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11 美しいひと

 身ごもった女性が屋敷に現れ、父が彼女を妾として迎え入れると告げた時……

 ヴァイセンベルク家は上から下まで大騒ぎになった。


 それも当然だ。突然降ってわいたようなどこの馬の骨ともわからない女など、素直に受け入れろという方が無理だろう。腹の子が本当にヴァイセンベルクの血を引いているのかどうかもわからないのだ。

 親族や家臣の中には断固反対する者もいた。だが、父は決して譲らなかった。

 そして長男であるジークベルトは……何よりも初めて見たその女性の美しさにすっかり夢中になっていた。


 子供ながらに、「父もいい趣味をしている」と感じたものだ。



 ※※※



「おはようございます、インヴェルノ様」


 そう声を掛けると、ぼぉっと池を眺めていた女性が振り向く。

 そしてそこにいるのがジークベルトだとわかると、彼女はにっこりと笑った。


「おはよう、ジーク」


 わずかに紫がかった美しい白髪が風に揺れている。

「人を惑わす妖魔ではないのか」と噂されるほど、父の愛人──インヴェルノは妖しい美しさを秘めた女性だった。


 彼女には屋敷の本館から少し離れた別館が居住地として与えられた。

 森や池に囲まれた静かなこの場所が、ジークベルトも好きだった。

 周りの者には口うるさく「あの女に近づくな」と言われているが、どうしても時間を見つけてはここに通うのはやめられない。


「今日は何をされてたんですか?」

「餌やり。でもこの子たち、私が来てから太った気がするの」


 視線を落とせば、インヴェルノの足元に何匹かのアヒルが集まって来ていた。

 まるまる太ったその体からは、彼女が普段からこうして熱心に餌をやっていることが容易に想像できた。


「少し運動させた方がいいのかもしれないですね」

「……やっぱりそうね、ほらあなたたち、さっさと泳ぎなさい」


 インヴェルノは立ち上がりアヒルたちを池の方へと追い立てようとした。だがアヒルたちはインヴェルノが遊んでいるとでも思ったのか、ガァガァ嬉しそうに鳴きながら四方八方へ散っていく。

 しばらくインヴェルノは子供のようにアヒルたちを追い回していたが、やがて疲れたのかジークベルトの方へと戻ってきた。


「……ふぅ、駄目ね。あの子たち私を舐めきってるわ」

「同類だと思われてんじゃないですかね」


 そうからかうと、軽く頭を小突かれた。

 少し悔しそうなその表情に、ジークベルトは思わず笑ってしまう。

 その見る者を凍らせるような美しさとは裏腹に、インヴェルノは子供のような無邪気さを持った女性だった。

 最初はそのギャップに驚いたが、すぐにジークベルトは彼女のそんな性格も好きになった。


「きっと甘えてるんですよ、インヴェルノ様に」

「あら、ジークも甘えに来たのかしら?」

「よくわかりましたね。存分に甘やかしてください」

「ねぇ聞いた? あなたのお兄ちゃんがあんなこと言ってるわよ」


 インヴェルノはにやにや笑いながら自らの腹を撫でている。

 子を宿していることがはっきりとわかるほどに、膨らんだ腹を。


「お兄ちゃんかぁ……そう呼んでくれるといいな。マティアスなんて何回言っても僕のこと呼び捨てにするんですよ」


 インヴェルノの子は、腹違いと言えどジークベルトの弟か妹になるのだ。

 すぐ下の弟であるマティアスはかわいげのないタイプなので、ジークベルトはまだ見ぬ弟妹に思いを馳せた。


「……ジークは弟と妹だったらどっちが欲しい?」

「僕は妹がいいです! かわいい妹が!」


 そう力説すると、インヴェルノはくすくすと笑った。


「残念だけど私にもどっちかわからないから、ちゃんと弟でも可愛がるのよ?」

「わかってますよ。でもできれば妹がいいです」


 そう言うと、インヴェルノはまた笑った。



 ジークベルトは暇を見つけてはインヴェルノの所へ通っていた。

 他愛ない愚痴や出来事などを話すと、インヴェルノはいつも面白おかしく聞いてくれた。それが嬉しかった。

 家族にも、友人にも、家庭教師にも使用人にも、誰にも話せないことも、不思議とインヴェルノ相手ならすらすらと話すことができた。

 ジークベルトが彼女に抱いていた想いは、恋愛感情、友情、家族愛……様々なものを含有していたのだろう。

 だが、今でもはっきりと言える。


 ジークベルトは、確かにインヴェルノを愛していた。


 自分がもう少し成長したら、父から奪い取りたいと思っていたくらいには。



 やがて季節が巡り、インヴェルノに子供が生まれた。

 「ヴォルフリート」と名付けられたその子は残念ながらジークベルトの希望した妹ではなく弟だったが、年の離れた弟は随分と可愛く思えた。

 ジークベルトはたっぷりと幼い弟をかわいがった。鬱陶しがられてもかわいがった。

 ……とても、幸せな時間だった。


 だが、その幸せも長くは続かなかった。


 インヴェルノが出ていくことが決まった。

 その理由はわかっていたが、どうしても納得はできなかった。


「どうしてインヴェルノ様が行かなきゃいけないんですか」

「ジーク……わかってるでしょ」

「だって、ヴォルフはまだあんなに小さいんですよ!? 貴女がいないと生きていけない」

「大丈夫、あの子は強い子だから。だから……ヴォルフのことよろしくね」


 そう言って少し寂しそうに微笑んだインヴェルノを見ると、もう堪えきれなかった。


「っ……!」


 力強く、インヴェルノを抱きしめる。

 絶対に離さないとでも言うように。


「ふふっ……ジークは甘えんぼね」

「……いいんですか、そんなこと言ってても。僕だって……男なんですよ」


 真剣にそう言うとインヴェルノは一瞬驚いたような顔をした後、おかしそうに笑った。


「あはは! 言うようになったわね!!」

「僕は本気で……」

「いいえ、あなたにはできないわ」


 インヴェルノがジークベルトの体を引き離す。

 とても女性とは思えない強い力。それは、はっきりとした拒絶だった。


「……駄目よ。私は、ヴォルフのお母さんだから」


 インヴェルノは笑っていた。

 ……そういうところに、敵わないと思い知らされる。


「やっぱりだめですか」

「ごめんね?」

「最初からわかってましたよ。でも……」


 きっと彼女に会うのはこれが最後になる。

 だったら、一度だけでも……



 ◇◇◇



「愛してください、って頼んだんだ。でもやっぱり断られた」


 ジークベルトはどこか遠くを見ながら、ぽつりとそう呟いた。


「滑稽だと思うかい? ユリエ」

「…………いいえ」


 私はなんとかそう絞り出すので精一杯だった。

 彼が話してくれた思い出の端々に、彼のその女性への色褪せない思慕が滲んでいる。

 その美しい想いに、私は圧倒されてしまったのだ。


「……インヴェルノ様がいなくなってからは、なんだか世界が色褪せたような気がしてさ。不思議だね」


 完璧に見える彼でも、その心の中に巣食っているのは果てしない空虚感なのだろう。

 きっとジークベルトは、今でもいなくなってしまった彼女のことを想っているのだ。

 色恋沙汰には疎い私でも、直感的にそうわかってしまった。


「その女性は、今……どこに」

「亡くなったよ」


 ジークベルトはまったく表情を動かさずに私を振り返った。


「っ、ごめんなさい……」

「いいや、いいんだよ。きっと、僕よりヴォルフや父上の方が辛かっただろうしね」


 どこか他人事のように彼はそう呟いた。

 その表情からは、彼の真意を窺う事は出来そうもなかった。


「……ごめんなさい」


 私は、ジークベルトのことを何も知らなかった。

 彼は人を愛せないわけじゃない。ただ、きっと今でも失ってしまった愛を探し続けているのだろう。


「酷いこと、言ってしまったわ」

「……ユリエ、君が謝る必要なんてない。僕が君やエミリアを利用しようとしたのは事実だ。君の言う通り、僕は冷たい、最低の人間なんだよ」


 ジークベルトはどこか寂しそうに笑うと、一歩私の方へと近づいてきた。


「僕にとって何よりも大事なのはヴァイセンベルク……ひいてはこの地を守ることだ。その為なら、多少の犠牲は仕方ないと思ってる」


 彼が私を見つめる。その視線に捕らわれる。


「僕が君を構えば、きっとエミリアは君を標的にして大きな行動を起こすと思っていた。その途中で……君が死ぬ可能性だって考えてなかったわけじゃない。それでも、僕はその方法を取ったんだ」


 ジークベルトが私の手を取った。冷たい手だった。


「サナト教団を放っておけば、今後も小さな犠牲が続くだろう。少数の村人の犠牲なんて貴族の耳には届かない。でも……これ以上この地に住まう者をむざむざ犠牲にする訳にはいかなかった」

「私やルイーゼが犠牲になったとしても、あなたはサナト教団を潰したかった……ということ?」


 静かに問いかけると、ジークベルトはゆっくりと頷いた。


「僕を軽蔑するかい? ユリエ」

「いいえ……でも、少し悲しい人だと思うわ」


 きっと彼は、私には想像もつかないようなものを背負っているのだろう。

 束の間の愛と安らぎを失って、今の彼は何を支えに生きているのだろう。

 私は彼の駒として利用されていた。そうわかっているのに、不思議と先ほどのような怒りは沸いてこなかった。


「悲しい人、か……ユリエ、君とインヴェルノ様は全然似ていない」

「……いきなり何よ」

「でも……不思議と君といると少し暖かくなれる気がするんだ。どうしてかな」


 ジークベルトが力を込めて私の手を握った。


「……わからないわ」

「僕にもわからないよ」


 そう言って、ジークベルトは笑った。

 でも、その笑顔はどこか泣いているようにも見えた。


「……今まで済まなかった。今後はもう君を巻き込まない。約束するよ」


 そう言って、彼はそっと私の手を離した。


 それは、別れの言葉でもあった。

 私はずっとこの瞬間を待ち望んできたはずだった。


 なのに……


 どうしようもなく、胸が痛んだ。

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