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江戸の春  作者: 井上はあ
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 緒方春斎の剣術道場では、町奉行所の与力、同心、旗本の倅やらが奇声を発しながら稽古に励んでいた。

庭に面した戸は開け放たれ、見物の町娘たちが黄色い声を上げる。

「きゃぁ!中村さまぁ」

 中村と呼ばれた侍が、道場の床に尻餅をついている。

「まだまだぁっ」

なおも立会いを続けようとする相手に、

「いやぁ。もう勘弁願います。」

 南町奉行所同心、中村俊也はようよう立ち上がり軽く頭を下げた。

「なんだ。情けねぇ。」

 相手は呆れた風で竹刀を収め、諸肌脱ぎに鍛え上げた身体を露わにし、帯に挟んであった手拭いで首筋の汗を拭った。

立田たてださまには敵いませんよ。」

 俊也はにこにこして言う。また娘たちが騒ぐ。

 それも無理はない。今業平(いまなりひらと評判の美男で、彼が歩くと後ろに女の行列ができるというほどのものである。

「よしっ。やめぃっ」

 師範代の声に男たちは稽古を止めて、昼支度。

 と、娘たちの端から鈴を転がすような声がした。

「お兄様。」

 立田文吾以外の男たち全員が、思わずその声の方を向いた。

「おお、雪乃。」

 俊也が嬉しそうに駆け寄る先には、麗しい少女が小さな包みを持って立っていた。

 年のころ十六歳。桜色の頬に、恥じらいを秘めた笑みをのぼらせている。

「お兄様、はい、お弁当。忘れていったでしょ。」

「ああ、悪い。」

 照れ笑いを浮かべるところへ仲間が、

「雪乃さんっ。来てたのか。ならもっと頑張るんだった。」

「いいなぁ。俺も雪乃さんの弁当、食べたいよ。」

と集まってきた。

 俊也は雪乃の顔を見た。道場の奥を気にしている。ははぁんと笑って

「雪乃。今度、立田さまにも弁当作って差し上げれば?ねぇ、立田さま。」

 呼ばれた文吾は襟を合わせながら、ちらっと振り向く。雪乃と一瞬目が合った。少女は哀れなほど真っ赤になって俯いた。文吾の方はと言えば何事もなかったかのように、座敷の方へ行ってしまう。

「立田殿、照れているでござるな。」

 道場は笑い声で沸き返った。

 文吾は照れているわけではない。そんな純情な男ではないつもりである。二十三歳という年の割に女遊びも散々した。しかし、今まで関係のあった女たちと雪乃とはあまりに違う。

 彼には人に言いたくない秘密があった。とりわけ雪乃には知られたくない。この秘密がある限り雪乃を貰うわけにはいかない。

 座敷で一人弁当を食っていると、道場の方からぞろぞろと俊也たちがやってきた。

「あれぇ。どなたに作ってもらったんですか?」

俊也が文吾の弁当を覗き込みながら言う。

「お富だ。」

「ああ、お富。」

 お富とは立田家の五十代の下女である。俊也はちょっとほっとして、

「召し上がります?」

と雪乃の弁当の包みを持ち上げて見せた。

「いや。いい。」

取りつく島もない。

「午後の稽古がすんだら吉原に行かないか?」

そんな声がどこからともなく上がった。

「どうです?立田殿も。」

旗本の次男坊が何気なく誘う。

「いいですな。行きましょう。」

文吾は引き締まった口に笑みを浮かべた。俊也は心中穏やかではない。

「どうだ、俊也。おめぇもたまには?」

人の気も知らぬ気に言う。

「私は結構です。」

俊也はちょっとムッとして文吾を見た。

 俊也はモテる割に女性経験は少ない。少ないどころか無い。何だか顔ばかり褒められて、自分の本質を知ったら、世の女たちで自分を変わらず好きでいてくれる人がいるだろうかと、自信がない。

 いつか顔じゃなくて、自分の魂が好きだと言ってくれる人が現れないものかと思う。

 生来淡白な性質たちで、吉原の女を抱くくらいなら女など抱かぬ方がいいと思っている。自分の後をついて歩くような女たちには、なおさら興味が湧かない。


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