表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
江戸の春  作者: 井上はあ
2/8

2

午後の稽古が終わった。俊也はまっすぐうちへ帰る。帰る道を娘たちがついてくる。

うちへ着く間際にくるりと振り返り、苦笑いを浮かべながら一礼した。それが合図で娘たちは帰っていく。

 からりと玄関の戸をあけた。

「ただいま。」

「あ、お帰りなさい。」

雪乃がかわいい笑顔で出迎える。

 二人の父親は五年前に流行り病で亡くなった。母親は雪乃を産んで間もなく、産後の肥立ちが悪くて亡くなった。兄妹たった二人、身を寄せ合うようにして暮らしている。

 俊也としては、雪乃が嫁に行って幸せになること、それが一番の願いである。同心小町と言われる雪乃に縁談は引きも切らない。だが、できれば好きな人の所へ行かせてやりたい。そのためにはできる限りのことはしてやろうと思っている。しかし。雪乃の思い人の昼間の言動を思い出すと、少し気が重くなる。

「どうなさったの?」

雪乃はちょっと首を傾けて俊也を見上げた。

「お前、こないだの縁談・・・。断るね。」

「はい。」

当然のように即答する。

「このまま立田さまがその気になってくださるのを待つのか?」

「えっ」

雪乃は真っ赤になった。

「今度一度立田さまにはっきり伺ってくるよ。お前も十六だ。そろそろ決めないとな。」

「はい・・・。」

その時、玄関の戸が無遠慮に開けられ、若い侍が入ってきた。

「よう、雪乃いるかい?」

「長谷川?」

俊也は眉をひそめた。雪乃はとたんに身を固くする。

男はづかづかと上り込んできて、

「雪乃。いいこと教えてやろうか?」

にやにやしている。この男は長谷川臣人はせがわおみとといって、兄妹の幼馴染で雪乃に懸想している。俊也と同じ南町の同心だ。雪乃は臣人の下卑たところが大嫌いだった。

「おめぇの好きな立田さま。今頃ぁ・・・ひひっ、吉原の女郎のとこだぜ。なぁ、そんなつれないお方のことなんざ忘れて、俺と一緒になれ。」

「いやですっ」

普段はおとなしい雪乃がこの時ばかりはきっぱり言った。

こんなやり取りに慣れっこの臣人は、相変わらずにやにやして、

「俺は立田さまなんぞと違って、吉原の女郎なんかにゃ興味はねぇ。おめぇ一筋だ。あの人のどこがそんなに好いってんだ。」

「それは。」

雪乃は思い出す。

一年ほど前、今日のように俊也に弁当を届けに道場に行った。道場では試合が行われている最中だった。仕方なく見ていると、次々と相手を倒していく男がいる。面をつけているので顔は見えなかった。

「そこまで!」

道場主の春斎が手を挙げた。

(あの方、お強い。)

雪乃は気になって、その男のことを見ていた。

その男は一礼して道場の隅に行くと、座って面を取った。雪乃は息をのんだ。

一重まぶたが涼しく、見慣れた兄の美しいが女性的な容貌とは違い、男らしく精悍な顔立ちに一目で魅了されてしまったのだ。ぽーっとして兄が呼んでいるのにも、気づかないほどだった。

「雪乃っ」

何度目かでようやく気が付く。

「あ、ああ。お兄様。」

「どうしたんだ。ぼーっとして。」

「おい、俊也。何してる。行くぞ。」

そこへ、かの若侍が近づいてきた。雪乃の心の臓が早鐘のようになる。

「ああ、立田さま。ご紹介します。妹の雪乃です。雪乃、こちらが俺の上役の与力の立田文吾さまだ。」

(ああ、この方が立田さま。)

「雪乃でございます。兄がお世話になっております。」

震える声で挨拶する。

「ああ。こちらこそな。」

文吾は爽やかな笑顔を見せた。

文吾のことは、兄にときどき聞かされていた。

仕事をテキパキこなし、剣術にも長け、人望も厚い。ただ色好みなのが玉にきずだと、兄は苦笑しながら言っていた。

それを聞いたときは、とくになんとも思わなかった。源氏物語の光源氏のような方かしら?程度に思っただけだった。雪乃は光源氏よりも薫が好きだった。だから特別文吾のことには興味をひかれず、そのまま忘れていた。

想像していたのは、女たらしの優男。しかし目の前の人はいかにも武士らしい凛々しさを持っていた。

雪乃の様子を文吾は何とも言えない顔で見ていた。女慣れした文吾には雪乃の気持ちがすぐにわかったのだった。それ以来文吾は雪乃に笑いかけなくなった。そのことに雪乃は気づいていない。

「あのお方はなんでも生娘には興味がおありにならないらしい。おめぇが思うだけ無駄だぜ。」

臣人の言葉に、雪乃は悔しくて泣きたくなった。

「まぁいい。今日の所はこれでけぇるが、俺は絶対ぜってぇ諦めねぇからな!」

臣人は帰って行った。二人してほっと息をつく。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ