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アンダードッグ  作者: 九田
Side episodes
87/95

The years that come and go are also voyagers. / 眞咲父

「アンダードッグ」番外、眞咲萌の父親のお話。

薄命の女と、結婚から始まった恋と、その続き。



 


「――以上です。チームの成績に関してはまだ不透明ですが、当面の道筋は立てられたものかと」

「ふむ……なんとも参ったな。これは来年も手を引けん」


 報告を聞き、眞咲忠義は頬を緩めた。口振りとは裏腹の笑みに、秘書が苦笑を押さえて目礼を返す。

 あえて茨の道を選んだ末娘は、苦心惨憺しながらも、どうにか息のつける状況を維持しているらしい。すばらしい強運の持ち主だ。当初から金の卵を抱えていたとはいえ、このタイミングでそれが衆目を浴びるようになったのは、周囲や本人の努力はもちろん、悪運を味方につけるだけの素養があってのことだ。

 人事を尽くして天明をもぎ取った、そのことは評価していい。


 だがしかし、現実として、実質上の親会社である中国電工は財政再建中なのである。削る部分と見直す部分を仕分ける上で、クラブチームを持ち続けることへの評価は難しい。単純な考えをするならば金食い虫だ。ただし、クラブの成績向上と、白田直幸という広告価値を持った選手の存在によって、手を引くことがイメージダウンにつながる状況になってしまった。

 見ようによっては厄介な事をしてくれたものだが、任された組織をどう動かすかという面で考えるなら、忠義は末娘の方針に共感を覚えていた。自分が同じ立場でもそうしただろう。

 年の割に柔軟だ。うまくいかなければあっさり壊して作り直すのがアメリカのビジネスモデルだが、日本ではそれが難しいのだということを理解しているのだろう。もちろん、失敗すれば、目に見える成果を出したいがための暴走だという評価をうけることになるのだが。


「まったく、楽しませてくれる。なかなかの博打打ちじゃあないか」

「よろしいのですか?」


 秘書の確かめるような問いかけは、再生計画に広報費用の削減が盛り込まれているせいだ。

 答えはわかりきっているだろうにと、首を傾げて見せた。


「今ここで水を差すかね? 翌日には見事な悪役に仕立て上げられているだろう。……次年度の予算を考えるにはまだまだ時間がある。要は、末のがその時期まで持ちこたえて、それだけの価値を示せるかどうかだな」


 まるでそれを望んでいるかのような言葉に、秘書は眉を下げた。

 戯れだとは思わない。空言とも思われるような発想を着実に現実のものとし、打って変わるような賞賛を幾度となく浴びてきたたのが、眞咲忠義という男なのだ。その読みは傘寿を越えてなお鋭く、それが彼を老境とはほど遠い場所に置いている。

 満足げに資料を置いた忠義は、ふと、思案するように顎を撫でた。


「どうなさいました?」

「いや。……結局、誰も似はせんかったな」

「そうでしょうか? ご子息もご息女も、会長とよく似ておいでだと……」

「儂ではない。あれにだ」


 ぞんざいな呼び方で比較対照を察し、秘書は今度こそ呆れた顔になった。

 眞咲曄子(あきこ)――眞咲忠義の最初の妻にして、唯一、妻としての扱いを受けていた女性だ。

 生来の体の弱さがたたり、子を産むことはなく夭折した。つまり、忠義の子供たちのいずれとも血のつながりはないのだ。


「それはそうでしょう。何をおっしゃるんですか」

「あれに言わせると、儂は突然変異らしいからな。四、五人もいれば一人は妙なものが生まれてもおかしくないだろう?」

「さすがに無茶です。あなたが輪廻転生を信じていらっしゃるほど熱心な仏教徒だとは存知ませんでした」

「……お前は実に面白みのない男だ」

「会長の欠点は冗談が度を過ぎていらっしゃるところですね。……あと十分で取締役会議です。そろそろご準備を」

「やれやれ」


 わざと老人らしく椅子を降りてみせたが、忠実な部下は彼の父親と違ってそれを黙殺した。

 親子でこうも違うのだから、人間というのは不思議な生き物だ。


 口にすれば遠慮のない秘書に耄碌を疑われるだろうが、実際のところ、特に冗談を言ったつもりはなかった。

 ただ、ふと疑問に思ったのだ。それこそがおかしなことなのだと理解してはいるが、それでもやはり、なぜか不思議な気分を捨てきれない。

 歳なのだろうと内心で苦笑した。

 年齢にしては壮健だとよく言われるが、時の重みは確実にこの体を死に向かわせている。だから、先に逝った人間の事を考えてしまうのだ。


 清楚な面立ちに反して気が強いくせに、ひどく穏やかに笑う女だった。

 幼い頃から体が弱く、医者には二十まで生きられないだろうと言われていたという。世間知らずの籠の鳥。けれど、いかにも華奢でたおやかな体の内には、時折他人をぎょっとさせるような気丈さを秘めていた。



 ――私が死んだら、お墓には入れないでくださいね。



 脳裏に蘇った声はひどく鮮明で、一瞬、足を止めそうになった。

 そう、こんな事をいう女だった。何でもないことのように笑って、まるで、今日は晴れましたねとでも言うような軽やかさで。








 当時の忠義はまだ不惑にも届いていない若造で、その言葉に顔をしかめるばかりだった。


「何を言い出すかと思えば……」

「あら。だって、思い出のよすがなんて必要ございませんでしょう。灰を海にでも撒いて、きれいさっぱり片付けてくださいな」

「無茶を言うな。法条の家が黙っておらんわ」

「そこはほら、あなたがうまく言いくるめてくださらないと」


 布団の上に身を起こした妻はそう言って両手をあわせる。

 その腕はあっけなく折れてしまいそうなほどに細く、見るからに血色が悪いというのに、いっそ無邪気なほどの空気は不思議なほどに変わらなかった。


 これ以上、墓だ何だと死にまつわる話をするのがいやで、忠義は荒いため息を吐いた。

 妻が遺言のつもりで話していることには気づいていた。そうでなくとも、遮ることはできなかっただろう。彼女はいつだって軽々と、忠義の築き上げた防壁を乗り越えてきたのだから。

 口を閉じろと言いたくなる気持ちを抑え込み、膝の上で拳を握る。あれこれと話されるのはとても些細なことばかりだ。庭のあの紫陽花はとても貴重なものだから年に一度は見て欲しいだとか、私がいる間はできなかったけれど犬を飼うなら柴犬がよいだとか、池の鯉に自分でえさをやるのは年寄り臭いから歳をとってからにすべきだとか、よくもまあここまでどうでもいいことを思いつくものだと呆れるほどに――自分がいなくなった後のことを、次から次へと。


「それから――」


 ふと、口調が変わった。

 ほんのささいな変化だ。柔らかな笑みの中に、ほんのわずかな苦しさをたたえて、妻は言った。


「どうか、あなたがこれぞと思うひとを見つけて、子を作って」

「……いらんわ、子など」


 むすりと答えると、妻は愉しげに、小さな笑い声を転ばせた。

 娶ったときから、心臓に病を抱えている妻が子を成すことのできない体だとは知っていた。それにまったく構いつけなかったのは、単にのし上がるための階段の一つだったからだ。

 けれどもこの返事は、妻に気を使ったからではない。本当に必要ないと思ったのだ。

 有能な若い部下ならいくらでもいる。養子を貰ってもいい。そもそも、子に継がせる必要などないのだ。跡継ぎは有能でさえあればいい。血縁である必要などどこにもない。後添えを貰うつもりさえなかった。妻などという面倒なものは曄子一人で十分だ。

 そんな夫の言い分を、だが、彼女は笑ってたしなめた。


「駄目ですよ、もったいない。あなたみたいな人が一代限りだなんて」

「……俺の父親はいずこの者か知れんぞ」

「あら、でしたら……なんていったかしらね。そう、突然変異なのじゃないかしら。どちらにしたって、もったいないじゃありませんか。この国の損失だわ?」

「俺が天才でも、子が秀でておるとは限らん」

「まあ」


 憮然と返す夫に、妻は少女のように明るく笑った。

 死の陰を感じさせない朗らかさは、彼女が苦労して培った気質だったのだろう。


「そういうあなただから、私はとても幸せだったんです。本当ですよ」


 面白がられているようで、素直に感謝されている気になれない。

 妻は穏やかな笑みを浮かべていた。


「ねえ、あなた。会社も人も、永遠のものではないでしょう。だけど……少しずつ変わりながら、続いていくものだと思うの。私は、あなたの『続き』が欲しいんですよ」


 まるで、自分が先を紡げない物語を、見知らぬ誰かに託すようだった。

 妻はただただ愉しげだったが、どうしても気持ちに引っ掛かりを覚えて、忠義は憮然と腕を組んだ。


「恋しい男は独占したいものではないのか」

「ふふふ、拗ねないで下さいな。私たちだって、最初は恋をするなんて思わなかったじゃありませんか。あなたの人生は、まだまだこれから……世の中に女はごまんといるのですもの、一人や二人、あなたのお眼鏡にかなう女もありましょう」


 ふう、と妻が深い息を吐く。

 ずいぶんと話し込ませてしまったことに気付いて、忠義は眉根を寄せた。


「わかった、わかった。考えておくから、そろそろ休め」

「それならいいのですけれど。……ああ、でも、誰でもよくはありませんからね。あくまで、あなたが見込んだひとでなければ嫌ですよ」

「……わかっておるわ。いい加減に言うことを聞かんか」








 最後まで言うことを聞かない女だった。長い人生のうちで思い通りにならないものなど山ほどあったが、それがあれほど快く感じられた相手は他にない。

 目をきらきらさせて言う我侭に引っ張られて、自分はここまで歩いてきたのだ――そんなことを不意に思って、苦笑した。なんとも年寄りらしい旧懐だ。


 綺麗に掃き清められた廊下を、高い窓から夏日が焦がしている。

 今日も暑くなるだろう。

 同じ地で悪戦苦闘している子供の一人のことを考え、忠義は問いかけた。


 ――お前が望んだ形とは違うのだろうが、これはこれで面白いだろう?


 そう遠くない先、土産話をすることを楽しみにしながら、彼はゆったりと歩みを進めた。

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