A lie has no legs. / 白田と眞咲
本編終了後、おそらくドイツにて。
今回はまともにカップルやってると思われます。
住む国が変わっても、習慣というものは変わらない。
むしろ、変わらないように維持することが、仕事の一環だ。
白田が日課のランニングを終えてシャワーを浴びたころ、ちょうどいい時間に眞咲が起きてきた。
昨日も帰りは遅かったので、まだ眠気の色が濃い顔だ。
今さらながら、彼女が気を抜いていられるところまできたのだと感じて、何だか落ち着かない気分になる。
もちろん嬉しくないわけがない。
ただ、あまりに一方的な片思い期間が長かったせいで、いまだに慎重になってしまうだけだ。いまだに頬をつねりそうになる。
「おはよう……」
「おー。……って待て待て、大丈夫か?」
扉にぶつかりそうなほど目が開いていない。ふらふらしている眞咲の腕をあわてて捕まえると、寝ぼけ眼が白田を見上げた。
何だろうと思っていれば、タオルを被ったままの白田の頭に、眞咲のしなやかな両腕が伸びた。
「……髪、ちゃんと拭かないと」
「あ、悪い、水飛んだか?」
「ん」
細い指がタオルを動かし、濡れたままだった白田の髪から水分を拭い取っていく。
白田はおとなしく身を屈めた。
身長は残念ながら181センチで止まってしまったので、少し頭を傾けるだけで十分眞咲の手が届く。
どうにもこそばゆい気分だ。じっとしているのも落ち着かない。
「はい、おしまい」
やがて気が済んだのか、眞咲は手を離すと、そのまま洗面所に去っていった。
心配になって見送ってしまったが、さっきよりは足取りがしっかりしている。どこかにぶつけることもないだろう。
「お茶飲むか?」
「うん」
白田が茶を入れるのを待つ彼女がソファで抱えているのは、ファンにもらった、かわいくないチームマスコットのぬいぐるみだ。
ことマスコットにおいては、日本の――ガイナスのサメゴローさんの方が格段に上のクオリティを持っていると白田は思う。
サメゴローさんも「中の人」が最近代替わりしたというが、あのどっしりした安心感は健在のようで、一安心だ。次のオフシーズンに会うのが楽しみでもあり、少し寂しくもある。
会社だの会議だので飽きるほどコーヒーを飲んでいる眞咲が家で飲むのは、ほとんどハーブティーやミネラルウォーターだった。甲斐甲斐しく入れたミントの強いブレンドティーは、まるで薬草のようなえぐみがある。ちなみに、白田はいまだに飲めない。
ティーカップを渡して隣に座り、白田は眞咲の眠たげな顔を見やった。
「お疲れだな。まだ寝ててもよかったのに」
「……休日に睡眠時間を長くしても、疲労は取れないのよ」
「ああ、前にも言ってたっけか……」
「……惰眠をむさぼりたい気持ちは否定しないけど。それに、今日は出かけたいの」
「……買い物?」
「もちろん付き合ってくれるわよね?」
眞咲の笑顔に、白田は表情をひきつらせながらもうなずいた。
この場合の「買い物に付き合う」は、残念ながら、荷物持ちという意味ではないのだ。
くすくすと笑う眞咲の声を聞きながら、ずいぶん変わったなあと、改めて感慨深くなった。
あの頃の眞咲は、笑っていてもどこか一線を引いていて、立ち入ることを許さないスペースがあった。今から思えば、それなりに親しくはあっても、あくまで仕事上の距離だったのだろう。
その距離がなくなってみると、思っていたより、眞咲はころころと表情を変えるところがあった。
寝ぼけた感じを残す笑顔や、くすぐったそうな笑い方も可愛いと思う。
だが未だに、一番眞咲らしいと思うのは、含みがあって隙のない、にっこりした笑顔だ。あの頃はもどかしくて仕方なかったあの笑顔に、結局のところ一番弱い。
もしかしたら、一生、そのままかもしれない。
「そうだ、ついでにパン買ってきた。こないだうまいっつってただろ、あのレーズン入った固いやつ」
「カーラントローフ?」
「あー、多分」
「いいわね。クリームチーズ、冷蔵庫にあった?」
「ある」
「完璧ね」
カップを両手で包んだ恋人の、まるで少女のような笑顔を見て、さっそく前言を撤回しそうになった。
ここ一年で学んだことは、女性の長々とした買い物にただ付き合うというのもなかなか疲れるものだが、それよりも、己が着せ替え人形になるほうが格段に体力を消耗するということだった。
90分プラスアルファを走る試合に比べれば大した運動量ではないはずなのに、ずっしりとした疲労感がおそるべき早足でやってくるのである。
試着室から出てきた白田を上から下までじっと長め、眞咲は真剣な面もちで呟いた。
「……そうね。ジャケットは濃茶の方がいいかしら」
「かしこまりました」
「あと、ベルトはもう少し黒っぽいもの」
あうんの呼吸で、店員がハンガーから別の上着を持ってくる。
白田はこっそりため息を吐いた。
自分は面倒がってコーディネーター丸投げのくせに、他人を着せ替え人形にするのは楽しいらしい。
白田には理解しがたい感覚だ。ついでにいうなら白田は服など着やすくてみっともなくなければそれでいいという考えで、ブランドにもファッションにも興味は薄い。鞄など、未だにスポーツブランドの大きなもので事足りている。ブランドロゴが全面にちりばめられたスーツケースなど、未だに反射で拒否反応が出るレベルだ。
いくら稼ぐようになったところで、身の丈に合わない。
だがしかし、無趣味で有名な恋人の数少ない気分転換になるのなら、否やなどあるわけがないのだ。
従って白田としては、諾々と指示通りに着たり脱いだりを繰り返すだけである。
たっぷり時間をかけて上から下まで白田が着ていた一式をそっくり取り替え(再交換含む)してしまうと、さすがに満足したのか、眞咲はこの上ない笑顔で頷いた。
「うん、いい感じね」
「……そりゃよかった」
「好きじゃないものはない? 着心地が良くないものとか」
「あー……まあ、大丈夫だろ」
「それはよかったわ。じゃあ、これ全部で」
「かしこまりました」
店員が最高潮ににこやかな笑顔で応じた。
金持ちの買い物だなあ、と白田は遠い目を窓の外に投げたくなる。
自分で出すと言っても聞かないのでもう諦めているが、男としてはいかがなものかと心底思うのだ。とても言えやしない本音だが。眞咲にとっては本気で自分のストレス解消なのだろう。楽しそうならなによりだ。
立地と佇まいからしていかにも高級な店を出た眞咲は、着せ替えられたままの白田を上機嫌に見上げた。
着ていた服は自宅に送られる手配が済んでいる。新品らしい着慣れなさにどうにもならない違和感があったが、すでに諦めの境地だ。
「……お気に召したっすかね」
「ええ。悪くないわ。こうやってみると男前に見えなくもないわね」
「それほめてねぇよな!?」
眞咲は声をたてて笑った。
だがしかし、彼女は普段、白田の服装や持ち物に口を挟まない。
ぶっちゃけた話、日本の某大量生産メーカーの服を愛用したところで文句をつけることはない。
それが建前ではないということの証左に、白田がどんな格好をしていようと――人前に出られないような部屋着は別として――嫌な顔をしたことは一度もない。隣を歩くときでも、だ。
いつぞやSNSで拡散されてしまって、初めて「どうやらダサいらしい」と認識した格好ですら、特に気にした様子もなかった。
その辺りを考えると、これは本当に、ただの無駄遣いなのだろう。
つまるところ、経済観念が大いに異なる。
経済を回すのは消費だと持論を展開されても、白田にはいまだに慣れられていない。なにゆえただの服にこんなアホのような値段がつくのか、ユーロ4桁のコートの値札を見て心底震えた記憶は、実に新しいものだ。汚すのが怖くてろくに使えていない。
眞咲が支払いを譲らない理由は、そこにあるのかもしれない。――無趣味な彼女のストレス解消に役立てるなら文句をつけるべきではないと頭ではわかっているのだが、それにしても、やっぱり何か、眞咲ならまだしも白田が着るものだと思うと、身の丈に合わないような気分になるのだ。
最初から分かっていたことなので、今さら言っても仕方ない。
にもかかわらず、それを気にしてしまう理由はただ一つ。
――最終兵器な彼女の母君に、いまだご挨拶する勇気がないことである。
(……いや、あれはヤバい。本気でヤバい。全っ然、勝てる気がしねえ)
なにしろ強烈な個性をお持ちのご母堂である。
生まれも育ちも根っからの庶民である白田には、とてもではないが理解できない世界の人種だ。
当然のように学歴と家柄を求められても、ない袖は振れない。かろうじて提示できる能力はアスリートとしてのもので――選手生命を考えると、とてもではないが両手を上げて歓迎などしてもらえないだろう。
いや、そもそもそれ以前に、眞咲自身にプロポーズに頷いてもらうという一大事をクリアしなければならないのだが。
……頷いてもらえる気がまったくしないのが、我ながら困ったものだ。
「変な顔になってるわよ。お腹でも痛いの?」
「……なんでそっちに行くんだよ」
「じゃあ、お腹がすいたのかしら」
「けっきょく腹かよ!」
眞咲が笑い声を転ばせた。
その歩みがいつもより少しばかり遅いことに気づいたのは、彼女が不自然なくらいに笑っていた違和感のせいだろう。
よく見れば短いヒールのサンダルを、少しばかりずらして履いている。
気づいてしまえば、後は簡単な話だ。
視線を落として確認作業を終え、ため息を飲み込んで、足を止めた。
「萌」
滅多に呼ばない名前を呼ぶと、眞咲が笑顔を引っ込ませて白田を見上げた。
白田が気づいたことに、眞咲もまた気づいていた。
「……何? どうかした?」
「ん」
右手を拳にして突き出すと、眞咲がばつの悪そうな顔になった。
じゃんけんの合図である。
ついでに言うと、目的は、眞咲が折れるか白田が折れるかの勝負だ。
「じゃーんけーん、ほいっ。……っし、俺の勝ち!」
「……この一手間の意味がわからないんだけど」
「素直に言うこと聞かないからだろ。ほら、靴脱げ。で、肩に手」
「……こうも勝てないと、釈然としない気分になるわ……」
眞咲がぶつぶつ言いながらサンダルを脱ぐと、足の指の何本かが靴擦れで痛々しい赤に変わっていた。
まだそこまでひどくはない。早めに気づけたことにほっとして、華奢だが細すぎない肢体を横抱きに抱き上げた。
三度目ともなればさすがに眞咲も諦めたようで、サンダルを指に引っかけて諦め顔だ。
タクシーを拾える通りまでは少しばかりの距離で、人通りはそこまで多くなかった。
ちなみに眞咲を待たせてタクシーを呼びにいくことは論外だ。絡まれやすいある種の世間知らずを、町中で一人にできる度胸はない。
「……どうしてこう、あなたと出歩くと靴擦れするのかしら……」
「さあ。仕事じゃもっとヒール高いのにな」
「歩く距離が長いせい? 速度? それとも高低差……四度目はないようにしたいけど……」
「役得だから悪くないけどな」
恥ずかしさを追いやって放った本音に、眞咲が心持ち、頬を膨らませた。
「……悪目立ちしてるけどね。写真を撮られても知らないわよ」
「いいだろ。今さらだし」
「私はよくないんだけど」
「え、悪い、まずいか?」
慌てて訊ねた白田に、眞咲はきゅっと眉根を寄せると、そっぽを向いた。
その反応は反則だ、と白田は思う。本気で焦ったぶんだけ、めずらしい照れかくしに頬が緩んだ。もちろん眞咲に気づかれて、思い切り頬を引っ張られた。
「その顔、気に入らないわ」
「ふぉういわれまひても」
なんだかカップルみたいなやりとりだ、と思った自分に笑ってしまう。
そうか、これはまさしく、いわゆる、カップルというやつの会話だ。それもバカのつく種類の。
堪えきれず笑う白田に、眞咲が怪訝そうな顔を向ける。
その華奢な身体を落とさないように抱え直し、タクシーを止めた。
多分こうやって一つ一つ実感を拾っていって、いつか日常になった頃には、まともなプロポーズの言葉も思いつくだろう。
さしあたって、腕にかかる彼女の重みだけは、わりと、現実感があった。