざわざヴァイセンベルク家の貴公子が伝令のような真似をするとも思えない。
「ほら、ユリエも座って、早く始めよう」
「は、始めるって何を……」
「お見合い、するつもりだったんだろ」
馬鹿にしたような口調に、かっと頬が熱くなる。
……忘れようと思っていたのに、一体なぜこの男は私の心をかき乱すような真似をするんだろう。
「……なんなのよ、あなたは」
「ユリエ?」
「私を笑いに来たの!? もう十分でしょ!! 早く帰ってよ!!」
……駄目だ。この男を前にすると、必死に保っていた決意が崩れていきそうになる。
無性に泣きたくなるのを堪えて、きつくジークベルトを睨み付ける。
だがジークベルトは、私の態度などまったく気にしていないような余裕の笑みを浮かべていた。
「まだ用が済んでないから帰れないな」
「何よ、用って……」
「お見合い。グリーゼル殿とするつもりだったんだろ」
「でも、グリーゼル様は来られないって」
「だから僕が来たんだよ。替わりに僕としよう、お見合い」
ジークベルトはそう言うと、立ち上がり呆然とする私の手を取った。
「選手交代だ。別に問題ないだろう?」
「も……問題しかないわ!!」
私は慌ててジークベルトから一歩身を引いた。
それが不満だったのか、ジークベルトが形の良い眉をひそめる。
「わ、私はグリーゼル様と結婚するのよ……! これ以上私で遊ぶのはやめて……!!」
「……ユリエ、グリーゼル殿が君の何を知っている?」
ジークベルトが近づいてくる。私は慌てて後ずさった。
「あんな君の父親ほど年が離れているよく知りもしない男に、よく嫁ぐ気になったね」
「べ、別にそんなの珍しい事じゃないわ!!」
ジークベルトがじりじりと近寄ってくる。つられるように私も後ずさって、ついには壁際まで追い詰められてしまった。
「君は、グリーゼル殿の何を知っている。どうせ顔と名前くらいしか知らなかったんだろう」
「それの何が悪いのよ! これが最良の選択なんだから!!」
グレーデ家の為に、力を、財力を持つ男性の元に嫁ぐ。
せっかく、そのチャンスが訪れようとしているのに。もう邪魔はしないでほしかった。
「なるほど。確かにグリーゼル家ならば財力は申し分ない。彼に嫁げばきっとグレーデ家も安泰だろう」
「そうわかってるなら……」
ジークベルトから離れようと体を横にずらす。その途端、どん、と音を立てて彼は私の顔の横に手を突いた。
……私を、閉じ込めるように。
そして、ジークベルトは笑った。
「でも、そんなのグリーゼルじゃなくてもいいだろう」
彼がそっと私の頬を撫でた。
思わず体が跳ねる。
ジークベルトはその反応に笑みを深くすると、私の耳元で囁いた。
「同じように力を持つ家であれば……例えば、ヴァイセンベルク家とか」
「っ……!」
思わず体から力が抜ける。
ジークベルトは予期していたかのように、そっと私の体を抱き寄せた。
「言っただろう。僕はグリーゼル殿の“替わり”に来たって」
「……何が、言いたいの」
「僕と結婚しよう、ユリエ」
ジークベルトは綺麗な笑みを浮かべて、私にそう告げたのだ。
「……やめて」
「何故? グリーゼルがいいなら別に僕でも構わないだろう」
「また、私を利用する気なんでしょ……」
「君がヴァイセンベルク家の一員になれば、あらゆる手を使って君を守るよ」
ジークベルトが私を抱き寄せる腕に力を込めた。
そのまま彼は、力の抜けた私を抱き上げるようにして優しくソファに降ろす。
そして、彼は私に顔を近づけて笑った。
「僕と結婚すればグレーデ家の援助は惜しまない。君の望みどおりにね」
「……どうして」
「学問も研究も好きなだけすればいい。書物も研究設備も庭園も何でもあげるよ」
「っ……!」
もう頭が混乱して、何が何だかわからなかった。
ジークベルトは部屋に入って来た時に抱えていた袋を開くと、その中身を私に差し出した。
──見た事も無いほど大きな、真っ赤な薔薇の花束を
「全部で108本。君ならこの意味が分かるだろう?」
「…………」
──108本の薔薇……その花言葉は、
『結婚して下さい』
「僕は君を利用した。だから……君も僕を利用すればいい。悪い条件じゃないだろう?」
ジークベルトはいつも通り、余裕の笑みを浮かべていた。
まるで、私が断ることなどありえないとでもいうように。
いや……私がどう答えようと、彼は自分の思う通りに進める自信があるのだろう。
「何が最良の選択か……賢い君ならわかるはずだ」
それは、悪魔の囁きだった。
……やはりこの男は、人を惑わす悪魔なのだろう。
そして私は、悪魔の甘言に乗ってしまった。
次が最終話です!