第12話
お待たせしました。春野天使様原案の新キャラクター登場です。春野天使様、本当にありがとうございます。
ここはどこだろう……。
気が付くとあたしは、見たこともないような場所に一人で立っていた。
辺りは一面の銀世界で、まるで大雪原にいるみたい。
なんであたし、いきなりこんなところに……?
あたしがどうしたものかと戸惑っていると、目の前にいきなり人影が現れた。
「あ、あなたは……」
あたしは驚愕した。目の前にいる人物は日本人なら誰もが知っている超有名な人物だったから。
学問のすすめを筆頭に様々な書籍を世に広め、お札の肖像画にもなっている人物。
──そう、福沢諭吉である。
何故彼があたしの目の前に?
いや、ていうかそもそも何で生きてるの?
あたしが考えあぐねていると、福沢諭吉は突然、あたしの想像を遥かに越える行動を起こした。
「あぐっ!」
彼はなんと、あたしに強烈な右ストレートを見舞ってきたのだ。為す術なくその場に崩れ落ちるあたし。
そのあたしのマウントポジションをとり、畳み掛けるように殴りかかってくる福沢諭吉。
彼は相変わらずの無表情。ていうか、お札に描かれた表情そのままだった。
その画はまさに、軽いホラーである。
「ちょっ、福沢さん!? いた、ちょっとマジで痛い!!」
あたしは何故か、それからしばらく福沢諭吉に袋叩きに合うのだった。
──……という初夢で目が覚めた。
「新年早々福沢諭吉に殴られるなんて、縁起がいいんだか悪いんだか分からないな」
あたしはいつものメンバーと一緒に初詣に来ていた。重い気分で初夢の内容を話すと、新が苦笑しながらそう言う横で、朱里は大笑いをしていた。
「どんだけお金大好きなんだっつーの☆ しかもなんで殴られてんだっつーの☆」
そんなもんはあたしが訊きたい。
千帆はあたしの横でクスクスと笑うばかりだ。
「で? みんなはどんな初夢を見たわけ?」
あたしは少し腑に落ちないものを感じながらも皆にそう質問する。
「いや、初夢は人に話しちゃいけないらしいから教えないよ」
3人は声を揃えて言った。
え〜と……、これは怒ってもいいのかな? ていうかこれ、イジメ? 集団イジメなのカナ〜?
「でさ、初詣に来たはいいけどどうすんの?」
あたしの気持ちなんて露知らず、新はゆっくりとした口調で淡々と言い放つ。
「ん〜、やっぱお賽銭入れておみくじ引いて……じゃない?」
あたしの住む町では、元旦の神社でも出店の類は一切ない。もし当日に大雪でも降ろうもんなら、下手したら屋台が埋もれてしまう危険性があるからだ。
つまり、初詣と言っても見るものなんか限りなく少ない。元日だっていうのにこの神社が人で溢れ返っていないのもそれが理由だろう。
初詣には来たが、お正月だからと言って羽子板も凧上げも福笑いもやる予定はない。特に初日の出を拝もうとも思わなかった。なので今は正午。
幸い天気は晴れていたけど、この時期の雪国にしては暖かいのが逆に困りものだ。
なぜかって? 雪が溶けて地面が少しドロドロな上に、溶けかけた雪の上はやたら滑るからだ。受験生には縁起の悪い初詣だろう。
「……もう、もっといい場所があったでしょう? なんでこんな安っぽい神社に初詣に来なければならないの?」
その時、神社の入り口にある鳥居の方からなにやら不満気な女性の声が聞こえた。お正月から他人の喧嘩に首を突っ込みたくはないので、あたしは見て見ぬ振りをすることにした。
「……あら? 有村さん?」
──え?
不意に名前を呼ばれたもんだから、あたしは驚いて転びそうになった。
……知り合いだろうか。恐る恐る声のした方を振り返る。
「げっ、早乙女麗華……」
そこにいたのは、クラスは違うけどあたしと同じ豊南高校に通う、早乙女麗華という名の女子生徒だった。彼女とは中学校が同じなのだが、なんと毎日の通学手段はリムジン、自宅は大豪邸、さらには専属執事やガードマンまでいたりする。早い話がこの早乙女麗華という子は、大財閥の社長の娘、紛うことなきお嬢なのである。
「……げっ、ていうのはどういう意思表示なのかしら?」
麗華のその皮肉にも似た言葉に対して、あたしは曖昧に苦笑いを浮かべるしかなかった。
正直、あたしはこの子が少し苦手だ。何故って彼女、同性と興味のない異性に対する態度は高慢で高飛車なのに、少し好みの異性が現れると途端に可愛らしくておしとやかな女性に変貌を遂げる。要は猫被りなのだ。
……なに? お前は人のこと言えないだろって?
違うから。あたしは猫被りじゃないから。八方美人だから。
つまり、当然彼女のあたしに対する態度も高圧的。そりゃ苦手意識も芽生えるわよ。
「なに、このお嬢? お賽銭箱に万札でもブチ込みに来たの?」
「……あら、柴田さん。あなたもいたの。小さすぎて見えなかったわ」
……あ。忘れてた。
朱里と麗華は、いわゆる犬猿の仲ってやつで、会うたびに口論を繰り返していたんだっけ。しかもこの2人の喧嘩は、TPOを考えないでいつでもどこでも始まってしまうのだ。昔から頻繁にその喧嘩に巻き込まれているあたしとしては、それは少々うんざりするものだった。
新年早々、この2人の口喧嘩を目の当たりにしなければならないと悟ったあたしは、軽く溜め息を吐いた。あたしの横では、麗華の執事と思われる初老の男性が同じように溜め息を吐いていた。あたしは半ば本気でこの執事に同情していた。
新と千帆は訳が分からないという風に顔を見合わせている。この場に居合わせたのが運の尽きだ。可哀想だけど2人には少し我慢していただこう。
それでは、読者のみなさんはしばし朱里と麗華の口論をご笑覧ください。
……ホントすいません。
「ていうかさ〜、お嬢が来ると場の空気が下品になるよね☆ 道端であんな偉そうな態度をとれるなんて、さっすが成金! お金しか見えてない!」
「貧乏人の僻みね。見苦しいわよ? あなたの方こそその馬鹿っぽい喋り方はどうにかならないのかしら? 往来で頭の悪さを晒け出しているようなものよ」
「あはは☆ 成金はホント性格悪いやつ多いよね☆ あ〜、人間ってお金を持つとここまで性格歪んじゃうんだね〜☆ 貧乏人でよかったよかった♪」
「負け惜しみにしか聞こえないんだけど? ま、あなたのような下賤の人間にはその程度の反論しか出来ないんでしょうけどね。ボキャブラリーが乏しい人間と会話するのって、本当に疲れるわね」
「あ、ごめ〜んあ〜そばせ☆ わたしってばどっかの成金お嬢と違って優しいから、相手のレベルにあわせて言葉選んでるの♪ ちなみに今は小学生くらいまでレベルを下げてお話してるから☆」
「あら、それは柴田さんに小学生以上の知能があるっていうことかしら? 随分と自信過剰だこと。あなたはお猿さんとでも会話してるのがお似合いなんじゃない?」
一触即発という言葉がこれほど相応しい場にはそうそう出くわすことは出来ないだろう。残念なことがあるとすれば、珍しい光景が見られるというメリットしかない割には、空気がこれ異常ないほど悪くなるところか。いや大問題だし(1人ノリツッコミ)。
あたしは不意に今日見た初夢のことを思い出していた。なるほど。福沢諭吉に殴られるあの初夢にはこういう意味があったんだ。お金持ちのお嬢様に振り回される日だよ、っていう暗示なんだろう。
新はぽかんと口を開けてこの光景に見入っているし、千帆はかなり引きつった苦笑いを浮かべている。麗華の執事さんに至ってはもう顔面が蒼白である。あたしにはこの執事さんが不憫でならなかった。巻き添えで多少の火の粉は浴びるだろうが、そろそろこの喧嘩の仲裁に入った方がよさそうだ。
「まあまあ、せっかく新年を迎えてこうして初詣に来てるんだから、今日くらいは喧嘩はよそうよ」 多分引きつってるとは思うが、なんとか笑顔でそういうあたし。あたしだって出来ればこんな不毛な言い争いに巻き込まれたくはない。
「あら、有村さん。私は喧嘩をしてるつもりなんてないわよ。このちびっ子に基本的な道徳や礼儀を教えているだけ」
やたら饒舌に麗華は言う。となると当然、朱里も負けじとそれに反論してしまう訳だ。「や〜ん、態度がここまで巨大だともういっそ公害だよね〜☆ これは市役所に届け出をして撤去してもらわなくちゃ♪」
「役所の方はお猿さんと会話は出来ないと思うわよ。あ、そういえば動物園か保健所に連絡を入れないといけないわね。お猿さんが町中に出没しているから保護してくださいって」
結局この口論は、あと1時間ほど続いた……。
で、お賽銭箱の前。
結局あたし達は麗華と行動を共にすることになった。 朱里や他の2人には悪いが、常にこの2人の口論を目の当たりにしているあたしからすれば、麗華の執事さんの苦悩が他人事とは思えなかった。だから、執事さんには車で待っていてもらうことにして、あたしが麗華を誘ったのだ。その提案に笑顔を見せたのは執事さんだけだったけどね。
「まったく、どうして私がこんなお猿さんと一緒に初詣をしなければならないの」
「沙耶ちゃん、初夢のせいで頭おかしくなったんじゃない? 成金になっちゃうよ」
散々な言われようだ。まぁ、予想できる展開ではあったけれど。
2人をさらに熱くさせる訳にはいかないので、あたしは適当に相槌を打つ。
「まあまあ、元旦くらい仲良くしても罰は当たらないって」
朱里と麗華は尚も不満顔だ。
「ねぇ、沙耶。この2人って仲悪いの」
今まで黙っていた千帆が、不意に囁くような口調で尋ねてくる。
「見ての通り。喧嘩友達ってやつよ」
あたしは少しうんざりしながらも、千帆にそう返事をする。もちろん小声でだ。
新はもうこの状況に適応したのか、なんだかニヤニヤしながら2人の様子を眺めている。相変わらずマイペースな男だ。
「お嬢、さっさとお賽銭いれれば?」
「あなたに指図される覚えはないわ。あなたこそ、貧乏人らしくさっさと5円玉でもいれればいいのよ」
今まさに5円玉を財布から取り出そうとしていたあたしは思わず固まった。
「そんなベタなことしません〜! ほんとお嬢は発想が貧困だよね」
「……」
あたしは無言で財布から100円玉を取り出した。
「へぇ、じゃあいくらいれるのかしら?」
「始終ご縁がありますようにってことで、45円を入れるの☆」
十分ベタじゃん。ていうか5円とあんま変わんないじゃん。
そんなツッコミをあたしは頭の中で噛み殺した。熱くなっている朱里をわざわざ刺激するのは得策ではない。
「まあ、あなたの発想力じゃその程度が限界でしょうね」
そう言って鼻で笑う麗華。その挑戦的な仕草に朱里は眉間に皺を寄せた表情のまま固まった。
やば……。めちゃめちゃ怒ってる。
「じゃあ、発想力豊かなお嬢は、一体いくら入れるつもりなのかなあ☆ 楽しみだなあ」
麗華に対して過剰なプレッシャーをかける朱里。本当に性格が悪い。
「どうしようかしら。ま、一万円くらいでいいかしらね」
そう言って惜しげもなく一万円札をお賽銭箱に放り込む麗華。
なんてもったいないことを! あたしは思わず唾を飲み込んだ。
「はっ、たくさん入れればいいってもんじゃないんだからっ☆ 発想が貧困なのはどっちなんだか♪」
嬉しそうにそう言って挑戦的な視線を麗華に投げかける朱里。麗華がどんな行動を取ろうが、こうなるのは元から目に見えていたけど。
あたしはもう2人のことは放っといて、お賽銭を入れることにした。
「有村さん、あなたこのお猿さんにどういう教育してるの? まるで礼儀がなってないじゃない」
うっわ、絡まれちゃった。あたしは朱里の保護者でもなければ教師でもないのだけど。
どうもこのままでは平和的なお正月とはいきそうにない。とはいえ、下手に反論なんかして彼女の逆鱗に触れてしまうのも考え物だ。
あたしはそう考えて、今日何度目かの溜め息を吐いた。
「まあまあ、そんな怒んないで。おみくじでも引いてこようよ」
憤懣やる方ないといった様子の麗華をなんとかなだめ、朱里と麗華の背中を押してあたしはおみくじのコーナーに向かった。
早々におみくじを引いて末吉と書かれたおみくじを上の空で見つめながら、あたしは横目に朱里と麗華の様子を確認した。また喧嘩なんかしなきゃいいけどとは思うけど、きっと無理なんだろうなぁ……。
「お嬢、結果は?」
「どうしてあなたに言わなければならないの」
「言いたくないわけ? はは〜ん☆ さてはお嬢、大凶引いたな♪」
憮然とした表情の麗華を見て、いかにも楽しそうにそう呟く朱里。基本的におみくじに大凶はないと思うけど……? というか、凶の枚数だって知れたものだろう。
「安い挑発ね。ま、教えてあげてもいいわ。中吉よ」
そう言って中吉と書かれたおみくじを見せる麗華。それを見て、朱里はニヤリと笑みを浮かべた。
「へっへ〜ん。あたしは大吉♪ やっぱ、こういうところに普段の行いが出ちゃうんだね〜☆」
あんたは普段バカみたいに騒いでるか毒吐いてるかどっちかでしょ。そんな言葉を喉の奥で噛み殺す。ったく、なんであたしが朱里にまで遠慮しなきゃなんないんだろう。というか、末吉と中吉ってどっちがいいんだろう。
「こんな人為的に作られたものをそこまで信じ込むなんて、だからあなたは子供だって言うのよ」
「なんとでも言って☆ とにかく、これで一勝一敗だかんね」
どうやらさっきのお賽銭は、彼女的には負けだったらしい。まぁ、金額的には負けてるが、お賽銭に一万円以上の額を出す人間は日本中探しても早々いないと思う。
「じゃあお嬢、決着つけるよ☆」
「……私は勝負をしているつもりはないんだけど」
少々呆れた様子でそう呟く麗華。あたし的には、その言葉に然したる説得力はない。
「ま、いいわ。何で決着をつけようって言うのかしら」
実は乗り気なようだ。
「もっちろん、お正月的な勝負をするのよ☆」
で、あたし達は今、市内の大型アミューズメントショップにいる。15分100円払えば、店内の遊具を何でも出来るという魅力的な店だ。正月から開いているのには少し驚いた。
少々うんざりした様子でついてきた千帆と、相変わらず面白そうに状況を眺めている新。正月から他人にいいように振り回されて、楽しんでいる新はともかく千帆には気の毒としか言いようがない。どこか他人事のようにあたしはそんなことを思った。
「で、これのどこが、お正月的な勝負なのかしら?」
心底呆れたように麗華は言う。まあ、確かにそうだ。一年中開いている店に、お正月らしい勝負なんか期待できる可能性は薄い。お正月限定の遊具なんていかにも収益が見込めなさそうだし。
「しょうがないでしょっ。福笑いや歌留多じゃいまいち盛り上がらないし、羽子板なんて持ってないんだから」
そう言って店員さんから軟式テニスの用具を受け取る朱里。盛り上がらない、というよりもその種目が苦手だから、というのが彼女の本音だろう。あたしは人知れずそんなことを考えていた。
「だから、羽子板の代わりにテニス? あなたの発想力が乏しいことは知っていたけど、まさかここまでとはね」
溜め息を吐きながら眉間に皺さえ浮かべている麗華。
「あ、じゃああたし達は、向こうで遊んでるから。終わったら教えてねってことで」
「そうはいかないわよ、有村さん」
「そうだよ。沙耶ちゃんには審判をやってもらうんだから」
さり気なくこの場から逃げ出そうとしたのだが、見事に2人に阻止されてしまう。仕方がないので千帆と新には2人で遊びに行くように言って、あたしは甘んじて審判を引き受けた。
「ごめんね」と言いながら何処かに去っていく千帆と、どこか名残惜しそうな表情すら見せる新を見送ると、あたしは朱里と麗華に目をやった。
「分かってる? お嬢。負けた方は顔に墨汁で落書きだからね」
「あらあら、わざわざ自分の首を締めるなんて、あなたも物好きね」
2人ともやけに自信満々だ。とにかく、さっさと終わらせてしまおう。あたしは試合開始を告げる言葉を吐いた。
試合開始から1時間以上の時間が経った。2人のテニス勝負はまだ決着がつかない。1ゲーム先取した方が勝ちという、簡単なルールなのにも関わらずだ。
かなりのもつれあいで、お互いデュースを繰り返す。ちなみに一応説明しておくと、デュースとは両者の得点が拮抗している場合、どちらかがそこから2点を連取しなければ勝敗が決しないというルールである。
つまり今の状態で言うなら、朱里が一点を奪ったかと思えば麗華がすぐに一点を取り返し、麗華が一点を取ると朱里がすぐに同点に追いつく、という膠着状態が続いているのだ。
朱里も麗華もなかなかのテニスの腕前で、見ているこっちはなかなか退屈しない。というか、プレイ中は2人が喧嘩をしないのがとても気楽だ。
「成金の分際で思ったよりはやるじゃん、お嬢☆ ちょこっとだけだけど」
「上から物を言わないで。私があなたなんかに負けるもんですか」
前言撤回。そうでもなかった。
しかし、2人とも相当息が切れてきている。陳腐な言い方で申し訳ないけど、ここからはまさに気力の勝負だ。決着も間近なのが目に見えていた。
そして朱里のサーブ。打つと同時に朱里は全力疾走で前に出る。それを見通していたように、麗華はロブで山なりのボールを返す。朱里は懸命にジャンプして何とかそれを打ち返すが、その球に威力はなく、麗華にとってはチャンスボールと言える球が上がってしまう。 いとも容易くそれをスマッシュで返す麗華。さすがの朱里もこれに食らいつくことは出来なかった。彼女の膝が笑っているのが、ここからでも分かる。
「マッチポイント、麗華」
あたしは今日何度も宣告した内容を繰り返す。
ここからは白熱したラリーが続く。お互いここが正念場だと分かっているのだろう。えらい集中力だった。
しかし、その戦いにハプニングが起きた。
朱里が打った球を追いかけていた麗華が足を挫いて転んだのだ。きっともうすでに足が限界だったに違いない。
それでも彼女は何とかボールに食らいつき、球を相手コートに返した。朱里にしてみればこれ以上ないくらいのチャンスボールだ。
麗華は足首を押さえながらうずくまっている。痛むのだろうか。この状態では朱里の球を打ち返すどころか、勝負続行も不可能だろう。一瞬後にはきっと朱里のスマッシュが決まる。事実上、今日の勝者が決まったのだ。おそらく、お互いにとって最も不本意な形で。
しかし、事実はそうではなかった。
麗華が何とか打ち返した力無いその球を、朱里は追いかけなかった。彼女は麗華側のコートまで走り、彼女の元へ行ったのだ。その間にボールは朱里側のコートでバウンドし、壁に激突した。
「お嬢、どうしたのよ」
息を切らしながら麗華に声をかける朱里。あたしは予想外の展開に呆然としていた。「何でもないわ」
強がっているのは火を見るより明らかだった。朱里はその場にしゃがみこむと、おもむろに麗華の右足首を掴む。
「痛っ……!」
麗華は苦痛に顔を歪めた。何を、と言おうとしたあたしを横目に朱里は呟く。
「捻挫、かも。沙耶ちゃん、店員さんに冷たいおしぼりか何かもらってきて」
彼女は意外なほど冷静だった。
ちょうどその時、タイミング良く千帆と新が戻ってくる。
「どうした? 早乙女さん、しゃがみ込んでるけど」
「捻挫してるかもしれないの。千帆ちぃ、お嬢の執事さん呼んできて。あっちんは執事さんが来たらお嬢を立たせて歩かせるの手伝ってくれる? わたしには、ちょっと足がガクガクで無理っぽいんだよね」
朱里の指示は迅速かつ的確なものだった。あたしは急いで店員さんに事情を話し、冷たいおしぼりをもらう。若い男の店員さんは
「何か手伝いましょうか」と言ってくれたが、丁重にお断りした。
その代わりと言っては何だけど、執事さんがタダで入場するのを許可してもらう。そこまで時間はかかりませんからと言うと、この店員さんにそこまでの権限があるとは思えなかったけど、彼は快く了解してくれた。
あたしがおしぼりを片手にテニスコートに戻ると、そこに丁度執事を連れた千帆が戻ってくる。
「お嬢様! 大丈夫ですか」
「……」
執事の言葉を受けても、麗華は無言だった。でも彼女の気持ちがあたしには手に取るように分かった。あたしが夜の校舎で左手を捻って新の手当てを受けた時も、きっと同じ様な気分だっただろうから。
あたしは彼女に特に声はかけず、おしぼりを彼女の右足首に巻くことでその代わりとした。
「冷たい……」
麗華はそれだけ呟き、再び黙りこんだ。
執事さんと新の肩を借りて何とか立ち上がった彼女は、そのままよろよろとした足取りで車に向かった。
「本当にありがとうございました」
店の外、車の前で、麗華の執事さんはあたし達に何度も頭を下げた。車に乗って送ってくれるということだったのだが断った。朱里が
「早く帰って手当てしてあげなよ」
と言ったからだ。麗華を一番心配していたのは、紛れもなく朱里だった。
当の麗華は相変わらず無言だ。
「お嬢、今回の勝負はわたしの負けだけど、不可抗力だから顔に落書きはなしね」
朱里は笑顔で麗華にそう告げた。その顔には一切の嫌味もわだかまりも感じない。
「……バカを言わないで」
久しぶりに麗華は口を開く。もっとも、やけにか細い蚊の鳴くような声だったが。
「なに? 落書きしなきゃ気ぃ済まない? 本当に性格歪んでるね、このお嬢は」
「違うわよ。……私は、あなたに勝ったとは思ってないわ」
そして彼女はその言葉の最後に小さく、本当に小さく
「ありがとう」
と付け加えた。
ともすれば聞き逃しかねないその言葉に、朱里はニカッと笑って見せた。
「じゃあ決着は持ち越しね☆ またお嬢と絡むなんて冗談じゃないけどね」
おどけた口調で朱里は舌を出す。
「なっ、こっちこそ願い下げよ。あなたと話してると気が滅入るわ」
負けじと反論をする麗華。
こんな状況で尚も口論を繰り返す2人に、あたしたちは苦笑するほかなかった。
ていうか、あんたさっき早く帰って手当てしてあげなよ、とか麗華に言ってなかった……?
※※※※※※※※※※
◇有村沙耶の裏事情・その12◇
・案外我が弱く、周りに流されやすい。
引き続き新キャラクターは募集したいと思います。何か案がある方はお手数ですがメッセージを送るか、小説家になろう秘密基地の方に私が書き込んだメッセージに返信をいただけますよう、よろしくお願いします。