第27話
あたしは、例のカフェに来ていた。
剛が待ち合わせに指定したカフェだ。
時刻は13時30分。
テーブルにはホットココア。
そして、足元には大きなドラムバッグ。
そう。あたしは剛についていくことを決めた。
昨日はほとんど眠れなかった。
考えに考えて、その結果、どうしても剛と離れ離れになった自分が想像できなかった。
だからあたしは、剛についていくことに決めたのだ。
たった1ヶ月付き合っただけなのに、大げさで軽率な考えだと思われるかもしれない。
でも、そのたった1ヶ月で、剛はいとも容易くあたしの心の大部分を支配した。
あたしはどうしたいのか。それを考えた末に出た結論は、ずっと剛と一緒にいたいという単純明快なものだったのだ。
あの後にもう一度だけ剛からメールが来たのだけれど、どうも荷物だけは今日のうちに向こうに送らなければいけないという話らしい。なので今日、諸々の生活用品を詰め込んだドラムバッグを持ってきたのだ。
送り先の住所は分からないけど、その辺は剛に任せよう。
家族にこのことは言っていない。今日の夜にでも言おうと思っている。
多分、解ってはくれないだろう。その場合は、黙って家を出るつもりだ。
「沙耶?」
あたしはその声に反応して振り返った。
剛が来たものだと思っていた。
しかし、そこにいたのはあたしの予想を越える人物だった。
「あら、た……」
「沙耶。何してんだよ、そんな大きなバッグ持って」
新からすれば、あたしの格好は特異に映ったことだろう。
けど、あたしにしたって予想外の人物の登場に面食らっていたのだ。適切な反応なんてとりようもない。
「えっ、な、なんで?」
完全に挙動不審である。
新は訝しむような視線であたしを見た。
「それはこっちのセリフだよ。引っ越しでもするつもりか」
「あ……」
ここまで来たら言い逃れは出来ない、と思った。
ここまでしっかり現場を見られては仕方がない。
あたしは渋々、新に事情を話した。
「……本気で言ってるのか?」
あたしの話を聞いた新は、明らかに呆れていた。
「お前がそこまで考えの浅い奴だとは思わなかったよ」
その目は口よりも雄弁にそう語っていた。
だから言いたくなかったのに……。
今から何を言っても説得出来るとは思えなかったけど、あたしの口は考えるより先に動いていた。
「新が言ってくれたんでしょ。『沙耶はどうしたいんだ』ってさ。あたしはこうすることを選んだの」
「もうそんな簡単な話じゃなくなってるんだよ。分かるだろ」
「分かるよ。でも仕方ないじゃない」
「何が仕方ないんだよ」
新は必死だった。必死にあたしを説得しようとしている。
それが容易に窺えて、あたしは余計に心苦しくなった。
それでも。
それでもあたしは。
「……だもん」
「え?」
──感情の激昂を、抑えられない。
「好きになっちゃったんだもん! 仕方ないでしょっ」
気付くとあたしは、人目も憚らずに大声をあげていた。
我ながらひどく感情的で、そして短絡的な行動だった。
「あたしだって馬鹿だと思うわよ! でも好きになっちゃったの! 剛のことがどうしようもなく好きなんだもん! 仕方ないじゃないっ」
よく分からない理屈を子供のように喚きたてるあたし。
最悪だ。
こんなに人が大勢いる場所で、友達のはずの新に努声を浴びせている。
最低だ。
あたしの感情の激流は、瞳から涙という形でこぼれ出した。
「……沙耶」
新は呆然とした表情。
なんで。
なんで涙なんか……。
そう思っても涙は止まろうとしなかった。
あたしは卑怯だ。泣いていても何も解決しないのに。泣けば新が反論しづらくなると分かっていて。
そして、沈黙。
周りの客も何事かとこちらを見ている。
居心地の悪さを感じるけど、それでも涙は止まらない。
「ごめん。それでも」
不意に新が沈黙を破る。
「それでも俺は、納得できない」
当たり前だろう。
理屈も何もなく、あたしはただ泣き喚いているだけなのだ。
納得なんてできる筈がない。
「でも……沙耶がそこまで思い詰めてるんだったら……」
新はそこまで言って言葉を詰まらせた。
あたしはただ、しゃくり上げるような嗚咽を堪えることしか出来なかった。
* * 14:00 * *
「返事がオーケーなら、沙耶ちゃんはここで待ってる筈なんだな」
車の運転席から店長がそう尋ねる。俺は短く、ええ、とだけ返した。
本当はずっと迷っていた。いや、今だって迷っている。
沙耶はまだ高校生なんだ。家族もいるし、友達だってこっちにたくさんいるだろう。
そんな17歳の少女を、俺のエゴで振り回していいのだろうか。
これは、軽い話じゃない。それこそ一生を左右するような話なんだ。
確かに俺は沙耶のことが好きだ。でも……。
「今さら悩んでても仕方ないだろう? 沙耶ちゃんと話してみろよ」
考えの深みにはまりそうになっていた俺を、店長の言葉が引き戻した。
そして店長は俺の肩を小突いた。さっさと車から降りて沙耶の元へ行け、とでも言うかのように。
でも1人で悩んでいても埒があかないのは確かだ。とにかく、沙耶と話そう。まあ、カフェの中に沙耶がいればの話だけど。
「じゃあ店長。わざわざ送っていただいて、ありがとうございました」
「そんなこといいから。沙耶ちゃんが待ってるぞ」
店長は爽やかな笑顔を浮かべる。まあ、待ってるかどうかは分かんねぇんだけどな。
とにかく俺は店長に頭を下げて、カフェの中に入った。
「好きになっちゃったんだもん! 仕方ないでしょっ」
カフェの中に入った途端、誰かの努声が響いた。
何事かと、ほとんど条件反射でそちらを見てみる。
いや、もしかしたら俺の中にはある種の確信があったのかもしれない。
そして予想通り、そこにいたのは大きなドラムバッグを地面に置いて椅子に座っている沙耶だった。
俺と一緒に来ることを、決断してくれたのだろうか。
でも、その対面の椅子に座っているのは……誰だ? 沙耶の友達か?
そうか。きっと今回の行動を友達にたしなめられているんだろう。当たり前の話だ。誰だって止める。
俺は黙って2人の話に耳を傾けた。悪趣味だとは思うけど。
そんな俺をよそに、こっちには気付いていないんだろう、沙耶は尚も大声をあげた。
「あたしだって馬鹿だと思うわよ! でも好きになっちゃったの! 剛のことがどうしようもなく好きなんだもん! 仕方ないじゃないっ」
「……っ」
沙耶の言葉が、想いが、胸に突き刺さる。
その数秒後には沙耶はポロポロと大粒の涙をこぼしはじめた。
今すぐにでも駆け寄って行って抱き締めてやりたい衝動に駆られたが、何とかそれを堪える。
納得いくまで友達と話すべきだろう、と思ったから。
しかし、予想に反して2人の座るテーブルは沈黙に包まれた。
「ごめん。それでも」
沈黙を破ったのは沙耶の対面に座る少年。
「それでも俺は納得できない」
少年ははっきりとそう言った。
「でも……沙耶がそこまで思い詰めてるんだったら……」
そこまで行って少年は言葉を詰まらせた。沙耶は相変わらず泣いている。
俺はと言えば、2人の会話を聞きながら、1人で葛藤していた。
男の子は本気で沙耶のことを気にかけている。
沙耶は、こんなにも友達に愛されている子なんだ。
そう思うと俺の胸は余計に痛んだ。
「でも」
次に沈黙を破ったのは沙耶だった。
「でもあたしは剛が好きなの」
理論も何もない、感情だけの言葉。
でもだからこそ、俺の胸を打った。
──俺だって、沙耶が好きだ。
それだけははっきり言える。大好きだ。
だから俺は、沙耶のことを第一に考えて行動しなければならない。
どうすることが沙耶にとって一番いいのか。
どうすることが沙耶の幸せに繋がるのか。
しばらく考え、そして俺は自分なりの答えを出した。
──そうさ。多分、最初から悩むまでもなかったんだ。
ゆっくりと立ち上がった俺は、重い足を持ち上げて歩みを進める。
そして、最後に一度だけ沙耶の方を振り返り、カフェのドアを押し開けた。
* * 15:30 * *
あれから30分が過ぎ、1時間が過ぎた。
あたしの涙はすでに止まっていたけど、もちろん、約束の時間はとっくに過ぎていた。
剛は、現れない。
「……沙耶」
心配そうな新の声。
「大丈夫だよ、新。そんな暗い声出さないでよ」
あたしは笑顔を作る。
「沙耶」
新はあたしの顔を見て驚いている。もっとへこむものだとでも思ったのだろうか。
「大丈夫だってば。あたし、こう見えても結構強いんだから」
そう言った矢先に、何か暖かいものが頬を伝うのを感じた。
──え?
……あぁ、そっか。
新はあたしが笑顔を作ったから驚いたんじゃない。
あたしが涙を流しているから、驚いたんだ。
「あれ? おかしいな。あはっ、ちょっと待ってね。空気が乾燥してるのかな」
あたしは服の袖で強引に涙を拭った。それでも尚、涙は止まろうとしない。
新はそんなあたしを見て、席を対面から隣へと移ってきた。
そうしてゆっくりと、新の右手があたしの頭を撫でる。
「いいよ、沙耶。無理するな」
新の、優しい口調の言葉。
暖か過ぎる言葉。
その言葉を聞いたあたしの両目からは、必死で堪えていたはずの涙が一気に溢れ出した。
「うっ、あ、ああぁっ……」
あたしは泣いた。
大声で、恥も外聞もなく泣きじゃくった。
新はそんなあたしの横で、ずっと髪を撫でていてくれる。
あたしは堪らず、新に抱きついた。
「あたし、本気だっ、本気で……好き、だった、あああぁっ……」
このまま涙が涸れてしまえばいいと思った。
そうすればきっと、涙が全てを洗い流してくれる、と。
* * 15:00 * *
「本当に、いいのか?」
店長はそう言って俺の顔を覗き込む。
「ええ。あいつには、俺と一緒にいることよりも大事なことがありますから」
俺は店長に心配をかけまいと笑顔を作った。だが、それは失敗したようだった。
「……無理するな」
全てを見透かしたような店長の言葉。
「辛い時は辛いって言ってもいいんだ。他ならぬ俺の前だぞ?」
おどけた様子で店長は言った。その言葉は今の俺には暖か過ぎるものだった。
「何言ってんすか、ったく」
軽く流したつもりが、何だかやけに視界がぼやけた。
店長の顔が滲んでよく見えない。
そしてそれは、堪え切れずに頬を伝う。
「……ったく、だっせ……」
自分で出した答えなのに、涙が溢れた。
1ヶ月やそこら付き合っただけの女だぞ。何を泣くことがある。
そう自分に言い聞かせる。それでも涙は止まらなかった。
例え1ヶ月でも、俺は沙耶に本気で恋愛をした。
それが堪らなく嬉しくて、堪らなく悲しかった。
そんな俺の頭を、店長はわしゃわしゃと乱暴に撫で回した。
「ダサくなんかないさ。思う存分泣け、若造」
店長の言葉。
沙耶の想い。
そして、俺が出した答え。
その全てが頭の中で言いようのない渦を巻き、涙が止まらない。
「……だっせえけど、多分、俺、本気でした……」
「……ああ」
それだけ会話を交わすと、俺は自分の両目を隠すように、天井を仰いで顔に腕を置いた。
「ちくしょう、だせぇ……う、うああぁっ……!」
今は、今だけは思いっきり泣こう。
悲しさも寂しさも全部消えるように。
そして明日にはこの涙が止まるようにと、ただただ願う。
今回は最後の彼女の裏事情ファイルはなしで。次回からは復活いたしますので、ご了承ください。