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 怒号と共に白刃が(はし)り、「ぎゃっ!!」という獣染みた悲鳴と共に、どうと黒い影が地べたへと投げ出された。月明かりも朧気な闇夜、鉄錆に似た血の臭いだけがもうもうと立ち込める中、紫月家城下町・馬場町奉行所の侍達が気勢を上げ、町はずれの寂れた寺院の中へ次々と飛び込んでいった。


「……」


その中にあって、一際目立つ巨躯を誇る青年が一人。体躯に似合わぬ優し気な風貌から、これまた似合わぬ鋭い視線をぽっかりと開いた寺院の門に視線を向け、ずっずっと足を擦る様にして、虎口に歩みを進めていた。


「!!」


直後、息を殺して待ち構えていたのだろう。言葉になっていない猿叫(えんきょう)と共に、匕首毎体をぶち当てて来た賊の身体を受け止め、近くの太い柱に力任せに叩き付ける。


「ぐぇ!?」


自身より一回り小さな男の力が緩んだ一瞬、さっとその匕首を奪い取った青年は力任せに、二度、三度とその刃を男の胸や腹へ無造作にねじ込んだ。初めの一撃で長い悲鳴を上げた男だったが、五度目に胸に突き刺した一撃が、心の臓を貫いていたのだろうか、七度目を青年が刺そうとした時には、既に事切れており、ぐったりと力なく垂れさがる濡れた肉袋と化していた。


「……」


からんと乾いた音を立てて、零れ落ちたのは、男が付けていた面。顔を隠すためのそれは、真黒な漆で塗られ、深い墨の如く星明りをきらきらと跳ね返していた。しかし一点、その面にはぐるりと一筋、のたくった蛇の様な体躯―一匹の竜の姿―が細かくだが彫り込まれていた。


(竜の紋様の面に黒装束の夜盗……九頭竜党?)


青年の脳裏を、この数年、宇陀平原を荒し回っている悪名高い盗賊衆の名が過った。

 漆黒面に、うねり竜。その手口は大胆かつ残忍で、押し込みに入った商家や豪農の屋敷は、使用人から赤ん坊までが皆殺しとなっていた。


(まさかね……)


一瞬浮かんだその考えを、しかし、青年は即座に打ち消した。件の盗賊は、その手口の荒々しさと犯行頻度に比べ、極端に証拠の類が少ない事でもよく知られていた。押し込みに入った店の者達を、一人残らず、正真正銘誰一人として逃さず、しかも誰にも気付かれる事なく殺しきるが故に、物証も何も残らなかったのだ。故に、模倣犯の数も多く、また、実際には複数の盗賊達がその時々で別々の獲物を狙ったものを単に一つの盗賊と勘違いしているのではないかとの話もあった程だ。たった一つだけ残る証拠の面も、一体誰が何時どうやって手に入れた情報なのかはようとして知れず、故にその悪名に比して、青年も又、講談か何かの類と見る思いが少なくないのだった。

再度、男の死体を睨み付けた青年は、しかし、無造作にその死体を男自身の血溜りに投げ捨てると、改めて愛刀を片手に、油断なく奥へと歩を進めるのだった。




 この白けた風貌の青年・甚十郎は本名を紫月甚十郎。諱を静隆と言う。この紫月家当主・紫月民部少輔正隆の長男にして、紫月家城下町である馬場町の治安を預かる奉行所で助役を務めていた。風貌は何処か優し気ながら、月明かりを跳ね返す黒々とした短髪の下から覗く視線は、強く周囲を警戒する色があった。その体躯も又風貌に似ても似つかず、怒号と殺気が迸る中、独り巨躯の青年が無表情のままずっずっと歩を進める様は、一種異様で怪談染みてすらいた。


(殺気が……止んだ?)


この度の捕り物では、陣頭指揮に当たっていた甚十郎は、手配の者達が次々と寺院へ突き進む中、本陣を進めるが如くじわりじわりと敵を追いかけながら、ふと寺院入り口であった筈の殺気がぷつりと途切れているのに気付いた。


(下手人を全て取り押さえた? こんな短時間で? ……いや、それはないはずだけど)


つ、と甚十郎の背中を一滴の汗が伝った。甚十郎の視線の先には、寺の本堂に続く門。そのぽっかりと開いた口の奥から、不自然な程に深い沈黙が漂って来ていた。

 甚十郎の殺気に対する感性は決して鈍くない。齢十二で元服して以降、六年もの間奉行所に籍を置き、時には自らこうして剣を手に取り、凶悪な強盗や牢人崩れの集団、或いは合戦で負けた落ち武者の軍団を相手取り立ち回り、そして生き延びてきたのだ。殺気と血の臭いを嗅ぎ間違えるという明らかな()()をする訳もなかった。


「おおっがっ!?」


「……」


僅かに目を細め、目前に立塞がった牢人風の男を、袈裟懸けに切り捨てた甚十郎はふっと自身の経験が門の奥に対する危険を叫んでるのに気付いた。


「……」


懐紙で一度、血でどろどろになった愛刀を拭い、門の遥か手前であるにも関わらず、左肩にその一刀を担ぐ様にして、腰を沈める。常日頃、好んで用いている最も得意な構えを固め、その集中を強く虎の口(本堂への門)に向けた。


「奥だ! 先に行くぞ!!」


と、不意に、その先に飛び出した者があった。甚十郎の配下に当たる、年若の一人だった。甚十郎が制止の声を掛けようとする……が、その間もなく、青年が門の奥に一歩踏み込んだ瞬間、



しゅるり……



気を付けてなければ、気付かぬ程に薄い、風を撫ぜる様な音が甚十郎の耳朶を薙いだのだった。


「!!」


同時に、甚十郎の首筋でぞわりと鳥肌が立つ。


「かっ……!?」


咄嗟にその隊員を呼び戻そうと声を上げた甚十郎の耳を撫でた、しゅるしゅるという風斬り音が不意に強い存在感を持って、濃密な殺気を帯びる。そして、


「なっ!?」


隊員の首元で一瞬、何かがきらりと光り、目を見開いた甚十郎の目の前で、その隊員の丁髷頭が崩れる様に地に堕ちたのだった。

 隊員が額にしていた鉢巻の金具が、寺の石畳とぶつかり、がちりと耳障りな音が響き渡る。目の前には、自身の生首を奪い取られた首なしの肉体が、その天辺から噴火の如く、紅色の血飛沫を吹き出しながら、膝を付き、そしてべちゃりと自身が作り出した血溜りに(こうべ)無きそれは身を沈めたのだった。


「……」


僅か数瞬。しかし、そのほんの数度の呼吸の間に、目の前で作り上げられたどこか滑稽で無残な死体を目にし、甚十郎は我知らずの内に硬い唾を飲み込んでいた。

 だが、その惨劇は、初めての事ではなかった。ふと甚十郎が目を凝らせば、その門を中心に、奥に手前にと折り重なる様に固まった死体がちらほらと目に映った。そして、それらは全て一つの例外もなく、いっそ綺麗な程に一直線にその太首を根元から斬り落されていたのだった。甚十郎達後続の隊員が集まるまでの間に、一体何名の奉行所の侍が骸を晒したのだろうか。驚嘆と戸惑いの入り混じった思考で、身を固くする甚十郎。だが、先の惨劇が初まりですらなかった様に、目の前の死体は最後の死体である訳が無かった。

甚十郎が意を決して本堂へ続く道へ歩を進めようとした瞬間、不意に耳元の産毛が逆立ち、側頭部に火箸を差し込まれる様な感覚に襲われた。


「しゃっ!?」


咄嗟に仰け反り、身をかわした瞬間、まるで見計っていたかの様に、甚十郎の胴と頭の繋ぎ目を再びしゅるりと音を立てて何かが通り過ぎた。飛び去ったそれを何とか捕えようと目で追った甚十郎だったが、その先には既に殺気の姿はなく、後に残ったのは再びの暗黒だった。


しゅる、しゅるしゅる……


しゅる……


(……消えた?)


やがて、取り残された薄い音も夜闇に溶ける様に消え去り、辺りには耳が痛くなる程の沈黙が残った。


「!?」


だが、早鐘を打つ心の臓の感触に突き動かされて佇む甚十郎はその首筋をどろりとした生暖かい液体が伝う感触に目を見開いた。辺りに打ち捨てられた賊と役人の間に交じって、尚も強く鼻の奥を突いてくる鉄錆の臭いに、あの一瞬、ほんの数瞬仰け反るのが遅れていたら、先の隊員の姿が今の自分の未来へ取って代わっていた事を悟った。

 ほんの虚空にあった、僅かな銀光。しかし、あの瞬間、間違いなく、甚十郎の首を狙う()()が飛来し、そして闇の中へと消え去ったのだった。

つつとばかり流れていた甚十郎の背中の汗が、一瞬でどっと噴出した。


(これは……)


先の殺気の主、下役である某を、此の暗闇でなお正確に斬首してみせた程のからくりの使い手が、今まさにその狙いを甚十郎に切り替えた証左に他ならなかった。

 背中の汗とは裏腹に、急に干からびて干上がった喉で、無理矢理甚十郎は硬い唾を飲み込んだ。




「はーん、今のを避けんのか……」




甚十郎の一瞬の懊悩が永遠に感じられる中、巨大な八脚門の内にこの死地では在り得ない、何処か他人をおちょくる様な音色が響き渡った。

 軽妙で、年若い青年の中でも更に甲高い印象を受ける声音。それでいて、生と死の狭間にある“殺し合い”という名の良く浮かんでなお平然としている調子の変わる事のない抑揚。間違いなくこの場―真っ向からの殺し合い―に慣れた者の言葉だと、甚十郎の短くも確かな経験が警鐘を鳴らしていた。

既に噴き出た冷や汗でしとどに濡れた袖口が酷く重く感じられる。別段、甚十郎は人を殺す事に慣れていない訳でもなければ、殺される事に慣れていない訳でもなかった。唯、この場、人が人を殺すという場において、この声の主たる“敵”が、甚十郎自身を此れまで経た事のない修羅場へと一歩引き摺り込んだ事を本能で察したのだった。


「ふーっ……」


死に対する根源的な恐怖、全身の素肌をじくじくと蝕まれながら、それでも顔を上げた甚十郎は自身の目の前に横たわる漆黒の闇に向かって大きく息を吐いた。

 ほんの半寸にも満たない程、ずずっと重心が沈み込む。それまで僅かに浮いていた腰元がぴたりと座り、甚十郎の巨体も相まってその佇まいは難攻不落の城塞へと変貌する。


「はーん……」


暗闇の奥でその姿を見たのだろうか? 正体不明の飛び道具を扱う上に夜目まで効くという事実に甚十郎は内心で余裕もなく舌打ちをした。甚十郎の心の内を知ってか知らずか、その声の主は、非常にゆったりとした、そしてどこか楽しげな様子で声を弾ませていた。


「俺ちゃんの“こいつ”を前にして、恐怖に負けて、無茶な吶喊をかました奴、反対にけつまくって逃げ出した奴、或いは、一歩も動く事も出来ずに首をぶった切られた奴、どれこもれも腐る程居たけどよ……」


闇の奥から聞こえる声が……一気に熱を帯びる。


「さあ来いよとばかりに構えを固めた馬鹿はてめーが初めてだ……ぜっ!!」


「!!」


“敵”の声が弾むのと、甚十郎が弾ける様に駆け出したのは、全くの同時だった。硬い、石畳を蹴り飛ばした瞬間、一度消えたはずの銀色の猛禽のしゅるしゅるという威嚇音がぞろりと甚十郎の首筋を撫で上げる。


「ふっ!!」


直後、半ば直感に任せて、甚十郎は進軍方向に向かって思い切り身を投げた。八尺にも昇る巨躯が一瞬で折り畳まれ、鞠の様に固めた体でくるりと地を回った。瞬間、まるで狙い澄ましたかの様に、否、実際にあの声の主である青年は甚十郎の首を狙ったのであろう。甚十郎の襟元に当たる位置を、白銀の閃光が一筋僅かな風斬り音と共に翔け去る。

 だが、すんでの所で躱していた甚十郎は、回転の勢いそのままに立ち上がり、更に半拍子後には、二歩も銀の咢を置き去りにしていた。


「はんっ!! 今のを避けるかよ!! 上っ! 等っ!!」


自身の不可視の一撃に、少なからず自負心を抱いていたのだろう。誇りを逆撫でにされた銀獣の主は、二度気合を入れる様に叫ぶ。


(今度は……二つ!!)


甚十郎の両の耳朶が、先程は無かった()()()()()()が、二つに分かれ、そして、甚十郎を交叉点にて斬刻まんとしているのを脳髄に告げる。高ぶった神経が目まぐるしく回転し、身を捩って目の前に飛び込んできた獲物を自身の毒牙にて捕えんとする蛇の咢から逃れる唯一の道を指し示す。


(まあ、進むしかないんだけどさ!!)


袴の内にある、隆々と鍛え上げられた、甚十郎の二本の足が深く深く大地を蹴る。懸河の勢いで吶喊を敢行していたそれは、もっと、もっととばかりに自らの主の背中を押しやる。


(もっと……もっと!!)


気が急く中、「ちっ!!」という舌打ちの音をどこか遠くで感じ取る。最早、止まる事など考えすらせず、甚十郎は勢いに乗った体を本堂へ続く扉へと力任せに叩き付けた。


「ぐっ」


加速に加速を重ねた巨体に耐え切れず、木造の扉は横一文字に走った亀裂に沿ってばきりとへし折れる。直後、どうと音を立てて、甚十郎は寺院の本堂へと飛び込んだのだった。


「っ!!」


瞬間、不意に背後から感じた濃密な殺気に、片膝を立て、愛刀を切り上げるようにして叩き付けたのだった。


「っとお!?」


甲高い声のそれが放つ殺気がぷつりと途切れ、ばさりと音を立てて、“何か”が甚十郎の頭上を飛び越える。


「こいつまで避けるかよっ!?」


半身を戻し、立ち上がった甚十郎の前に立つのは、黒装束が一人。全身を黒布に包み、(かんばせ)には漆塗りの黒い面。月光に照らされた彫刻の白い痕をなぞれば、それが先の賊徒と同様に竜の形を取っている事が見て取れる。


「せっ!!」


再度、男が吶喊を試みる。甚十郎の強い足取りとは違う、軽やかな、しかし、神速を秘めた足運びで流れる様に間合いを詰め、さらりと横薙ぎに振るわれる左手の短刀。ほぼ無造作に放たれたそれを、身を捩って躱した甚十郎は、余裕を持って上段からの一撃をその細首に向けて振り下ろすが、そちらは、逆にさらりと逃げられる。甚十郎は、自身の横っ腹を食い千切らんと迫っておきながら、思いの外伸びる事の無かった一撃に、漸く先の銀色の獣の正体を悟った。


(京極家領、くの字刀……)


甚十郎が頭に思い浮かべたその名は、宇陀平原南部に勢力を持つ、京極氏の猟師などが好んで使う刃物だった。その特徴は、宇陀平原全土で広く使われる刀と呼ばれる片刃の刃物とは方向が真逆の()()で、前方に大きく倒れた独特の形状がだ。最大の攻撃箇所が一歩腕よりも速く敵を切り裂くため、挙動の瞬間を外しやすい反面、反りの角度が急なため、極端に射程が短いという欠点も抱えていた。

 そして、最大の特徴は、その強い反り故か、最大限回転を付けて投擲すると、急な弧を描いて、投擲した本人の方へと戻ってくるという独特のものだ。

 先の武器の挙動から、恐らく、目の前の敵は幾度となく、くの字刀を馬場町奉行所の役人に差し向け、そして、その度に、甚十郎の同輩達の喉笛を食い散らかしていたのだろう。しかし、同時に絡繰りが分かれば、少なからず甚十郎の頭にも対策というものが浮かんでくる。敵の斬撃は射程が短く、甚十郎と同等以上の踏み込みをしなければ、懐に飛び込む事すら難しいのが一つ。遠距離からの一撃は、単純な射程こそ優れているものの、敵と真正面から向き合うこの距離で扱おうとすれば、一度得物を手から離し、そして、大きく時間を使ってから、初めて成立する技となる。そうなれば、甚十郎の取る手段は明確だった。


「ふっ!」


するりと傍目から見れば無造作にも思える足取りで、半歩ほど間合いを作りながら、軽く一撃を見舞う甚十郎。牽制のそれでありながら、豪刀から来る重量と甚十郎自身の持つ大力故の重い一撃に、手打ちでの軽い一撃を想像して受け止めたのか、件の強盗は僅かにたたらを踏む。


「しっ!!」


その一瞬の隙を逃さず、“ため”を作った左膝に全ての体重を乗せて、目の前の黒い影に襲い掛かる甚十郎。僅かに体位が乱れた敵に向け、必殺の一撃が叩き付けられる。


「ちぃ!!」


己の不利を悟ったのだろう。賊は甚十郎の斬撃を捌く事を即座に放棄し、身体を丸めて固い石畳の上を転げ回る。修練を感じさせる滑らかな体捌きに、一瞬、目の前の敵が消え去った様な感覚を甚十郎は覚えた。しかし、竜面の男が素早く距離を取ろうとしたのを察知すると、即座に両足を切り返し、振り下ろした愛刀を身体に引き付け、大地を舐め上げる下段からの正しく必殺の一撃を敵の頸に向けて見舞う。


「づあっ!!」


「ぐっ!?」


ほんの一瞬の判断の違いだったのだろう。分厚い豪刀、偉丈夫と言ってもいい体躯、傍目からも見て分かる胴に巻かれた頑丈な鎧と、甚十郎の外見は見るからに刀の一撃一撃の破壊力に重きを置いた、“力”の剣客だった。事実、一刀の破壊力はまさに一撃に鎬を削る剣士そのものだ。しかし、ある一点を、彼の賊は読み違えていた。故に、瞠目する。


「!?」


のたうった竜が描かれた面の奥、僅かに開いた二つの眼の穴から、彼自身が必死の思いで作り上げた間合いが、ほんの一呼吸で全て踏破されたのを目の当たりにして。


紫月甚十郎静隆


紫月家城下、黙座流白上道場の高弟たる彼の最大の持ち味は、他の士よりも遥かに分厚く殺傷性の高い刀剣からの斬撃でもなければ、それを繰り出すに足る、圧倒的な巨躯の持つ剛腕でも無かった。彼の最大の業。それは、


「っっっづあぁ!!」


純粋な日々の鍛錬によって作り上げられた、生まれ持っての体躯の礎。来る日も来る日も、幾度となく踏み込みを重ねた両脚より繰り出される、圧倒的な“突進速度”だった。

ほんの一瞬で、間合いを詰められ、そして、その勢いのままに巨体が賊徒の―甚十郎の体躯を受け止めるには、余りにも柔らかく、頼りない―腹にねじ込まれる。


「……ごぼっ!?」


一瞬、間を置いて、面の奥で腹に溜まった空気を全て絞り出された男は、二度三度と荒く息を吐きながら、それでも再び地面を転げ、甚十郎との間を作りに動く。その動きの迷いの無さと一瞬の動きに生死を駆ける姿が、その男がくぐって来た修羅場が、決して伊達ではない事を物語っていた。


「じゃあああああああ!!!」


そして、それ故に、追い縋る甚十郎の一投足も又、先の一瞬よりも、鋭く、石畳を斬り裂く。

 肩口からぶちかました体当たりの体勢から、身体全体の“ひねり”を遣い、下段からの擦り上げと共に地を滑る甚十郎の必殺の足裁き。銀色の龍尾が、甚十郎という竜巻を中心にして目の前に転がる敵を食い散らかし、そして、今にも天に昇らんとしていた。




















―おかしい―




甚十郎の内心に、意図せぬ不安が去来した。敵を仕留める一瞬、まるで世界そのものが時をゆっくりと刻み始めたのか、自分の意識だけが加速しているのかと錯覚する甚十郎。その内心で、不意に囁くもう一人の自分。


―本当に、此のまま斬って良いのか?―


―五月蠅い―


―此の敵は、本当にこれで詰みなのか?―


―黙れ―


―だけど……―


―黙れ!!―


(この瞬間は、本当に嫌になる。振り切れ!!)


埒も無い事を考え出す脳裏を、自分自身の未熟故の弱さと切り捨て、内心で内心に喝を入れる甚十郎。どの道、この場では振り切るしか手はない。止めてしまえば、それこそ死中に活を求めに行く自身を殺すことになる。此れまで、幾度も“そう”してきたように、甚十郎は脳裏の声を振り払う。だが、



「!?!?」



一瞬、面の奥の賊徒と、視線が交錯した気がした。無論、それだけならば、珍しくはない。敵を斬る時、その命が絶える一瞬、少なからずその生命は命の残り香として、強い感情の籠った視線を残す事があった。大よそ、その視線は強い絶望か悔恨に染まった物だったが、


(……?)


しかし、甚十郎と交叉したその視線は、甚十郎が此れまで目にしてきたそれとは、何かが違っていた。


(妙だ……)


微かに感じた違和感が、一瞬で肥大化し、甚十郎の脳裏を覆いつくす。不安の雲とも言っても良いその感覚は、まるで、甚十郎の意志を堰き止めるかの様にその思考に無理矢理纏わりついてくる。


(……初めて見る“目”だ)


ふつと湧いた違和感に、冷静なもう一人の甚十郎が覚えた感想は、それだった。

今までにも、甚十郎の前で強い力の籠った目を遺して逝った賊徒は居た。それこそ、憎悪や憤怒は枚挙に暇がない程に。


(だけど……)


“これ”は、今まで見て来たそれらのどれでもなかった。強い感情なのは間違いない。だが、負の感情でも在り得ない。そう、それはまるで、何か腹を括った様な、否、自身の勝利を確信したかの様な……。


「あああああああああああ!!!!!!!!!」


一瞬、脳裏を過った後退の思考を振り払う様に、裂帛の気合と共に斬り上げる甚十郎の一太刀。その瞬間、賊徒の手の内で僅かに、くの字刀の刃が星光に煌き……





「そこまで」





二人の間に、深い女の声が響き渡ったのだった。


「「なあっ!?」」


瞬間の交叉に入っていた、二人の拍子が僅かに狂う。斬撃の交錯、命の遣り取りの中で、その一瞬の“間”はあらゆる意味で致命的だった。僅かに手元が狂った甚十郎の切っ先が、一呼吸遅れたが故に、体位を残してしまった賊徒の面を舐め上げる。


「!!」


散花


甚十郎の胸に、その瞬間、不謹慎にもそんな言葉が去来した。漆塗りの面を斬り上げた豪刀が、その奥にある柔らかな血肉を切り裂き、そして、賊の頭巾を巻き込んで天に昇った瞬間、まるで、蝶の羽化の様に、或いは、谷桔梗の開花の如く、暗い寺院の中に、ふぁさりと純白の一輪花が咲いたのだった。


「ぐがあああああああああああああ!?!?!?」


だが、その一瞬の動揺を断ち切る、強い“女”の断末魔が同時に響き渡った。


「な、な……」


目に痛い程に白く、そして白い長髪。その純潔の白を、甚十郎が切り裂いた“男”の鮮血がじわりと染め上げていく。半紙にどろりと朱の墨汁を垂らした時の様に刻々と広がりゆく血の色に、甚十郎は残心も忘れ、唯々茫然と立ち尽くしていた。


「こちらは既に捕縛も粗方終わっています。……何時まで遊んでいる気ですか? 助役殿」


「菅さん……ですか」


振り返った甚十郎の視線の先に居たのは、同じ馬場町奉行所の装備を纏った、鋭い目つきの女性だった。


「……」


無言で甚十郎と敵の賊徒のみが居た戦場に立ち入って来た彼女は鋭い咎める様な目付きで甚十郎を見上げた。賊徒の白い髪とは対照的な、闇に溶けてなお黒く映える墨色の髷がゆらと揺れる。


「御奉行への報告もあります。賊徒の掃討など、時を掛けずに行っていただけませぬか」


「……」


甚十郎への侮蔑を隠そうともしない下役の言い分に、一瞬言葉に詰まる甚十郎。そんな姿に鼻を一つ鳴らすと、菅、下役の菅在誠は倒れ伏した賊徒にちらりと目を遣ると、潔癖そうに目を逸らして、さっと踵を返す。


「貴方の実力では、この程度の賊一人捕えるのも、一苦労……と、いう事ですか」


「さっさとしてください。皆引き上げる準備は出来ております故」と付け足して、部屋から出て行った下役の背中を、今々の命の遣り取りでの興奮と焦燥で、唯々茫然と見送ってた甚十郎だったが、直ぐに我に返ると、慌てて、倒れ伏す目の前の敵に向き直る。


「!!」


床板に散った純白の長髪をぐっしょりと染め上げる紅の鮮血その源で、気を失っているであろう“彼”のその整った顔に、甚十郎は僅かにだが言葉を失う。


「……」


自身の袖口を切り取り、唇の右端から右の眼球までをざっくりと疾った傷口に宛がい、手早く止血を行う。一瞬触れたその頬に、甚十郎は悔しそうに、そして苦し気に表情を歪ませた。


「……申し訳ございませぬ」


一つ、気絶した賊徒に懺悔すると、甚十郎は納刀して、男の身体を軽く背負いあげる。明らかに“軽い”身体。そして、背中に感じる柔らかさに、甚十郎は在誠(ありまさ)が何をしたのかを改めて理解する。


「……!」


そのまま、部屋を出かかったところで、月光を反射する光に気付き、ふと後ろを振り返った。

 甚十郎の視線の先にあったのは、鈍く光を反射するくの字の二刀。主を失ったその二振りに気付いた甚十郎は、小さく嘆息しながら部屋に戻り、その小振りの二刀を拾い上げる。俄かに乾きつつあるどす黒い血染みに目を細め、この一夜でどれ程多くの人間の喉笛をこの一刀が削り取って来たのかを察する。背中に感じる重みが僅かに粘ついた様な気になりながら、甚十郎は再び部屋を後にする。


今度は、振り返る事も無かった。





白い髪の賊が扱っていたものは所謂グルカナイフをイメージしておりますが、

実際のグルカナイフは投げても回転して戻ってくることはありません。

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