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アンダードッグ  作者: 九田
Side episodes
83/95

Every cloud has a silver lining. / 白田

本編開始前。ガイナスが経営危機に陥り、周囲から移籍を勧められた白田。彼が向かった先は。



 ファー付きのダッフルコートを羽織った白田に、掛川は怪訝そうな目を向けた。

 理由は簡単で、正気を疑うほどの練習好きがトレーニングウェアを着ていなかったからだ。

 なにしろ暇さえあれば走り込みだの体幹だのをして、そうでなければ寝ているか食べているか、修行僧かと毒づきたくなるような生活習慣を持つチームメイトだ。雨でも降るのではないかと疑ってしまう。


「どこ行くんだよ?」

「墓参り」


 あっさりした返事に、とっさに言葉に詰まった。

 悪いことを聞いただろうかと迷ったが、振り返った白田はいつもどおりの顔をしていた。


「携帯置いてくから、広野さんから電話あったら折り返すって言っといて」

「は? 何で」

「頼んだ。よろしく」


 言葉どおり携帯電話をベッドに放った白田は、掛川の返事を待たずに出て行く。

 呆気にとられていた掛川は、置き去りにされた携帯電話に眉根を寄せ――はたと、面倒を押しつけられたことに気づいて舌打ちした。


 


 


 吐く息が白い。強い風は、身を切るような冷たさで吹き荒れていた。

 この時期にはめずらしく日が照っていたが、とても暖かいとは思えない。両手をコートのポケットに突っ込んで、白田は黙々と、海沿いの国道を歩いた。

 平日の昼間だ。時折車が通り過ぎていく以外は、本当に人気がない。

 蛇行して続く道路を黙々と歩いているうちに、視界を白いものがよぎった。


 きょとんとして顔を上げた。

 青空は見えないけれど、太陽は顔を出している。その中を、大きな綿雪がふわふわと音もなく舞っていた。

 妙な天気だと苦笑して、マフラーに埋めるように首をすくめる。日光にあたる地面はそれなりに暖められているようで、舞い落ちた雪はあっというまに水に変わった。夜には凍結するかもしれない。


 祖父が死んだのも、こんな風に、妙に明るい冬の日だった。


 


 白田は早くに両親を亡くしている。祖父に引き取られたのは物心がついてからだった上、それまでは年に数度顔を合わせる程度だったから、馴染むにはお互い時間がかかった。

 祖母もその頃にはすでに亡く、祖父は男手ひとつで孫を育てることになった。祖父は祖父で息子夫婦を失った痛みを抱えていただろうし、それ以上に傷を負った幼い孫を抱えるとなれば、扱いに困るのは当然だろう。


 ぎくしゃくした生活が続く中、どうにか悲しみが和らいだころだった。

 中国電工の社員だった祖父が、当時地域リーグだった因幡SCの試合のチケットを貰ってきたのだ。


 真夏のナイトゲームだった。スタジアムの周辺に立ち並ぶ屋台は祭りのようで、賑やかさに胸を高鳴らせたのを覚えている。そして何より、驚くほどの人々が集まっていた。

 宵の空を照らす強い照明。緑の鮮やかな芝生。

 JFLへの参入を賭けた、島根FCとの山陰ダービー。特別な試合だからこそ増していく熱気が、小さなスタジアムを大きく沸かせた。


 時間がたつにつれ、動悸が高まっていた。いつの間にか息を詰めて見守った。見よう見まねで応援の手拍子をした。ボールを蹴る音。選手の息遣い。ぶつかり合う体。間近で繰り広げられるのは、全力を賭けた熱闘だった。


 結果は1-1のドロー。

 勝つことはできなかった。それでも、ロスタイムでの同点弾に飛び上がって叫んだ。

 胸の中にずっと凝り固まっていた痛みを、その瞬間だけ忘れた。


 興奮覚めやらぬ人々の流れの中で、祖父と並んで歩いた帰り道。

 口下手だった祖父が、ぽつりと言った。


「……すごかったな」

「すごかったね」


 うなずいて鸚鵡返しに言うと、祖父が苦笑のできそこないのような表情を見せた。

 硬い大きな掌が頭を撫でていく。

 そのとき初めて、祖父との間にあった壁が、なくなったような気がした。


 


 


 そんな風にサッカーに魅入られた白田が、自分もサッカーをやりたいと言い出すのは必然的なものがあった。

 忙しかった祖父は他の保護者のように全面的なサポートはしてくれなかったが、それでも白田のやりたいようにさせてくれた。

 祖父はいつでも変わらなかった。

 白田がユースのセレクションに落ちて落ち込んでいたときも、高校でサッカーを続けて全国大会に出たときも、J2に昇格したガイナスから二種登録を勝ち取ったときも、初めてプロの試合に出たとき、初ゴールを決めたときにさえ。

 「そうか」と「良かったな」。基本的にはこの二つで会話が終わってしまうので、白田は一人でしゃべりつづけるか、そうでなければ口をつぐむか、どちらかだった。おそらくそれだけで、祖父は孫の現況を察していたのだろう。


 高校を卒業してプロ契約を結ぶと、同時に選手寮に入ることになった。

 頑張って来いと送り出した祖父が、そのとき既に病魔を抱えていたことに、白田は気づかなかった。


 2006年は忙しかった。ワールドカップイヤーでリーグ戦にはぽっかりとした中断期間があったものの、それまでとは一変した生活に苦労した。

 秋からは年代別代表のAFCユース選手権も入り、クラブのリーグ戦とのかけもちに目まぐるしく日々は過ぎていった。


 祖父が入院したことは知っていた。大した事はないと電話口で渋られたが、心配で何度か足を運んだ。祖父は毎度、貝のように口を閉ざした。結局白田が一方的に近況を話して帰るだけだった。

 スケジュールの厳しさと疲労も手伝って、叱られて追い返されるようになると、病院から足が遠のいた。


 それが祖父の願った通りだと知ったのは、病院から連絡を受けてからだ。


 駆けつけたときには、すでに祖父の意識は混濁していた。いつの間にか骨のようになってしまった手を握って、必死で呼びかけた。

 会話にならないうわ言は、初め、よく聞き取れなかった。

 それを聞き取ったとき、呆然として涙が溢れた。


 がんばれ、がんばれ、と、まるで小さな子供に言うように。何度も何度も、まぎれもなく白田に向けて、祖父はうまく動かない口で繰り返していた。


 それから先のことは、よく覚えていない。

 白田は未成年だった上、祖父には他に家族がなかったので、クラブ関係者が葬儀や病院との手続きなどをしてくれたのだという。


 右も左もわからなかった。世界中で一人っきりになってしまったような気がした。

 祖父はガンだった。何もかも、白田には知らせないままに片付けてしまった。二人で住んでいた家さえ、邪魔になるだろうと売り払って、いつのまにか周りを身奇麗にして、しっかり準備をして逝ってしまった。

 なぜ、気づくことができなかったのだろう。闘病の苦しさも、恐怖も、孤独も。何一つ知ることができなかった。祖父がそれを望んだのだとしても、失ったものはあまりにも大きく思えた。


 なかなか立ち直ることができないでいたある日、白田は再び病院を訪れた。

 入院中の祖父がお世話になった人々に、挨拶をしておくべきだと言われたためだ。言われるまで思いつきもしなかったことも、自分の未熟さを思わせるようで辛かった。


 祖父を担当してくれていたという看護士は、ふっくらとして優しげな女性だった。

 彼女は白田が名乗るより早く、少し苦さのある、けれどどこか明るい笑顔を浮かべた。


「白田さんね、ずっとあなたのことばかり話していたのよ」

「……え?」

「自慢の孫だって、すごいだろうってね、もう会う人来る人捕まえて同じことばっかり。でも、あの人、口下手でしょう? なかなかうまく切り出せないでね。苦労してらっしゃったわ」


 それでも話したかったのねと、彼女は目じりに涙を浮かべて微笑んだ。

 呆然と立ち尽くした白田は、熱くなる目の奥に唇を噛んだ。


「大物にならなくちゃ。言いたいことはいっぱいあるでしょうけど、お祖父さんはきっと、一番あなたを応援していたんだから。それだけは絶対よ」


 ――知らせて欲しかった。もっと見て欲しかった。もっともっと、自慢して欲しかった。

 孝行したかった。楽をさせてやりたかった。

 何もかも、過去形ばかりだ。


 そのときは、悔しさと悲しみが強すぎて、感謝などとてもできなかった。

 今でも、素直に感謝することはできない。けれど、祖父が紛れもなく自分のことを思っていてくれたのだと、それだけは受け入れることができる。


 がんばれと、祖父は言ったのだ。


 


 


 


「……今考えると、気づいてもよかったよなあ」


 洗い終わった墓石に水をかけて、白田は一人ごちた。

 口下手な祖父が唐突に、結婚する気はないのかと訊ねてきたことがあった。あのときの白田は高校を卒業したばかりで、おまけにプロポーズした彼女に振られたところだったので、空気を読んでくれと内心で叫んだだけだったのだが。


 かじかむ指を擦り合わせて、白田は白い息を吐く。


 話をしたくて来たような気もするし、会いたくて来たような気もする。単に心の整理をつけたかっただけかもしれない。よくわからないが、片道十キロの道のりをひたすら歩いて、無心に掃除をしたら、少しだけ気が晴れた。


 J1のクラブから打診があったと広野が話したのは、三日前のことだ。

 会う気もなかったのでその場で断ると、よく考えろと諭された。そのとき、ガイナスの経営状況を聞かされたのだ。

 来年は、もうクラブがなくなるかもしれない。だからこそ、誰も白田を引き止めなかった。むしろ苦渋を耐えるように、移籍を勧めてくる人間ばかりだ。


 迷いがなかったとは言えない。

 それでも、頭を空っぽにして感情だけ見つめなおせば、行けるところまで意地を張りつづけたいという思いだけが残った。


「……まあ、若いもんな、俺」


 話し掛けるように口にして、笑みを浮かべる。

 誰かに聞かれたらまた、この一年が白田にとってどれだけ重要なのかを重ねて言い聞かせられることになるだろう。

 それでも、折れたくはない。折られてしまうまで、自分からは折れない。


 墓に手を合わせて、白田は目を伏せた。

 まだ何も決まっていない。こうと決めたら曲げなかった祖父のように、抗い抜くだけだ。


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