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アンダードッグ  作者: 九田
Side episodes
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Happiness depends upon ourselves. / 後編 / 白田と眞咲母

 二日目は朝からプロの指導のもと邸内の掃除に励み、昼を大きく過ぎた頃になって、ようやくお墨付きをもらうことができた。

 満面の笑顔で合格点をくれた師匠に全力でお礼を言い、意気揚々と姑への報告に向かう。

 「終わりました!」と胸を張って報告した白田を、ナオコは感情の読めない表情で眺めた。


 おもむろに、窓枠へツツッと指を滑らせる。

 そこもしっかり掃除をしたはずだ。埃がついてくるようなことはない。

 ――なにやら盛大な舌打ちが聞こえてきたような気がしたが、多分きっと気のせいだ。


「……掃除はもう結構。まあこんなものは序の口ね。……次は、そうはいかないわよ」


 めらめらと炎が燃えるような目を見て、白田の背中に、冷や汗が伝った。


(……あれ? まさかこれ、「あーらこんなところに埃が! 掃除もまともにできないのかしらねぇ!」的な嫁姑ごっことかしないと駄目なヤツだったのか……!?)


 予想が的中したとでもいうのか、ナオコは意地になったかのように、次々と無理難題を持ち出してきた。


 「モーツァルトとシューベルトの違いくらいわかるでしょうね?」などと言われても、ギターとバイオリンの違いさえわからない。必死になってCDを聞き比べても、そもそも音楽の授業で習った作曲家の名前自体が、ベートーベンくらいしか覚えていない。ダダダダーン、あたりを出してくれたらと祈っていたが、当然ながら出てくるはずがなかった。

 聞き比べるとかそれ以前に、覚えられない。

 本気で泣きたい気分になっていると、「こんなこともわからないのね」と姑が見下してきた。


 なんだかものすごく、嬉しそうだった。


 その後はつきっきりで「ここはこうでこれはああで」「ほらわかるでしょう!……わからないの? まったくこれだから体力馬鹿は!」と生き生きしながら罵詈雑言を振りまいていたが、言うだけ言うと満足したのか、くびれた腰に手を当てて鼻を鳴らした。


 明らかに赤点だったのだが、なぜだかそれでテストは終了だった。


 その後も陶磁器の善し悪しだの産地だの、画家の名前だの系統だの、しまいには社交術や馬術や射撃など、もはや白田が「別世界の何か」だと思っていたありとあらゆるものを突きつけては嬉々として罵倒しつつ蘊蓄を教え込んだ(ただし白田が覚えられたとは言わない)姑は、十日目にして、ようやくネタが尽きたらしい。


 そろそろ白田のオフも半ばを過ぎる。リミットは近い。

 すっかり毎夜の習慣となった将棋の相手をしながら焦りを隠せずにいると、姑が、度数もお値段も馬鹿高そうな蒸留酒の瓶を持ち出してきた。


『……あの、俺、ぶっちゃけ弱いんですが』

「私の酒が飲めないっていうの?」


 なぜか日本語で返された。

 うなだれて受け取ったグラスには、高い店でしか見かけないような丸い氷と、匂い立つ琥珀色の液体がたゆたっていた。

 おそるおそる舐めてみたが、もはや刺激が痛いレベルだ。

 この一杯も消費できるかどうか危ぶみながら、駒を並べる。

 ナオコは水でも飲むかのようにかぱかぱとグラスを空け、三局目にしてようやく酒が回ってきたのか、白田に勝ち目が見えてきた。

 酔いが回って微妙に気持ち悪くなりながら、白田は盤面を睨みつける。

 勝てるかもしれない、という状況は、普段なら忍び寄ってくる眠気を脇に追いやった。

 不意に、姑が言った。


「……血の繋がりなんて、厄介なわりに脆いものよ」

「……へ?」


 姑の言葉が飲み込めず、間の抜けた返事をしてしまった。

 ナオコは相変わらずの仏頂面で盤面を睨んでいる。

 不意に、白田は眞咲の癖を思い出した。

 相手を言い負かせたり、言いくるめたりしようとするときはまっすぐに目を逸らさないが、ただ内心を吐露するときには、視線を落としてしまうのだ。

 まるで、感情を読みとられまいとするかのように。


(やっぱ、こういうとこ、親子なんだろうな)


 同じ対応でいいのなら心得たものだ。

 白田は黙って続きを待った。

 ナオコは奪った駒を撫でながら、まるで独り言のように続けた。


「あの子は私の手を離れたわ。私が許すも許さないもないのよ、あの子はあの子で、好き勝手に生きてるんだから。……あの子だってそう言ってたでしょうに。ここまで粘るのは、何か狙いでもあるのかしらね」


 酔いに濁りながらも、冷ややかな目が白田を貫く。

 ナオコが駒を進めたので、白田も盤面を見ながら答えた。


「狙いっていうか……。まあ、お義母さんにも、娘をやってもいい男だって認めてもらいたかったんで」

「やるもやらないもないわ。あの子はもう、私のものじゃない」


 聞きようによっては傲慢な言葉だったが、その声は、妙に寂寥を覚える響きをしていた。


「私は……愛情なんて不確実なものは信用できないのよ。親が勧めてくる相手と結婚するだなんて冗談じゃなかった。でも、子供は欲しかったのよ。だから、子供が欲しいと思った相手を口説き落としたの。……あの子は私の分身のようなものよ。誰よりも優秀で、誰よりも可能性のある、そういう子供が欲しかった」

「……はあ」

「……陳腐な感傷よ。私よりも優秀な人間なら、私の手を離れるのは当然の帰結だわ」


 細い腕と足を組み、グラスを傾ける姿は、確かに、さまになっていた。

 孤独を選んだ人間の姿にも思えて、白田は迷いながら駒を進める。


「……俺は、正直、あんまり頭はよくないんで」

「そんな分かり切ったことを持ち出して、何が言いたいの」

「えーっと、まあ、そうなんで。……的外れかもなんですが」


 白田が進めた駒に、ナオコが眉をひそめる。

 考え込ませたことに手応えを感じながら、言葉を続けた。


「親子だからってわかりあえるもんでもないし、仲良くできるとか仲良くしなきゃってもんでもないし……まあ、俺がどうこう言うもんでもないんですけど。……ただ単純に、俺が、あいつを生んでくれた人と仲良くなれたら嬉しいって思ったんで。……それくらいです。理由とかは」

「……それは、楽天的な考えなのかしら?」

「え。いや、改めて聞かれるとどっちなんだか……どっちっすかね」

「私に聞かれてもねえ」

「っすね。すいません、わからないです」


 素直すぎる返答にナオコは眉を上げ、グラスを干した。

 ふう、とため息を落とし、白田に向かって瓶を持ち上げる。

 白田はあわてて首を振った。


「や、無理っす。これ以上飲んだら吐きそうなんで……!」

「何よぉ、だらしない」

「一応、体が資本の仕事なんで! 自制してるっつーことで許してもらえないっすか!」

「許さないって言ったらどうするのかしらねぇ」

「いやいや無理無理」

「無理じゃないわ。飲め」

「横暴!」

「はっはっは」


 棒読みに近い笑い声だったが、白田が目を丸くしてナオコを凝視した。


「……何よ」

「あ、いや。初めて笑ってもらえたなーと……」

「おかしければ笑うわ。じゃあ飲まなくていいから笑わせてご覧なさいな、ほら」

「えぇ!? あー、えー、うーん……くそ、あいつ最近何で爆笑してたっけ……!」

「あの子が? 爆笑?」

「や、わりと笑い上戸っすよ。えーと……なんだっけなー! あーもー!」


 笑わせようと思って笑われていないせいで、いまいち記憶に残っていない。酔いが回った頭では余計に思い出せない。

 勢い余って頭を抱えた白田に、酒の回った姑はけらけらと笑った。


 


 


 


 ――50度越えのボトルを一夜であければ、普通は二日酔いになるものだ。

 朝と昼の合間の、微妙な時間帯に目を覚ましたナオコは、微妙な頭痛と胸のむかつきに苛立ちながら部屋を出た。

 とても良い天気で、降り注ぐ日光すら疎ましい。

 水でも飲もうかとキッチンを覗いたナオコは、予想外の人物に出くわして眉根を寄せた。


『あ、おはようございます。お義母さん』

『……おはよう。何をしているのかしら』

『いや、雑炊でも作ろうかなーと……。お義母さんもどうですか』


 意外なことに、娘婿は料理ができるらしい。

 ならば作らせてみようかと任せたところ、彼の口から出てきたメニューは、いかにも和風のリゾットだった。


『えーっと、鶏肉のミンチがあったんでそれと、……梅って何だ……あ、プラムなのか。梅とネギっすね。あと、シソはなかったんでその辺の野菜』


 手にしているのはセロリだ。

 辞書を引きながらしゃべる白田に、ナオコは思い切り眉根を寄せた。


『料理ができるの?』

『理沙ちゃ――あ、えーっと、友人に作り方教えてもらったんで、多分なんとかなるんじゃないすかね。簡単だったし』

『……娘より甲斐甲斐しい婿だこと』

「え」


 認めてやったと改めて言うのは癪に障るので、無言のまま厨房を出る。

 やがてトレイを持ってダイニングに現れた白田は、隠しきれないほどの上機嫌だった。

 いそいそと用意された朝食は、見栄えだけなら悪くない。半信半疑で匙を口に運び、ナオコは再び、眉間にきつく皺を作った。


『え。あれ、不味いっすか……?』

『……梅とセロリの味しかしない』

『え!? ……うっわ! なんだこれ梅すっぱ! つーかこの野菜、なんかすっげぇ味、強っ……!』

『……お待ちなさいな。それは、味見をしなかったということね?』

『あ。そうか、味見! スイマセン!』


 和洋の個性が混沌と入り交じり、なんとも言えないえぐみだ。

 二日酔いの頭では怒鳴るのも負担で、ナオコは眉間をもみほぐした。


『……ウースターソースでも混ぜれば、食べ物になるかしらね……』

『あ、食ってくれるんすね……って、いや、ウスターソースはないっすよ! なんかもっとすげーことになりそうだし! っつーか、あの、無理して食わなくても……!』


 白田が皿を奪おうとするが、ナオコはそれを渡さない。

 わあわあとやり合っているところに家政婦の女性が顔を覗かせ、トマトソースと秘密のなにやらで、見事な手際で白田の失敗作を「食べ物」に昇華させた。


 この館にはとてもめずらしい、騒々しさに満ちた朝だった。


 


 


 


 


 


 そして遠く離れた欧州のIT中心地では、眞咲萌が、真剣な顔で両肘をついて両手を組み、顎を乗せて唸っていた。


「……まずいわ」


 いかにも深刻そうに落ちたつぶやきに、理沙は眉尻を下げて首を傾げた。


「ええと……、うん、もう負けを認めるべきじゃないかな……」

「あのふわっふわのまん丸いプリンセスラインを着ることになるのよ……!? どうやってあの母を懐柔したって言うの、あり得ない……!」


 ――それは、読みが甘かったと言わざるをえないだろう。

 理沙は心の中でつぶやいた。

 何しろ白田は、誰もに無理筋だと言われ続けた眞咲を陥落させた実績がある。似たもの同士の母親を攻略することがそう無理難題ではないことくらい、予想できそうなものだというのに。


 理沙はケーキを攻略するフォークを止め、白田の希望の、童話のお姫様めいたウエディングドレスを思い浮かべた。


 まあ、多分、似合わなくはない。

 みっともないということはないはずだ。ただ、本人や周囲の人々が思い描く眞咲萌のイメージと、著しく乖離しているというだけで。


「……まあ、それはそれとして」

「何?」

「楽しみだねぇ、結婚式。嬉しいなぁ」


 理沙がほんわりと笑うので、眞咲も顔をしかめてばかりではいられなくなった。

 落ち着かない様子になり、砂糖を入れていない紅茶をスプーンでかき回す。

 眞咲が葛藤をこんな風に態度に出すのは、白田のことくらいだ。

 それも、理沙に言わせれば、のろけと呼ばれる種類のものだと思う。


 理沙にとっては、それこそ高校生の頃から、はらはらと見守ってきた二人なのだ。

 嬉しくないはずがない。


「おめでとう、眞咲さん」


 感慨をこめた理沙の言葉に、眞咲は少しばかり視線を泳がせたが――やがて、諦めたように苦笑した。


「……ありがとう。ところで、あなたこそどうなのかしら」

「えっ!? 私? な、何にもない、けど……?」

「あら。誰とは言わないけれど、ガイナスの元選手からエアメールが届いたことはわかっているのよ。このご時世に、わざわざ、エアメールよ?」

「あああああ! ま、眞咲さん、違うから! 具体的には言えないけど、あの、とにかく誤解……!」

「そういうことにしておいてあげるわ」

「全然信じてないっ……!? ほ、ほんとに、あの……せめて本人には言わないであげて……!」


 理沙が蒼白になって言い募る。その表情には照れなどというものはまったくなく、明らかに、かの人物のダメージを危惧しているだけの顔だ。

 はたして誤解しているのはどちらなのだろうかと眞咲は思ったが、口には出さない。

 他人の恋路は楽しいものだと誰かが言っていたが、ここにきてようやく、眞咲もそれを実感していた。


「まあ、きっと、そろそろわかるんじゃないかしら」

「あ……うん、そうだね……。……やっぱり、事ここに至っては、しょうがないよね……」


 理沙は深刻そうに頷いたが、意図するところは完璧なまでにすれ違っている。

 眞咲が苦笑したとき、携帯電話が着信を告げた。

 見なくても分かった相手をとりあえず確認して、眞咲はそれを黙殺する。


 疲労困憊の癖して意気揚々とかえって来るであろう婚約者の迎えは、まだまだ十時間近く先だ。

 褒めるのか、呆れるのか、困るのか――それとも、感謝してみるのか。

 考えるために残された時間は、長いようで短かった。

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