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「ねぇ、旦那ぁ。聞いたわよ。」
女がおしろいを塗りたくった白い顔をにやにやさせてまとわりついてくる。
文吾の馴染みの女郎である。
文吾は布団の上に腹ばいになって、煙管を吸った。締め切った部屋は薄暗く、黄色い畳の色もくすんで見える。
「聞いたって何を?」
「同心小町。」
ぎょっとして女を見る。
「惚れられてるんだって?隅に置けないねぇ。ま、旦那だったら不思議じゃないけどね。なんかさぁ、旦那って色っぽいんだよね。同心小町が惚れるわけだ。」
「馬鹿言え。俺と雪乃じゃ、あわねぇよ。俺にはおめぇみてぇのがあってる。」
文吾は不機嫌そうに煙を吐いた。
「あれ、うれしいこと言っておくれだね。でも旦那。嫁は貰わないのかい?」
「ああ、貰う気はねぇ。」
「なんで?」
「なんでっておめぇ・・・。」
誰にも言えない秘密がまた頭をもたげてくる。このせいで誰も好きになってはいけないと思ってきた。
商家の後家さんとか人妻とかと、道ならぬ仲になったこともあるが、好きになったわけではなかった。
今までに恋をしたことがないわけではない。二十歳のころ、医者の娘と恋仲になった。娘は妻になりたいと言った。しかしこの秘密のせいで、どうしてもはっきりした態度が取れず、ある日娘は何も言わずに他人の妻になった。
それ以来こうして商売女や後腐れのない女ばかり抱いている。
女のところを出て、家への道を帰りしばらく経った頃、往来には人がたくさんいるのに、そこだけぱっと光がさしたように明るく見える。雪乃が立ってこちらをじっと見ていた。
「雪乃・・・。」
「立田さま・・・。」
雪乃の眼からぽろぽろと涙が零れ落ちた。
「どうした。なんでおめぇがこんなとこにいる?」
「長谷川さまに伺いました。立田さま。あんなところへいらっしゃるぐらいなら、わたしを・・・。」
言ってからはっとして顔を真っ赤にする。
文吾は眉根を寄せて雪乃を見て、
「馬鹿。嫁入り前の娘を疵物にできるか。それによくこんな所まで一人で来れたな。かどわかしにでもあったらどうする。いいから帰れ。送ってってやる。」
吉原は江戸のはずれ。途中船に乗ったりしなければ来られない。娘一人でどういう思いで道中やって来たのか思うと文吾は心が痛んだ。
板塀のある道まで来たとき、文吾も雪乃も半年ほど前のことを思い出した。
ある日、ここを歩いていた時、偶然二人はばったり会った。文吾は、雪乃が見慣れた羽織袴姿ではなく、気楽な着流し姿であった。
「あ、立田さま。こんにちは。」
「ああ。」
文吾は無愛想だ。
と、突然どどどどっと地響きがして、早馬が駆けてきた。
「あぶねぇっ」
「きゃっ」
雪乃は板塀に押し付けられた。文吾は雪乃を庇いながら、首をねじって早馬の方を見ていた。雪乃はその横顔を見上げて、あまりの近さにどぎまぎした。
「あ、あのっ。す、すきですっ」
そういうが早いか、文吾の腕をかいくぐって駆けだした。
「困ったな・・・。」
文吾は雪乃の後姿を見ながらつぶやいた。
それ以降も文吾の態度に変わりはなく、相変わらずニコリともしない。
(嫌われているのかしら。)
雪乃はしゅんとしながら文吾の後を歩く。
八丁堀の中村家の役宅にたどり着くころには、もう暗くなっていた。
「提灯を持って参ります。」
雪乃は家へ入って行って提灯を持ち、すぐ戻ってきた。
そこへ、
「雪乃。俺は妻を娶る気はねぇんだ。悪いが諦めてくれ。」
文吾はそっけなく言って、提灯を借り、帰って行ってしまった。