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午後の稽古が終わった。俊也はまっすぐうちへ帰る。帰る道を娘たちがついてくる。
うちへ着く間際にくるりと振り返り、苦笑いを浮かべながら一礼した。それが合図で娘たちは帰っていく。
からりと玄関の戸をあけた。
「ただいま。」
「あ、お帰りなさい。」
雪乃がかわいい笑顔で出迎える。
二人の父親は五年前に流行り病で亡くなった。母親は雪乃を産んで間もなく、産後の肥立ちが悪くて亡くなった。兄妹たった二人、身を寄せ合うようにして暮らしている。
俊也としては、雪乃が嫁に行って幸せになること、それが一番の願いである。同心小町と言われる雪乃に縁談は引きも切らない。だが、できれば好きな人の所へ行かせてやりたい。そのためにはできる限りのことはしてやろうと思っている。しかし。雪乃の思い人の昼間の言動を思い出すと、少し気が重くなる。
「どうなさったの?」
雪乃はちょっと首を傾けて俊也を見上げた。
「お前、こないだの縁談・・・。断るね。」
「はい。」
当然のように即答する。
「このまま立田さまがその気になってくださるのを待つのか?」
「えっ」
雪乃は真っ赤になった。
「今度一度立田さまにはっきり伺ってくるよ。お前も十六だ。そろそろ決めないとな。」
「はい・・・。」
その時、玄関の戸が無遠慮に開けられ、若い侍が入ってきた。
「よう、雪乃いるかい?」
「長谷川?」
俊也は眉をひそめた。雪乃はとたんに身を固くする。
男はづかづかと上り込んできて、
「雪乃。いいこと教えてやろうか?」
にやにやしている。この男は長谷川臣人といって、兄妹の幼馴染で雪乃に懸想している。俊也と同じ南町の同心だ。雪乃は臣人の下卑たところが大嫌いだった。
「おめぇの好きな立田さま。今頃ぁ・・・ひひっ、吉原の女郎のとこだぜ。なぁ、そんなつれないお方のことなんざ忘れて、俺と一緒になれ。」
「いやですっ」
普段はおとなしい雪乃がこの時ばかりはきっぱり言った。
こんなやり取りに慣れっこの臣人は、相変わらずにやにやして、
「俺は立田さまなんぞと違って、吉原の女郎なんかにゃ興味はねぇ。おめぇ一筋だ。あの人のどこがそんなに好いってんだ。」
「それは。」
雪乃は思い出す。
一年ほど前、今日のように俊也に弁当を届けに道場に行った。道場では試合が行われている最中だった。仕方なく見ていると、次々と相手を倒していく男がいる。面をつけているので顔は見えなかった。
「そこまで!」
道場主の春斎が手を挙げた。
(あの方、お強い。)
雪乃は気になって、その男のことを見ていた。
その男は一礼して道場の隅に行くと、座って面を取った。雪乃は息をのんだ。
一重まぶたが涼しく、見慣れた兄の美しいが女性的な容貌とは違い、男らしく精悍な顔立ちに一目で魅了されてしまったのだ。ぽーっとして兄が呼んでいるのにも、気づかないほどだった。
「雪乃っ」
何度目かでようやく気が付く。
「あ、ああ。お兄様。」
「どうしたんだ。ぼーっとして。」
「おい、俊也。何してる。行くぞ。」
そこへ、かの若侍が近づいてきた。雪乃の心の臓が早鐘のようになる。
「ああ、立田さま。ご紹介します。妹の雪乃です。雪乃、こちらが俺の上役の与力の立田文吾さまだ。」
(ああ、この方が立田さま。)
「雪乃でございます。兄がお世話になっております。」
震える声で挨拶する。
「ああ。こちらこそな。」
文吾は爽やかな笑顔を見せた。
文吾のことは、兄にときどき聞かされていた。
仕事をテキパキこなし、剣術にも長け、人望も厚い。ただ色好みなのが玉にきずだと、兄は苦笑しながら言っていた。
それを聞いたときは、とくになんとも思わなかった。源氏物語の光源氏のような方かしら?程度に思っただけだった。雪乃は光源氏よりも薫が好きだった。だから特別文吾のことには興味をひかれず、そのまま忘れていた。
想像していたのは、女たらしの優男。しかし目の前の人はいかにも武士らしい凛々しさを持っていた。
雪乃の様子を文吾は何とも言えない顔で見ていた。女慣れした文吾には雪乃の気持ちがすぐにわかったのだった。それ以来文吾は雪乃に笑いかけなくなった。そのことに雪乃は気づいていない。
「あのお方はなんでも生娘には興味がおありにならないらしい。おめぇが思うだけ無駄だぜ。」
臣人の言葉に、雪乃は悔しくて泣きたくなった。
「まぁいい。今日の所はこれで帰るが、俺は絶対諦めねぇからな!」
臣人は帰って行った。二人してほっと息をつく。