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白獣伝

作者: 小川かいた

なんか、似たような話が多いんですが。

 女がそれを見つけたのは全くの偶然だった。薬草を採りに山に入るものの目的の草が見つからず、やむなく山の奥へ奥へと入ったときだった。

 奥に分け入っていくにつれ、なにか異様な空気を感じはじめていた。木々が不自然にあらされている。山奥から流れてくる風の中に、なんとなく鉄の錆びたような匂いが混ざっていた。

 もう帰ろう、そう思ったとき突然山の上からがさがさと音が近づいてきた。

 慌てて逃げようとしたそのとき、目の前になにかが転がり落ちてきた。それは人だった。男だ。全身が真っ赤に染まっていた。

 女は驚きのあまりに声すら出なかった。近くにあった木の幹にしがみついて、男をじっと見た。

 男は全身に傷を負っていた。服がびりびりに引き裂かれていて、そこからあふれるように血が出ている。片腕がない。もう片腕には刀を握り締めていた。

 女は最初の驚きから覚めて、男に近寄った。男にまだかすかに息が残っていた。しかしそれが消えるのも時間の問題だろう。

 女は男の服を裂いて、それでも足りずに自分の服も裂いて男の体に巻きつけた。なくなっている左腕は、ずいぶん昔の傷なのだろう。切り取られた後がきれいに治っている。

 女は自分の家に連れて帰ろうと思った。それほど遠くはない。

 肩に担ぐため、持っている刀をはずそうとした。離さなかった。死んでも離さない、そんな風にがっちりと握ったままだった。

 仕方なく、用心しながらそっと肩にかついで、そのまま斜面を降り始めた。


 ※     ※


「……ん……」

 まぶしさに気づいて男は目を開けた。男が最初に見たものは、見知らぬ汚い天井だった。

 男はゆっくりと目だけを動かして辺りを見まわす。どうも知らないうちにどこかの小屋に来ていたらしい。

 はっと気づいて右手を上げる。刀がない! 男は慌てて起き上がろうとしたが、全身に痛みが走って倒れこんだ。

「まだ起きてはだめですよ。あんなにひどい怪我だったんですもの」

 不意に女の声が聞こえた。こつこつと足音が近づいてくる。

「誰だ‥‥」

「誰だとは失礼な言い方。私があなたをここまで運んできて、手当てをしたのですよ」

「刀は‥‥刀はどこだ!?」

「あります、ちゃんと。それより、お薬を替えましょう」

「いらん世話だ」

 男は用心しながらゆっくりと起きあがって女を見た。

 女は質素、というより襤褸切れのような服を着ていた。髪もばさばさで、肌も垢で汚れている。そしてなにより右目の上にひどい腫れ物があり、片目を塞いでいた。

 女は両手になにかの器を持っていた。それを男の横に置いた。中には緑色のどろどろとした液体が入っている。

「もう一度寝転びなさい」

 女はぴしゃりと言いきった。その言葉の調子に抗えないものがあり、男は自然ともう一度敷物に寝転んだ。

 女は手早く包帯を取り去ると、その緑色の液体を男の体に塗りつけた。

「くっ‥‥」

「染みますけど、治りは早いですから。もう傷口も塞がってる」

 薬を塗り終わり、薬を染み込ませた布をあてがってからまた丁寧に包帯を巻きなおす。お世辞にも清潔とはいえない包帯だったが、ほかにないので仕方ない。

「3日間も眠りっぱなしで、心配しましたよ」

「その間、ずっと見ていたのか?」

「当たり前でしょう。死なれたら目覚めが悪いもの」

「そうか……。世話になったな、すまん。だがもういい。オレは出ていく」

「そんな体でどこへ行こうって言うのよ」

「刀が、探してくれる。オレの行き先を」

 男は起きあがり、ゆっくりと立ちあがった。まだ足元がおぼつかない。

「刀はどこだ」

「言いませんよ」

「なに?」

「そんな傷で無理させられますか。刀がなけりゃどこにも行けないってなら、刀の場所は教えません」

「教えろ、どこだ!」

 男は女の胸倉を掴んで引き上げる。しかし女は男をきっと睨んだまま、視線をはずそうとしない。

 そのまま、しばらく沈黙が続いた。が男のほうが根負けした。手を離し、女が尻餅をつくに任せた。

「強情な女だ。なぜそんなにオレに関わろうとする」

「あなたに関わっているわけではありません。怪我人を放っておけないだけです。こう見えても……私も医者の娘ですから……」

 女の声が弱々しくなった。男が見ると、女の表情がなんだか曇っているように見えた。 男は敷物に座りなおした。

「オレは李瞬。女、おまえの名は」

 女は不意に目を上げた。驚いていた。

「わ、私は……桜々……」

「オレと関わるとろくなことがない。それでもいい度胸があるなら、おまえの世話になろう。腹が減った。なんかあるか?」

「助けているのは私ですよ。なんて偉そうな言い方」

 女はそう言って怒って去っていった。がたがたと遠くで物音が聞こえ始めた。


 ※     ※


 1週間が経った。男はもう十分動き回れるようにまで回復した。それでもまだ女は刀を返してくれなかった。

 女の作る食事はうまかった。しかしいかんせん貧しさが出ていた。

 女だけがここで暮らしているわけではなかった。老婆が一人、小屋の奥で臥せっていた。女の母だそうだ。病気が重く、煎じ薬をいくら使っても、もう長くはないだろう、と。

 女はそう語りながら、ひどく悲しそうな目で母の額を撫でていた。

 男は時々外に出て、体を動かした。しばらく寝たきりだったため、ずいぶんと体がなまっていた。

 外に出てみると、小屋が村からずいぶん離れているのに気づく。村は山から離れたところにあるが、女の小屋はもうすぐそこが山だった。

 山へ薬草を採りに行きやすいためかと思ったが、そうではなかった。

 ある夜、女が母の看病をしているときに男は尋ねた。この小屋が村から離れているわけを。

「私達親子は、外からこの村に来たのです。ですから村には入れてもらえませんでした。ただ私達を不憫に思ってくださった村の長がこの場所を与えてくださったのです」

「なぜこの村へ来た」

「私達は都で暮らしていました。父は名医として、帝に仕える身分でした。帝は不老不死を求めて多くの医師や、仙術使いを雇っていましたが、その中で父が最も腕がよかったのです。しかしある時、父が処方した薬で帝がひどく具合を悪くして……。父は穴埋めに決まりました。私達家族を逃がして、父は一人刑に処されました。そして私達はこの村にたどり着き、ひっそりと暮らしています」

「その腫れ物は、そのときになにかあったのか?」

「いいえ、これは子供の時からですよ。父にもこれは治せませんでした。だから父はよく言ってました。おまえの腫れ物を治せない私が、帝にお仕えするなんて、とてもじゃないけど勤まらない、と」

 質の悪い油の火で照らされた女の顔は、昔を思い出しているのだろうか、楽しそうな、幸せそうな表情を浮かべていた。

「あなたはなぜ、あの時あの山に? あんなにひどい怪我をして……」

「聞くな」

 男は無愛想にそれだけ言うと、さっさと寝床へと戻っていった。

 女は寂しそうにうつむいた。


 ※     ※


 ある夜、男はすすり泣く女の声で目を覚ました。まだ月は中天に差し掛かった頃だった。 女は母の横に座り、その手を握り締めたまま静かに泣いていた。必死にこらえるように、声を立てないように。

 男は女の肩にそっと手を置いた。

「我慢することはない。泣くといい」

 女はこらえきれずにわっと泣き出した。男は女をそっと抱きしめてやった。

 数刻、女は泣き通した。やがて気持ちを静めるように何度か深呼吸して男の体から離れた。

「すいません……起こしてしまったようで」

「気にするな」

「存外、優しい方なんですね……」

 男は黙ったままあらぬ方向を向いて話を変える。

「葬式はするのか」

「はい。でもご覧の通りですから、それほどのことはできませんが……」

 翌日、母の葬儀が行われた。小屋の横に穴を掘り、線香を焚きながら覚え慣れぬ念仏を唱えた。参列したのは女と男、そして小屋に住めるよう手配してくれた村の長だけである。 そんな簡単な葬式のあと、長は女に二言三言声をかけて帰っていった。

 後に男と女だけが残った。

「ひとりになってしまいました……」

 いつもと変わらぬ服を着た女は、寂しそうにそうつぶやいた。男は何も言わなかった。

「これから……」

 不意に声を詰まらせる。

「一人が不安か」

「あなたは不安ではいなの?」

「ならん。一人だろうがなんだろうが、オレには関係ないからな」

「そう……」

「結婚して子でも産め。それが普通の人生だ」

「こんな私に、相手がいるものですか」

「さあな」

「あなたはまた、どこかへ行くのですか?」

「ああ。ここには長居しすぎた。目的は果たせていないが、またどこかへ行く」

「目的?」

「会いたいやつに会っていない」

「会いたい? それはあの山に関係あるのですか?」

「うるさい女だ。どうしてそうなんでも聞きたがる」

「……ごめんなさい……」

 男はひとつため息をついた後、おもむろに話しはじめた。

「オレはある者を追っている。オレはそいつに借りがあるから、返すためだ。そいつの居場所を知っているのが、この山に住んでいるやつだ」

「この山にって……まさか」

「化け物猿だ。やつに会いたかったが、手下しか出てこなかった。油断してひどい目にあっちまったんだがな」

「あなたは、そういう仕事の人なのですか。妖怪退治……」

「仕事じゃないさ」

 男はそう言って、ひどく暗い表情を見せた。女は一瞬、背筋がぞくっとした。なにか恐ろしさ、というより凄みがあった。

 この人とは、生きている世界が違う……。 女はいろいろと聞いたことを後悔した。それは自分の身に降りかかるかもしれない危険な事を恐れてではなく、男のことを思ってだった。

 たった一人で生きていかねばならない人なのかもしれない。

「刀を……お返しいたします……」

「ん?」

「ずっと預かりっぱなしで……。私のわがままに付き合わせてしまって」

「気にするな。刀を返すんだな。持って来い」

「はい」

 女は一度家に入った。そして戻ってきたとき、両手で大事そうに一振りの刀を持ってきた。抜き身のままだったはずだが、ちゃんと鞘に収められていた。しかもかなり造りの立派な鞘である。

「それは?」

「父が帝から賜った刀を収めているものです。私には刀など不要ですから、あなたにこの鞘を使ってほしくて」

「オレにも必要はないが、ありがたくもらっておこう」

 女はそっと刀を差し出す。男は受け取り、さっと鞘を払った。中から身の毛もよだつような美しい刀が現れた。

 刀身が淡く青い色で輝いているように見える。

「手入れしてくれたのか?」

「いえそんなことはできません。ついていた血を拭いただけです」

「そうか。すまんな」

 男はそっと鞘に刀を収めた。

「刀も戻った。オレは行く」

「もうですか?」

「ああ。オレがここにいても仕方ない」

「そうですか……。もう引き止めはしません。あなたにはとても大事なことがありそうだから。ただ、くれぐれもお気をつけて。無事をお祈りしています」

「ああ。おまえも達者でな」

 男は軽く手を上げたあと、振り返りもせずに歩き出した。

 やがて男は見えなくなる。女はじっと、その背中を見つめつづけた。


 ※     ※


 腰につるしている刀が、突然ぶうんと低くうなり始めた。ふと立ち止まって辺りを見まわす。刀が妖怪の血を欲している。すぐ近くにいる。

 そのとき、さっと影が通りすぎた。あきらかに雲が通っていく影ではない。その影を追って視線を走らせる。

 巨大な猿が、空を駆っていた。向かっている方向は……。

 男は自然と、足の向きを変えた。

 あの山の主、化け物猿が村に行く! 女がいるあの村に!

 男は来た道を急いで戻り始めた。


 ※     ※


 村のすぐそばまで来た時、突然ぱっと赤い閃きが見え、轟音とともに熱い風が吹き付けたきた。

 轟々と村が燃え始めていた。

 男は燃え盛る村の中に構わず入る。そして村の中心部で仁王立ちする大猿をみつけた。

 男は無言のまますらりと刀を引きぬき、きっと大猿を睨みつけた。それに気づいた大猿が男に向かって身構える。

「貴様かァ、わしの可愛い子供達をやったのはァ!」

 天にも届くほどの大音声が響く。

「貴様に聞きたいことがある」

「問答など無用だァ! 今すぐお前をぶち殺して、貴様のはらわた食らってやるゥ!」

 大猿はすうっと息を吸い込むと、ごうっと火炎を吐き出した。空気までが一瞬爆ぜるほどの灼熱の業火だった。

 ぱっと刀を一閃させると、その炎は竹を裂いたように男をすり抜けて走り去る。

 炎が周りの家々に燃え移った。一瞬にして爆発し、家が音を立てて燃えあがる。そして中にいた人々が体のあちこちを燃えあがらせながら飛び出してきた。

 悲鳴をあげながら走り回る、さながら松明たちの舞踊のようだった。

 そのとき、男に異変があった。男の脳裏にある、堅く封印されていた記憶がすっと浮かび上がってきた。

そのとき、治ったはずの左肩から溢れるように血が噴出してきた。

「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」

 男は地面にうずくまる。あの夜の事が鮮明に思い出された。


 ※     ※


あの夜……。


 ※     ※


 月に一度、村で取れた作物や縄で作った細工物を売るために、峠ひとつ向こうの町まで売りに行く。

 交代で当番が回り、その日は李瞬の当番だった。

 村のものをお金に替え、頼まれていた買い物を済ませる。李瞬は6歳になる娘のために、きれいな石がついているかんざしを買ってやった。

 峠を越える頃にはもう日は暮れていた。しかし不思議なことに、その日は妙に空が赤かった。

 おかしいおかしいと思いながら峠を越えて、なぜ空が赤いのかが分かった。

 自分の村が、赤々と燃えていたのだ。

 李瞬は驚いて驢馬に鞭を入れ、急いで村まで走った。

 村の側までくると、驢馬が怖がって動かなくなってしまった。炎に驚いているというより、何かに怯えて早く逃げたいといった様子だった。

 李瞬は仕方なく驢馬を手近な木にくくりつけ、急いで村に入った。

 あまりの火の勢いに、肺までが焦げそうになる。あちこちに逃げ遅れた村人たちが転がってた。中にはまだ苦しそうな悲鳴を上げている人もいる。

 李瞬はそういう者を見つけたらさっと土をかぶせてやり火を消すのだが、傷がひどくて助かりそうもなかった。

 李瞬はそうしながら、ようやく自分の家の前にたどり着いた。火が燃え移っていたがまだ無事な様子だ。

李瞬は妻と娘と母の名を叫びながら扉を開けた。

 信じられない光景が飛び込んできた。

 部屋の中央に、一匹の獣がたたずんでいた。それは恐ろしくも美しい獣だった。真っ白な流れるような体毛。そして力強い足。鋭い牙と爪。息を呑むような堂々とした体躯だ。

 そして炎よりも血よりも真っ赤に燃える目で、李瞬をにらみつける。その獣の口の周りは、赤く染まっていた。

 李瞬は時間が止まってしまったかのような遅い動作で、ゆっくりと床を見た。

 横たわる妻と母。腹から食い破られ、あたりは血の海になっていた。

 そして獣のその足の下に、娘が横たわっていた。

「やめろぉぉぉ!」

 李瞬は無我夢中で、その辺りにあるものを掴んで殴りかかった。しかしそれより早く、獣は娘を加えるとどんと李瞬にぶつかってきた。

 李瞬は大きく吹き飛ばされ、地面で背中を強く打った。息ができない。ようやく息ができるようになったとき、左肩に強烈な痛みが走った。見ると溢れるように血が噴出しているその先に、腕がなかった。

 李瞬は声にならない声をあげ、遠く飛び去っていこうとする真っ白な獣に手を伸ばした。届かない。手を下ろしたとき、そこに娘のために買ったかんざしが落ちていた。

 李瞬はそのかんざしをぐっと握り締め、張り裂けるような叫び声をあげた‥‥。


 ※     ※


 張り裂けるような叫び声をあげた男の、その呼びかけに答えて刀が反応した。

 刀はより一層、青い光を放ちはじめる。

「におうぞォ、におうぞォその刀ァ! 何匹もの化け物の血をすすったにおいだァ! それでわしの子供達を殺したなァ!」

「貴様も送ってやる、今すぐにな!」

 刀がひときわ強烈に光ったその瞬間、その光が巨大な大蛇へと変わった。大蛇はまっすぐに大猿へ飛びつき、その鋭い牙で大猿を咥えこみ、その太く長い胴体で締め上げる。

「ぐがあァァァァァァァァァァ!」

 大猿が必死になってその大蛇を振り払おうとする。しかしもがけばもがくほど、その締めつけは苦しくなっていく。

 男はさっと刀を振り上げ、無造作に飛び出した。

 人とは思えない跳躍力で飛び上がり、大猿の頭上から一気に刀を振り下ろす。

「うがっ……。ぐわァァァァァァッ!」

 大猿は断末魔の悲鳴を上げながら、真っ二つに引き裂かれていく。そして両方の体がどうと地面に倒れた。

 しかし大猿はまだ生きていた。恨みのこもった目で男を睨めつけながら、しゅうしゅうとくぐもった声をあげた。

「お前はァ、お前からはァ……ヤツの匂いがするぞォ……白獣の匂いがァ……。くせえくせえ……」

「今ヤツはどこにいる。答えろ」

「お前がァ、お前ごときが、白獣に太刀打ちできると思うかァ……」

「どこにいる」

「ヤツは自在だァ。わしにも知らん。だがその刀がァ、教えてくれるだろう……。地獄へまっすぐに続く道だぞォ」

「そんなもの、もう通っている」

「お前を待ち構えて……食らってやるぞォ」

 男は冷淡にそれを見つめたあと、刀を大猿に突き立てた。

 ひゅうっと短い声が聞こえて、大猿は絶命した。

 その時、男は激しい咳に襲われた。口をおさえた手でも受け取れないほどの血を吐く。

 男はふらふらと地面に倒れこんだ。


 ※     ※


 女がそれをみつけたのは、必然だった。

 どんと音が聞こえたときにはもう村が燃えあがっていた。そして確信的なひらめきがあった。

 あの村に、あの人がいる!

 女は知らず知らずに村へ向かって歩き出していた。あまり急いでも、あの人の邪魔になる。きっと今、あの人はなにか大変なことをしているに違いないから。

 そうしてゆっくりと歩いているうち、村の様子がはっきりと見えてきた。村は燃えあがり、もうほとんどが消し炭になっていた。あちこちに黒くなった人の体があり、その匂いと熱気で女は眩暈を覚えた。

 しかしそれでも歩き続ける。村の中へ、そして村の中心へと。

 そこで倒れこんでいる男を見つけた。

 ああ、やっぱりいた。

 女はすぐさま駆け寄った。男が倒れている地面に血が染み込んでいた。そっと抱き起こすと、男の口から血が流れていた。

 女は用意した薬と包帯で、男の介抱をはじめた。


 ※     ※


 男が気づいたのは、もう月も空高くに上がってからだった。

 男は頭の下に、柔らかいものを感じてふと視線を動かす。あの女がいた。

 女の膝枕で眠っていた。女もつかれているのか眠っている。しかし手だけが、優しく男の頭を撫でていた。

 男が頭を動かした拍子に女が起きた。

「ん……。目が覚めたのですね」

「ああ……」

 しばらく無言だった。男には話す言葉などなにひとつなかった。ただ女は、ひとつだけ知りたいことがあった。

「あの……。どうしてあなたは、ここまで自分を傷つけてまで、なにかを追い求めているのですか?」

「知らなくてもいいことだ、それは」

「でもどうしても、知りたいのです」

「いや……。オレとお前の見ている世界は違う。今こうして目を開いて見ている世界は、みんなが違っている。だから、なにを話しても無意味だ」

「でも、でも……話してくれないとなにも分からない……」

「分かってどうする。なにもできやしないさ」

「なにもできなくてもいいの! お願い、あなたの世界をちょうだい! 私の世界はもう、もう壊れてしまったんだから!」

 男のほほに冷たいものが落ちてきた。女がぽろぽろと涙をこぼしていた。しかしその目はしっかりと男を見据えていた。

「街を追い出されて、行きついた村さえもこんな有様で……。身寄りもないし、行く当てもない。どうして……どうして……」

 男はしばらく目をつむっていたが、不意に口を開いた。

「オレは今あるヤツを探している。そいつをオレ自身の手で殺したいからだ。だが力の差は大きい。オレも死ぬだろう。だがそれでいい。それで構わない。この手でヤツを殺せるなら。それがオレの世界だ。なにも残らない。やがてオレの世界も壊れるだろう」

「だったら……」

 女はそこまで言ってから、はっと気づいたような表情をした。

 しかし一度大きく深呼吸すると、意を決したように口を開いた。

「やがて壊れる世界なら、これからの私のためにそれを少しください。あなたが生きていた証のために。そして私が生きている証のために」

「どうするんだ?」

「あなたの子を、私に産ませて……」

 女は言ってからひどく恥ずかしくなって、手で顔を隠す。その手を、男はそっと掴んだ。

「いいだろう。オレの世界、その体で受け取るがいい」


 ※     ※


 やがて男は去った。そしてそれから女もいなくなった。

 いまはただ焼け残った村の廃墟と、そのはずれにある今にも壊れそうな小屋が、その場所に残っているだけだった。


 昼なお暗き森の中、ひとりの少女が歩いていた。少女の周囲で小鳥が囀る。ウサギやリスが跳ねまわる。 猿やオオカミ、虎もいた。みな嬉しそうに少女の足元に擦り寄ったり駈けまわったりしていた。それは誰が見ても不思議としか説明しようのない光景だった。

 森の動物たちは少女を、自分たちしか知らない小道へと導いた。森はうっそうと茂り、詳しい案内者がいなければすぐに方向を見失って迷うような場所である。しかし少女には一切不安はなかった。

 やがて森が切れ、目の前に信じられないほどの美しい景色が広がっていた。高い崖の上から広大な緑の絨毯を見下ろす。微かに霞がかかっているのは巨大な瀑布がいくらでも小さな水の粒を作り出しているからだ。

 その小さな水の粒ひとつひとつが太陽の光を反射させ、大きな虹を作り出していた。この虹を動物たちは少女に見せたかったのだ。少女は周りにいる動物たちに一声鳴いた。動物たちはますます楽しくなり、歌ったり踊ったりし始めた。少女も一緒になって歌い踊った。

 しばらく遊んでいると、少女の耳に獣の遠吠えが響いてきた。くぅんとひとつうなると少女は動物たちと一緒に元来た道を駆け出した。斜面を駆け登り駆け下り、数えられないほどの木を置いてけぼりにしてようやく少女は自分の家に戻ってきた。崖に出来た裂け目、そこに自然に出来た程よい洞窟が少女の家だった。

 その家の前に、美しい真珠色をした獣が毅然と立っいた。獣は少女の姿を見とめると、ゆっくりと近寄っていかにもいとおしいというような優しい仕草で少女の体に顔を撫でつけた。少女もくぅんくぅんと鳴きながら獣を抱きしめた。その周りで動物たちが口々にいい訳を並べ立て、どうか叱らない様にと懇願していた。もとより獣には少女に、そして動物たちに叱る気などなかった。だから優しく少女に虹を見せてくれた動物たちに礼を言った。

 そうしてまた動物たちが踊り出す。それに合わせて小鳥たちが自慢のノドを披露しはじめた。

 森の奥の奥の、お話である。


 ※     ※


 男は大層困っていた。道に迷ってはや三日。用意していた食料も底を尽きかけていたし、なにより足が思うようにならない。右の足の甲が紫色に腫れている。きっとなにかの虫か草の毒が入ったんだろう。少し熱もあるようで、なんだかくらくらして仕方ない。

 ほんの少し休もう。男はそう思って身近にあった木の幹に背中をもたれさせ、その根元に座り込んだ。そうして程なく男は意識を失った。


 ※     ※


 男がうめき声を上げながらうっすらと目を開けた。少女が心配そうな表情で覗きこむ。 すると男も少女に気づいて、驚いて飛び起きようとした。

「うぅ! うぅぅぅ・・・」

 ビックリするような力で肩を押され、抵抗できず男はまた寝転がされた。少女はそれを見てにっこり笑うと、おわんを自分の口に運んだ。そうして中のものを飲むと、男に口移しで飲ませた。少し苦味のある液体だった。その苦味より、見も知らない少女からの思わぬ口付けに驚き、少しむせこんだ。

「あぁう?」

 少女は少し傾げて、男の胸をやさしく撫でつけた。

「あ、ありがとう……もう大丈夫です」

 しかし少女は構わず胸を撫で続けている。 男は少女の手を取って少し微笑んだ。すると少女も微笑み返し、男から少し離れて座りなおした。

 それからようやく男は自分の置かれている状況を見ることができた。薄暗い、洞窟のようなところである。寝かされているのは枯れた草が厚く敷き詰められている、おそらくは布団だろう。

 洞窟の中は広い。僅かな光源ではその全てを見とおすことができない。見える範囲では、やけに生活臭さがなかった。

 少女のは年の頃は十五、六歳といったところだろう。腰布ひとつで全裸に近いその体は獣のようにしなやかですらりと伸びている。髪は伸び放題だがよく梳られている。そして顔立ちが美しい。澄んだ両目がじっと男を見つめていた。

 男はとても気恥ずかしくなり、また裸身の少女を自分が見つめてしまったことに余計恥ずかしくなって、寝返りを打って少女から顔を隠した。

 ふと自分の手を見ると、あれだけ擦り傷のあった手や腕に丁寧に布が張られていた。僅かに薬草のにおいがする。湿布だろうか。

 それに気づいて男はようやく自分の足を確認した。右の足の甲、やはり湿布が張ってあった。腫れは退いており痛みもほとんどなくなっていた。

「これはお嬢さんがしてくれたんですか?」

 男は少女に振りかえらずに、手だけ挙げて湿布を見せながら言った。

「うぅ?」

 呻き声のような声で少女が言う。僅かに尻上がりな語尾で、疑問を発しているのは分かった。

「あ、いや。これね、お嬢さんがしてくれたの?」

 思わず男は振りかえって、真っ直ぐこちらを見つめている少女と目が合ってしまった。

「あ、あの、いや・・・。なんでもないんだ。ありがとう」

 なんと言っていいやら分からず、ただ顔を赤くしながら男はまた寝返りを打った。


 ※     ※


 それから男は、しばらく寝たままで過ごした。だが日がたつにつれ体力も元の通りに戻ってきたし、起きあがることや少しだけ歩く分には全く支障はない。

 洞窟の外はうっそうと茂る木ばかりだった。少女は一体ここで何をしているのだろう? どういう経緯でこんな森の洞窟に住んでいるんだろう?

 いろいろ疑問は湧くのだが、それに対する答えはいっこうに得られない。どうも少女は人の言葉を理解し、発声することができないようなのである。

 耳が聞こえない、口がきけない、そういうのではないようである。どうも感情豊かに喋っているようなのだが、獣の唸り声みたいな声しか出てこない。

 洞窟での数日、人が出入りしたのを見たことがない。ひょっとすると少女は人を知らないのではないだろうか? そうとしか思えない。生まれてこのかた、ずっとひとりでこの洞窟に住み続けているに違いない。

 しかし食料はあるのだ。少女が採りに行ってるのかと思いきや、どうもそうではない。つきっきりで看病してもらってたりしていたので分かる。彼女が外に一歩も出なくても、この洞窟に食料が運ばれてくる。しかも米なんかもあるわけで、絶対森で採れる代物ではない。

 どうやって?

 考えても答えなぞ見つかるはずもない。あまり考えないようにした。考えていけば恐ろしい答えに行きつくような気がした。


 もう足もよくなり、歩き回っても疲れないほど体力も戻ってきた。その間いろいろと面倒を見てくれた少女になにかお礼がしたかったが、あいにく商売物は全て売ってしまったあとだし、手伝おうにも大した仕事もなさそうだった。

 とりあえずまた何かお礼の品を持って来ることを約束し、一旦山から下りることにした。 話が通じているのかわからないが、少女は微かにうなずきながら微笑んでいる。

 手を振って歩き始めた男。あるかなしかの獣道を歩きながら森に入る。洞窟がどこなのかはよく分かっていないが、太陽の場所で大体の方向を探りながら道無き道を進む。

 やがて森が開けた。しかし道が先に続いていなかった。切り立った崖になっており、下まではあきれるほどの高さがある。

「まいったな・・・」

 男はそうつぶやいて、下におりられそうな道がないかと辺りを見まわした。

 眼窩には一面うっそうと茂る森がある。遠くに滝があり、一面に霧を発生させて余計に暗く霞んでいる。

その滝の上、崖の上に真っ白いなにかがいた。

 男は目をこらしそれを見つめた。遠くからだからはっきりとは分からないが、虎のような獣だった。

 鋭い牙が太陽光に反射してきらりと光っている。それから見えるのは赤い目だった。それ自体発光しているように、赤い目がきらきらと輝いている。しかもその目は、はっきりと男を見つめていた。

 男は心の奥から得体の知れない怖さがあふれ出てきた。獣は決して吠えたり唸ったりはしていない。第一あまりにも遠い。しかし獣が男をじっと見つめていること、その視線があまりにも毅然としていることに、男は心の底まで見透かされているような感覚を味わった。

 獣は堂々と、余りにも堂々としていた。その姿は名工といわれるどんな彫刻師でも表現できないだろう。恐ろしい美しさ。逃げ出したいのに目を釘付けになる。

 もしかすると少女と自分に食料を運んでいたのは、あの獣かもしれない。ならば少女はあの獣と森で暮らしているのか? 大丈夫なのだろうか。それに人として言葉も喋れず、人らしい生活もできないことは、幸せなのだろうか?

 男はいまさらになってひどく心配した。もしかするとこれは何かの巡り合わせなのかもしれない。少女にとってなにか恩返しできるとするならば、人らしい生活をさせてあげることではないのか、とも思った。

そこまで思案してふと目をあの獣に戻すと、獣はすでにいなかった。しかし突然、自分の背後遠くから、激しい獣の遠吠えが聞こえてきた。

 もしや少女が!

 男は元来た道を駆け出した。だんだんと声が近くなってくる。獣だけじゃない、なにか別の声も聞こえる。はっきりと人の言葉を発する、別のなにか。

 やがて辺りに、なにか錆びた鉄のような匂いがしてきた。その匂いには記憶がある。昔盗賊に襲われた村を通りかかったときに嗅いだ匂い。血の匂いだ!

 男はついに、声の元にたどり着いた。森の中でぽっかりと開いた草地。

「あ、あうあ……」

 男は言葉をなくし、体から力が抜けた。まるで無様に尻餅をついて、ただただ目の前にある信じられない光景を見つめるしかできなかった。

 巨大な人間が二人立っていた。身の丈は大の男三人分はあろうかという大男であった。どちらも分厚い筋肉で全身を覆っており、顔は般若のごとくである。まさしく仁王であった。

 方や先ほど遠くの崖の上に立っていたはずの獣だった。近くで見ると余計に美しさが目にまぶしい。真珠色の獅子だ。一葉の絵画を描くとして、今その風景の中で絶対に必要な要素であるかのごとく、そこにいるのが当然というほど自然に存在している。何事もないかのように巨人を見据えている。

 見た目の恐ろしさは大男の方である。しかし大男の片方は右腕と胸からひっきりなしに血を流し、草の上に血だまりを作っている。体格でいえば絶対に獅子が勝てる道理はないし、相手は二人である。だがここには他に何者も存在せず、獅子が巨人に傷を与えたのは明らかだ。

 その獅子からひしひしと伝わってくる不思議な力。それが心の底に届いたとき、いいようもない畏れが湧きあがってくる。

「兄者ぁ、わしはもうだめじゃあ」

「何を弱気なことを言うておる刹、その程度の傷など、あやつの肝を食らわばすぐに治る。なにせ不老不死じゃからなぁ。辛抱せい」

 地の底から響いてくるような重低音。腹の中にまで響いてくる。

「じゃが兄者ぁ、あやつは強い、強すぎるぅ。白澤では敵わぬが、その娘なら敵うと言うたは兄者ではないかぁ」

「ええい黙れ! 白澤の娘、それも末の娘ならば大丈夫とお前も言うておったろうが。さあ刹、行くぞ!」

「くそぅ兄者ぁ!」

 二人の巨人は腕を組んだ後、腰を落として重心を低くする。足の筋肉が膨張し、縮められたバネが一気にはじけ飛ぶ。

 片方の巨人が中心になり、もう一人がその周りを回転する。ごうごうと音を響かせながら、周囲の空気を切り裂く巨大な竜巻が出来あがった。

「ゆくぞ白陰! 烈風猛殺陣!」

 竜巻は猛スピードで獅子へとぶつかっていった。獅子は動じることなくきっと視線を見据えたまま一歩も足を動かさなかった。

 両者激突。その時猛烈な風と強烈な光が男を襲った。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 男は風に翻弄されながら、まるで枯葉のように吹き飛ばされた。


 ※     ※


 男は顔にひんやりとするものが当たって目が醒めた。驚いた拍子に身を起こすと、目の前の何かが敏捷に飛び去った。

「ん?」

 男はゆっくりと回復していく視力で周りを丹念に見た。すると藪の隙間から見覚えのある顔が覗いている。

「ああ、お嬢さんか……」

 男は今自分がどこにいるやら見当がつかなかった。先ほどまで化け物の戦いを目の当たりにしていて、なにかが猛烈な勢いで体にぶち当たり、あっけなく吹き飛ばされた。しかしその後の記憶は一切ない。どうも気絶していたらしい。

 ふと額に手をやると、濡れた毛皮が張りついていた。

「お嬢さん、また私は助けてもらったようだね」

 その時、遠くの方から何かの叫び声が聞こえてきた。声からすると先ほどの化け物の片方、巨人の声と思われる。

「そうだお嬢さん!」

 男は立ちあがり、怯えたように藪の中に隠れている少女に近づいた。少女は男の一挙手一投足に油断ならない視線を送っている。

 男はそれを敏感に察知して、小鹿に近づくように声をかけながら近づく。そして目の前まで近づき、少女と目線の高さを合わせた。

「お嬢さん、君がなぜこんなところにいるのか分からない。けれど君はここにいるべきではないということははっきり分かる。君は人の生活している場所でちゃんと生きていったほうが幸せだ。ここは危険だ、猛獣だっているし、もっと恐ろしいのまでいる。危険なんだ。そして私は君に助けてもらった。今度は私が君を助ける番だ。一緒に行こう。私と一緒に帰るんだ」

 男はそう言いながら、そっと少女の手に自分の手を重ね合わせる。一瞬少女は身を硬直させたが、次第に硬さが取れてきた。それを皮膚感覚で感じた男は手に力を込めた。少女の手をぐっと握ると、引きつけながら立ちあがった。

「さあ行こう!」

 男は少女の手をぐいぐい引っ張って森を歩き出した。方向が合っているか、それは男には分からなかった。しかし少女を危険から救いたいという一心で男は進み続けた。

 僅かに漏れてくる太陽の光から大体の方角の見当をつけて歩く。その後ろにはさして抵抗することなく諾々と足を進める少女が続いていた。

 ちらりちらりと少女の様子を確認する男。少女の表情からはなにも伺えない。なにをされているか分からないといった表情か。

 こんな森の奥で暮らしていけるわけがない。少女にはちゃんとした服と食事を与え、ちゃんとした読み書きを教えて、ちゃんとした人の人生を歩ませるべきだ。そしてそれは私のせねばならない責任だ。幸い蓄えもあるし一人家族が増えても問題はない。

 ここで出会ったのは何かの運命なんだ、男はそう確信していた。

 地面が僅かに傾斜している。山を降りていた。やはり方向は正しかった。このままゆけばいずれ森を抜けて山のふもとに辿り着ける。適当な民家で今の場所を聞けば、おのずと帰り道は分かるのだ。

 そうこうしているうちに、森の切れ目が見えた。よし、森を抜けられる! こんな忌まわしい場所から抜け出せるんだ!

 男の足は自然と速くなる。少女は半ば引きずられるようについて行く。

 森が切れた!

 だが男の足元にあった藪も消え去り、地面すらなくなってしまっていた。

 ああ崖に踏み出してしまった・・・。

 男は瞬間、少女の手を放して突き飛ばした。少女は重心を崩して尻餅をつく。崖の間際、少女は無事だ。

やけにゆっくりと落ちるんだな。

 男は次第に離れていく少女を見つめた。少女は放心状態だったが、やがて事態に気がついた。必至で手を伸ばすがすでに遅い。

 ああ、助けられなかった……。

 男はそう思い、せめて幸せな人生が少女に訪れることを、僅かな時間で祈った。

 その時、少女は何か叫び声を上げた。口を大きく開き、全身の力を使って叫び声を上げる。しかしそれは声として男の耳には届かなかった。

 せっかく助けてもらったのにゴメンよ。

 男は観念して目をつむる。これも運命か……。

 その時、突然衝撃が走った。上に引っ張り上げようとする力と、下へと引き摺り下ろそうとする力で、男は全身の骨がきしむ音が聞こえた気がした。

 はっとして目を開けると、まさしくそこに白い毛並みがあった。生臭く熱い息が首筋に当たる。

 あの化け物かっ!

 男は必至で抵抗した。すでに観念したはずだったのに、今別の危機に瀕して男の生存本能が全身を突き動かした。

 しかし獣は動じるでもなく、僅かに首を動かした。男は揺さぶられて、それと一緒に力まで抜けてしまった。

 ふと足元を見ると、ずっと下の方に地面が見える。その高さに驚いて男は全身を硬直させた。

 やがてふわりと身が軽くなる。獣は男に傷がつかぬよう細心の注意を払って男の首筋を咥えていた。その獣は、恐ろしいことに空中に浮いていた。空中に踏み台があるかのようにしっかりと四足をふんばり、見えない階段を駆け上がった。見る見る地面は遠ざかり、落ちた崖の上へと連れ戻された。

 獣はそっと男を安全な地面に降ろすと、ゆっくりと歩を進める。そして安堵の表情を浮かべる少女と男の間で立ち止まった。

 少女は獣の背に頬を摺り寄せ、甘えるように抱きつく。その姿を見て男は悟った。

 ああこの獅子が少女の母親なのだ、と。

 獣はゆっくりとうなずいた。まるで男の心を見透かしているようだった。そして首を2、3度左右に振ってからきっと男を見据えた。

 男の背筋に冷たい風が当たった。ぞくりと全身に鳥肌が立った。

「この子は、あなたが育てているのですね?」

 うなずきが帰ってくる。

「そうですか。あなたが一体何者かは分からない。しかしお嬢さんの母親であることは間違いないようだし、少女を幸せにもしているようです。私なぞが差し出たまねをしない方が、お嬢さんの為でもあるようですね」

 少女がじっと男を見つめていた。その瞳の奥に安らぎの光が見えた。

「私はこれ以上手を出しません。お幸せに。そしてお嬢さんのためにも、あまり無理はなさらないように」

 その時獅子は確かに笑った。確かに男の心の中が伝わったようだった。

 その時獅子が一声吠えた。それを合図に周囲の茂みから動物たちが現れた。男の荷物を咥えていた。

 男はそれらを受け取る。その時脳裏にある風景が浮かんできた。木々を抜け沢を渡り、斜面を下ってその先に人々の集落が点在する風景。この森からの出口のようだった。

 男は獅子に向かって深く深く腰を折った。

 この獣はこの森の主なんだ。人ではない人を超越したものなんだ。

 男が深くお辞儀をしている間に、獣は少女と動物たちを連れて、また森の奥深くへと戻っていった。

 どうか彼女らがいつまでも幸せでありますように。

 男は心のなかでそっと祈りを捧げ、教えられた道を歩きはじめた。不思議な森を抜け、人の住む世界に。

森は再び閉ざされる。



 おわり

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