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アンダードッグ  作者: 九田
chapter 11
78/95

選択

 天皇杯で関東に宿泊しているチームとは別のホテルを選んだのは、出張で先に東京入りしていたこともあるが、身内の話に首を突っ込まれたくはなかったからだ。

 眞咲はそっと息を詰め、母の反応を待っていた。

 どのくらいの時間がたっただろう。秘書から受け取った資料をテーブルに置き、ナオコは優美に腕を組んだ。


『平均入場者数は目標値を大幅に上回っている。営業黒字は確定的。ナショナルチームにも選手を送り込んで、知名度も上がった。……大口を叩いただけのことはあるわね。よくやったわ』


 不機嫌顔からは予想できなかった好評価に、眞咲は軽く目を瞠った。


『……それはどうも』

『問題は来季の資金調達ね。噂じゃ、選手を一人、高額で売れそうだって話だけど――』


 じろりとした視線に、平静を装って肩を竦めた。

 理解とともに納得する。なるほど、本来の目的はそこにあったらしい。


『まだ何も。ただの噂よ。交渉の話すら入っていないわ』

『把握していないだなんて冗談は結構。たちの悪いエージェントが、交渉に手を焼きそうなときによく使う手じゃないの。それを今までろくに否定もしていないのは、社内の統制が取れていないか……もしくは、あんたにその気がないか、どちらかの話よ』


 さすがに鋭い。眞咲がこの話に乗り気でないことを見抜いて、尻を叩くためにはるばる日本までやってきたというわけだ。

 ガイナスは株式会社とはいっても非公開株で、上場企業ほど経済活動が外部に知られることはない。ましてや拠点となるのは、母にとって異国の片田舎だ。放任されているとは思っていなかったが、考えていたよりも、内情を把握されていたらしい。


『何を迷うことがあるの? 高く売れる時に選手を売るのは、スポーツクラブの経営として当たり前の行為じゃないの。タイミングも完璧だわ。クラブの経営を立て直し、軌道に乗せて、上のディビジョンに押し上げる。これ以上ない幕引きのチャンスよ。価値のあるうちにチームを売却しなさい』


 思わず天井を仰ぎたくなった。

 アメリカのスポーツチームというものは、日本と違って非常に流動的だ。フランチャイズどころか商標変更も珍しくはなく、それでもファンが着くショービジネスとして展開している。日本でもプロリーグ黎明期には事例があるが、ピラミッド構造がほぼ完成し、地域リーグまで含めれば「おらが街のチーム」を持たない都道府県の方が少ない。


『……ステイツとは違うわ。今のJリーグで、他の本拠地にチームを移すことは困難よ。反発も大きいし、とても現実的じゃないわ』

『そのようね。だったらせめて、賞賛を受けているうちに退陣なさい』


 全く譲歩になっていない。交渉の常套手段とは言え、立て続けに出される無理難題に頭が痛くなった。

 予想以上だ。まさか、こうも無遠慮に踏み込んでくるとは思わなかった。


『……無茶を言うわね。たった一年で放り出せって言うの?』

『無茶? どこが無茶ですって? 最も困難な時期は過ぎたわ。後はしかるべき人材に任せろとと言っているのよ。引き際を見極めなければ、残るのは敗北だけだわ』

『極論じゃないかしら』

『現実なんてそんなものよ。今まではうまく行っていたかもしれないけど、そろそろ、それを認識するべきね』


 世の教育熱心な親が往々にして層であるように、ナオコもまた、信念の強い人間だった。「正しい道」を持っていて、迷いなくそれを要求する、そんなタイプだ。――はっきり言ってしまえば、押しつけがましくて聞く耳を持たない。

 眞咲がこれまで母親と大した衝突もせずここまで来たのは、単純に、眞咲が望んだ道と、母親が求める物との方向性が一致していたからに過ぎない。


 どう言えば角を立てずにすむかを考え、結局のところ無理な要求だと結論づけた眞咲は、ため息混じりに反応を返した。


『確かに、経験が足りないことは理解しているわ。一年目はうまくいっても、二年目もそうだとは限らない。厳しくなる条件の方が多いし、痛い目を見る可能性もある。……そうだとしても、選択を誰かに譲ったりはしない。わたしにとって重要なのは、わたし個人の評価よりも、クラブの成功よ』

『……正気なの?』


 ナオコが眉を顰めた。怒りの色よりも、言葉通りいぶかしげな色が強い。

 個室ではなくホテルのティールームを選んだのは、人目のある場所の方が理性を期待できると思ったためだ。

 激発の兆候を探りながら、眞咲ははっきりと告げた。


『残念ながら、正気そのものよ。……わたしは、眞咲忠義の後継者になるために会社を動かしているわけじゃないの』

『ふざけないで! 私があんたを育てるために、どれだけ投資してきたと思ってるのよ!?』

『感謝しているわ。与えてくれた教育も、環境も』


 真情からそう言った。

 普通の家庭とはほど遠かったかもしれない。愛情よりも知識を注がれて育ったとは思う。それでも、感謝していた。この生い立ちでなければ、この年で、今この場所に眞咲がいることはなかったのだから。

 ――眞咲忠義の後継者。

 他の誰よりも、彼女が生んだ子供が優れているという証明。

 彼女が望むその成果を与えたかった。報いたいという気持ちは確かにあった。

 けれど、天秤にかけるものがある以上、それを第一に選ぶことはできなかった。


『わたしは、経営者よ。わたしの会社に責任を負っているのは、わたし自身なの。助言は拝聴するけれど、命令を受け入れることはできないわ』

『キキ! 私がそんなことを許すとでも――』

『親権で営業権を停止するつもりなら、全面的に争うわ。……日本の法廷は、そちらほど仕事が速くないわよ?』


 そして、身内での裁判係争を抱えた人間が、後継者争いで優位に立てるわけがない。

 怒りと失望をない交ぜにした目が眞咲を見た。ポーカーフェイスの微笑でそれに応え、眞咲は母が激情を飲み下すのを待った。

 高圧的で感情的なところがあるが、ナオコは眞咲に経営の第一歩を教えた経営者だ。娘に反旗を翻されたくらいで我を失ったりはしない。

 ただ、これが、埋めがたい断絶になることは覚悟していた。

 見切りをつけられると言うのは、そういうことだ。


『正気じゃないわ。こんな片田舎で、この先のキャリアを浪費する気なの……?』

『いずれは離れる時がくるでしょうね。でもそれは、少なくとも今ではないわ』


 長い長い沈黙の後、ナオコは顔を覆って深いため息を吐いた。


『……子供のくせに、一人前の顔をして……』

『あら。母さんがペットビジネスを始めたとき、おばあさまは何て?』

『生意気な口をきくんじゃないわよ、小娘が』


 ナオコが不機嫌極まりない顔を上げ、おもむろに、眞咲の背後をにらみつけた。


『愉快ではないけれど、手出しができない程度に覚悟を決めているんだったら、あんたの勝ちよ。ずいぶんとまあ甘っちょろい。……そこにいる有象無象の影響ってわけ?』

「え?」


 眞咲は後ろを振り返った。

 隠れる暇もなく視界に入ったのは、壁に隠れようとする青年の一団だ。

 なぜここにいるのか、どこで知ったのか、そんなことはどうでもいい。面子を瞬時に把握した眞咲は、次の契約更改金額に微妙なマイナス査定を入れることを即断していた。

 ゆらりと立ち上がった社長の、どす黒い気配を漂わせる威容に、選手たちが縮こまって顔を見合わせた。


「……どうしてわざわざ、違うホテルまでやってきてるのかしら……」

「え、えーっとだな! 待て、きざっちゃん、とりあえず話し合おう!」

「シャチョー! こんなのも用意してるヨー!」

「あっ馬鹿、おいフージ!」


 ぺらりと誇示された赤文字の公的書類は、いわゆる婚姻届というものだ。

 比喩抜きで目眩がした。

 いつだったか成年擬制うんぬんという話をしたのは覚えているが、現物を持ち出されては笑えない。


 どう怒ればもっとも効果的かを考える三秒の間に、ナオコが鼻を鳴らして立ち上がった。


『社長、通訳を――』

『不要よ』


 筋肉質な秘書の申し出を一蹴し、彼女は朗々と声を張り上げた。 


「いいことヒヨッコども。うちの娘が欲しければ、母親であるこの私にひれ伏して許しを請いなさい。まあもっとも、この私の最高傑作をその辺の有象無象にやるつもりはないけれどね!!」

『母さん!?』


 まさかの宣言に、眞咲が唖然と立ちすくむ。

 驚いたのは選手も同様だ。見つかったとき以上にまごつき、顔を見合わせた。


「え、えーっと……ってだめじゃん! 今シロいねえ!」

「代表だネー」

「タイミング悪っ! あいつ結構そういうことあるよなー」

「そういう運命なんだな。ざまみろ」

「ひでえなオイ」

「っていうかお母様、日本語しゃべれるんじゃねえか!」


 ホテルの格式には似つかわしくない騒ぎに、眞咲はこめかみを押さえた。もう、どう収拾をつけていいのかわからない。

 キャプテンの友藤が騒ぎを抜け、気遣わしげに話しかけてきた。


「その……すまない、止めるに止められなかったというか、止めたんだが、逆に説得されてしまって……」

「折れてしまうのが友藤さんの駄目なところです」

「す、すまん」


 はっきり言われて傷ついたのか、友藤が微妙に素を見せる。

 眞咲はため息混じりに訊ねた。


「それで、何か?」

「いや。……腹は、決まったんだろうか」


 抽象的な質問に、眞咲は肩をすくめた。


「……本人次第ですね」


 同時刻、日本代表のアジア最終予選メンバーに召集されているエースストライカーが盛大なくしゃみを繰り返していたことは、残念ながら、この場の誰にも伝わらなかった。


 


 


 


 


 


 



「ほお。末のがそんなことを?」


 眞咲忠義は部下の報告に、愉快げな笑い声を立てた。

 世代が変われば考え方や価値観にも変化があるのは当然のことだ。ましてや長らく外国で生活していた十代の末娘が、後継者となることに大した価値を感じないことは、まったく不思議ではなかった。


「若いのの考えることは面白いな。お前はどう思うね。あれは、責任感が強いのか、若造らしく潔癖なのか、それとも逆に計算高いのか」

「はかりかねます。……それよりも、よろしいのですか?」


 秘書が淡々と訊ねた。

 中国電工が経営再建のさなかであるのは周知のことだ。人員削減や事業整理を進める中で、地域貢献や福利厚生でしかないスポーツチームに資金を掛けることをよく思わない人間は多い。

 もしもガイナスがトップリーグに昇格することになれば、親会社である中国電工がさらなる負担を強いられるのは避けられない。


「全てを切り詰めればいいというものでもあるまい。暗い話題だらけだったうちの会社にとって、今のところ唯一の明るい材料だ。何しろ、わざわざ儂を招聘したくらいに崖っぷちだったわけだからな」


 亡き創業者と不仲だったという噂を持つ現会長は、にやりと口角を持ち上げて笑った。


「イメージというものは馬鹿にできんよ。あれも、それを意識してマスコミを使っている。うまく美談に仕立て上げて、懸命に広告効果をアピールしているというわけだ。健気じゃあないか」

「……逆に、撤退となれば悪役を回される可能性もありますが」

「悪手だな。それは採るまい。……しかしまあ、何とも、羨ましい話だ」

「何故です?」


 真情の籠もった声に、秘書が訝しげな目を向けた。


「山あり谷あり、苦労と感動が盛りだくさんじゃないか。経営者として悩むことは多いだろうが……上昇するエネルギーを持った会社というのは、人の心を豊かにする。どんな結末を迎えても、あれにとって代え難い経験になるだろうさ」


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