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アンダードッグ  作者: 九田
Side episodes
84/95

April showers bring May flowers. / 友藤

本編開始前。ガイナスの頼れるキャプテン、友藤。妻子を静岡に残し単身赴任している彼の、オフシーズンの決断とは。

 玄関の扉を開けたとたん、幼い娘がリビングから全力で駆け出てきた。


「パパおかえりー!」

乃々(のの)!」


 会うのは実に二ヶ月ぶりだ。駆け寄ってくる娘に笑み崩れて、友藤が屈んで両手を広げる。

 だがしかし、感動的な親子の再会は、あわてた声に引き止められた。


「あ、こら! だめだってば!」


 ひしと抱き合う直前で、乃々の体が後ろに引っ張られる。

 綺麗に掃除の行き渡った玄関へ、何とも言えない沈黙が流れた。


「……ママぁー」

「奈々……」


 よく似た二対のしょんぼりした目に、娘を抱きとめた妻は、深々とため息を吐いた。


「乃々は悪くない。智弘(ちひろ)君が悪い。腰悪くしてる人が子供抱き上げようとしないの!」

「ちょっとくらい大丈夫だよ」

「甘い! 乃々、またおっきくなってるんだからね」

「……お、本当だ」


 今気付いたとばかり、友藤が乃々の頭に手を置く。

 乃々はひまわりが咲くような、ぱあっとした笑顔を見せた。


「うん! あのね、乃々ね、クラスでもまんなかよりうしろなの!」


 すごいなあとにこにこ頭を撫でる父に乃々はごきげんだが、母は内心ちょっと心配している。

 両親が二人とも大きいので、たぶん乃々も大きくなるだろうが……今はまだいいとしても、思春期には恨まれそうだ。経験上。

 懸念を振り切るように手を叩いて、奈々は笑顔を見せた。


「さてと。二人とも、そろそろ買い物に行かない? おなかすいたでしょ」


 


 友藤家の大黒柱は、プロのサッカー選手だ。キャップ数(国際Aマッチ出場数)こそ少ないが、れっきとした元日本代表の、そこそこ有名な選手である。

 そんな選手でも、年齢による衰えは必ず訪れる。

 ずっと所属していた清水を戦力外になったのは三年前。クラブはコーチとしての再雇用を打診してきたが、友藤はまだ選手であることを希望して、J2の鳥取に移籍することを決めた。

 妻の奈々にも仕事があったし、実家はどちらも静岡だ。奈々は鳥取に引越しを考えていたのだが、仲のいい友達がいる乃々を気遣った友藤が、やんわりとそれを止めた。以来、友藤は単身赴任の日々を過ごしている。


 J2のスケジュールは過酷だ。ほぼ週に二回の試合と合間の練習をこなしていると、遠く離れた静岡の自宅に戻るのはなかなか体を虐めることになる。それでなくても若い頃のように無茶はきかず、リカバリーに神経を注がなければ試合でのパフォーマンスが落ちてしまうのだ。

 気軽には帰ることのできない距離。毎日のようにかかってくる電話は、彼の家族恋しさをありありと伝えていた。


 ――けれど、と、妻である奈々は思っている。

 それでも、きっと、この人はまだ変わらない。変わることができないだろうと。


 


 


 


 常連だったトラットリアで昼食を済ませたあとは、近所のスーパーで買い物だ。

 上機嫌でショッピングカートを押す夫に、奈々は吹き出したくなるのを押さえていた。

 これこそが、本人の思う「幸せな光景」の象徴なのだという。大きな図体でしょんぼりされると笑ってしまうので、昔から、できるだけ買いものは一緒に行くようにしていた。

 もっとも、清水にいたころにはそんなに大変ではなかったのだ。プロアスリートはトレーニング以外の自由時間が結構ある。J2は週半ばにも試合があってハードだが、J1なら基本的に週一だ。

 ただし、おゆうぎ会だとか運動会とかいった土日に行われるイベントへの参加は、いずれにしてもなかなか難しいのだが。


 料理上手の夫に促され、幼い娘が嫌そうな顔でパプリカをかごに入れる。

 多分あれは、ピーマンとの違いがわかっていないだろう。

 笑いをかみ殺していると、きょとんとした目がこちらを見た。


「あれぇ、ママー? おいてくよー」

「はいはい」

「あ! ねぇパパ、ママもピーマンいやだって!」

「こら、乃々。うそつかないの」


 目じりを吊り上げて見せた奈々に、乃々がぷっくりと頬を膨らませる。

 友藤が笑って仲裁に入った。


「乃々、これはピーマンじゃないよ。ほら、赤と黄色だろ?」

「えー」

「大丈夫、苦くないから」

「うー」


 しぶしぶと乃々がうなずく。

 今度カラーピーマンを使ってみようと奈々は内心で算段を立てながら、父親には素直な娘に苦笑した。

 たまに帰ってくるとべったりだ。いつも一緒にいる口うるさい母親よりは、父親に懐いてしまうのも仕方ない。

 いじらしいくらいに口にしないが、きっと、寂しいのだろうと思う。

 試合時間になるとアニメも見ないでリビングのテレビの前でおとなしく座っている。それでも、テレビに映る、黒いユニフォームを着た父親は、こんな風に頭を撫でてくれないし、乃々の話を笑いながら聞いてもくれない。


 買い物を終え、フードコートで嬉しそうにソフトクリームをなめる乃々の、いつになく高いテンションは、普段の寂しさの裏返しだ。

 それはきっと、友藤も分かっている。

 答えを先延ばしにするのは性に合わない。がやがやと混濁した喧騒を聞きながら、奈々は単刀直入に切り出した。


「それで、決めたの?」


 肘を突いて訊ねると、友藤は苦笑で返した。


「ああ。残ることにしたよ」


 譲らない響きに、奈々は大きなため息をつく。

 シーズン後に発覚した経営難は、彼にとっても選手としての岐路であるはずだった。古巣の清水は再びコーチ就任を打診してくれたし、昨季の奮闘を考えれば、他のクラブに移籍することも不可能ではないだろう。

 それでも、彼はそれを選ばないだろうということは、なんとなくわかっていたのだ。


「……智弘くんのそういう律儀なとこ、好きだけど。……今はちょっとうらめしいわね」

「すまない」

「……私、そっちに行こうか?」

「いや。……多分、もってあと一年だ」


 それは、クラブの話ではない。彼自身の体の話だと正確に理解して、奈々は眉をひそめた。


「でも、だったらなおさら――」

「大丈夫。乃々も友達と別れるのは、寂しいだろうし。君が仕事をやめることはないよ」


 物分りのよすぎる夫に、再び盛大なため息を吐いた。

 やんわりとしているようでかたくな。若い頃からそんな人だったが、年を経てさらに強固になってきている気がする。


「ねえ、あたしたちも寂しがってるってこと、ちゃんとわかってる?」

「……ああ。すまない」

「……まったく」


 口の周りをソフトクリームでべたべたにしている娘に、両親が目を向ける。

 きょとんと目を瞬いて、乃々は首を傾げた。


「ねぇ乃々。パパ、まだ鳥取でお仕事したいんだって。どうする? 許したげる?」

「えっ」


 友藤があわてた声を上げる。

 みるみる悪くなった機嫌を顔に出し、乃々は唇を尖らせる。

 困りきって娘の顔を覗き込む父に、ちらりと目を上げた。

 それから母の顔を見て、思い切りため息を吐く。


「しょーがないなー、ほれたよわみねー」

「……乃々」


 苦笑のできそこないのような夫の表情に、奈々が思わず吹き出す。

 母親の口真似をした乃々は、まだふてくされた顔ながら、ソフトクリームに目を戻していた。


 精一杯の強がりが愛しくて、少しだけ複雑だった感情が凪いだ気がした。

 娘の頭を優しく撫でて、小さく肩をすくめ、奈々は夫に笑ってみせる。


「そういうことです。しょうがないわね」

「……すまない」

「いいわ。後悔されるよりはずっといいもの。気が済むまでやって」


 乃々は頬を膨らませたまま、奈々に促されてこっくりと頷いた。

 まぶしげな目を二人に向け、ありがとう、と友藤は答えた。


 


 


 



 短いオフはあっという間に過ぎた。

 その間べったりとくっついていた乃々に、いつまでこうしてくれるんだろうなあなんて友藤は感傷的な言葉を口にしていたが、実際のところ、もうそんなに長くはないだろう。小さいばかりだと思っていた娘が強がりを覚えたように、あっという間に難しいお年頃に入ってしまうはずだ。


 それでも、まだ今は寂しくて仕方ないのだろう。

 見送りに来たプラットフォームで、電車が見えなくなるまで手を振っていた乃々は、ほとんど泣き出しそうな顔で奈々の膝に抱きついた。

 小さな背中をとんとんと叩いて、奈々はささやいた。


「……よく頑張ったね、乃々」


 ぎゅうっと抱きついた乃々は、黙り込んだまま答えない。きっと声を出したら、泣いてしまうのだろう。


 大きくなったな、と、改めて奈々は感慨を抱く。

 抱き上げるにはもうかなり重くなってしまった娘は、きっといい女になるだろう。その頃には格好いいボーイフレンドもできて、寂しい思いをさせた父親が、今度は寂しがる方に回るのだ。


 気の早い空想に小さく笑い、くしゃくしゃと娘の髪を掻き撫ぜる。

 小さな娘が、これだけ頑張ったのだ。やれるだけやりきって欲しい。


 ――今年で、最後。

 この一年が彼にとって、その価値のあるものであるようにと、そう願った。


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