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アンダードッグ  作者: 九田
chapter 10
69/95

一部と全部

 


 


 国際試合には、独特の、肌を刺すような緊張感がある。

 それは白田の場合、格式張った開会式や、国歌斉唱や、マスコミの注目度の高さからくるものではなくて、もっと感覚的で正体のよくわからないものだ。

 そんな空気の中で円陣を組む試合前の瞬間が、一番好きだった。

 気持ちだけどこかに走り出してしまいそうな、うずうずした感覚。相手がどれだけ強かろうが、前評判がどれだけ不利だろうが、サッカーは何が起きるかわからない。寄せ集めの代表戦なんてものは特にそうだ。

 思ったよりも悪くない芝生(ピッチ)の上を、風が通り抜けていく。

 キャプテンマークを巻いたゴールキーパーが、気合いの入った声で言った。


「目に物見せてやろうぜ!」


 一丸となった声がそれに応じた。


 


 


 


 


 ガイナス事務局の会議室は、ちょっとしたパブリックビューイングのような様相を呈していた。

 なにしろ面子が様々だ。クラブ職員や気まぐれで顔を見せた選手だけならまだしも、スポンサーになるのかならないのかよく分からないアメリカからの来訪者が来ていたり、その手土産を目当てにした二種登録の留学生選手が当たり前のような顔をして参加していたり、監督は多忙で来ていないのに旦那である寮長がいつの間にか後ろの方に立っていたりと、バリエーションがとても豊かなことになっていた。


『ちょっとクソガキ、それアンタにだけ買ってきたわけじゃないのよ!? 自重ってもんを覚えなさいよ!!』

「言ってることわかんねーけど多分そうだぞフージ!」

「むー! ふもっほふふー!」

「あの、フージ選手、よかったらわたしの分……」

「理沙ちゃん! 甘やかしちゃ駄目だ、こいつただでさえ自己管理できてないんだから!」

「えっ! す、すみません高下さん……!」

「こいつ基本、与えられた餌は全部食うからなー」

「引退したらトドになるタイプだな」


 いつも通りの喧噪の中、理沙はこっそりと眞咲を見た。

 社長だというのに端っこに陣取った眞咲は、騒ぎに口を出す気もないらしく、淡々と書類をめくっている。テレビの中では民放らしく、何やら賑々しい様子でタレントが喋っているところだ。ぎりぎりまで仕事を手放さないのは忙しいからかも知れないし、他に理由があるのかも知れない。

 そもそも今日、調子にのってはだめだと常々自分に言い聞かせている理沙が事務所に来たのは、眞咲の様子がどうしても気になったからだ。


 白田の無謀――もとい勇気ある宣言は、例に漏れず理沙の耳にも入っている。

 そしてこれは誰にも言っていないが、学校でクラスメイトが広げていた雑誌の「男性視点から考える、傷つけない告白の断り方10選」なる記事に、眞咲がわざわざ立ち止まって目を止めていたことも知っている。


 振る気だ。どこからどう考えてもお断りする気が満々だ。

 せめて五輪で大活躍でもしてくれれば眞咲も少しくらいはぐらついてくれるのではないかと、もしそんなきざしがあるのならばせめてシーズンが終わるまで答えを先延ばしにして欲しいと泣きつくべく、気持ちを奮い立たせてきたのだが――。


(す、すごく駄目っぽい……眞咲さん、せめて試合始まったらちゃんと見てくれるよね……!?)


 祈るように両手を握りしめたとき、ようやく試合が始まった。


 北京五輪サッカー日本代表チームの前評判は、はっきり言って芳しくなかった。

 それはチーム自体が当初志向していたポゼッションサッカーの構築に失敗し、いわゆる「引きこもってカウンター」という弱者の戦い方に転向したことも理由だが、それだけではない。――最たるものは、グループ分けの運の悪さだ。


 日本が入ったのはグループD。なんと、オランダ・ナイジェリア・アルゼンチンといういわゆる「死の組」を引き当ててしまったのだから、抽選時のマスコミの悲嘆は随分なものだった。

 グループの上位2チームまでが決勝リーグに進めるのだが、同グループ対戦相手はいずれも強敵で、勝ち点を取ることができるかどうかさえ怪しいと言われる始末だ。

 とはいえ、勝ち目がないわけではない。守備陣が持ちこたえ、攻撃陣がカウンターで数少ないチャンスを生かせば、番狂わせを起こすことは十分に可能だ。予選の時にはさんざんに酷評された五輪代表チームの戦術が、こうなってみると状況にぴったりなのだから面白い。


 試合は厳しい立ち上がりを見せた。

 高さも技術もあるオランダを相手に、日本の守備陣は粘り強く戦った。

 一人目のスライディングがかわされ、二人目が置き去りにされても、三人目が必死にカバーに入ってコースを絞り、キーパーが強烈なシュートを弾き出す。度々ひやりとする場面を作られながらもゴールは許さなかったが、気がつけば30分を超えてもシュート0という状況だった。


 オランダが突破を図るたびに理沙も悲鳴を飲み込んでいたが、この調子だと、試合が終わる頃には疲労困憊していそうだ。

 眞咲はというと、冷静な顔のまま、じっと画面の動きを見つめていた。


 普段のJリーグの試合にくらべ、しばしば選手のアップが映し出される。同じサッカーでもリーグ戦と代表戦は視聴者層が大きく変わるというから、試合の俯瞰を流すよりも、ライトな層には受けがいいのだろう。理沙は祈るように手を組み合わせた。そこに映る白田の表情は落ち着いていて、まだ焦りは見えなかった。


 そのとき、すっと位置を下げた白田が、相手選手にチェックを仕掛けた。

 虚を突いたものの一度はかわされるが、体勢を崩しながらも伸ばした爪先で、どうにかボールを弾く。

 悲鳴を上げそうになった。

 画面の中でも室内でも、わっと歓声が沸く。


「よし!」

「シロ偉い!」


 その先に飛び出した中西が、逆サイドにダイナミックなパスを送った。

 駆け上がっていたサイドバックにボールが渡り、この試合、初めて日本がまともな攻勢に出る。

 攻撃のための人数はまだ足りない。

 突破か。味方の上がりを待つか。

 一瞬の判断の後、彼はペナルティエリアに踏み込んだ。

 放ったシュートは完璧な軌道で、それ以上に相手のキーパーの対応が完璧だった。

 ゴール隅に落ちていったボールを掻き出すように弾かれ、理沙が耐えきれなくなって悲鳴を上げる。


「うそおっ!」

「あれ止めるかー!」

「ヤバイ、向こうのキーパーマジヤバイ、当たりすぎ」

「あんなん見せられたら点入る気しねーわ……」


 だがまだチャンスは続いている。コーナーキックだ。

 カメラはゴール前に集まってくる両チームの選手を映していたが、その映像に、ふと怪訝な声が落ちた。


「……なあ。CB(センターバック)、2枚上がってないか」

「は? 府録とー……山県、ってマジでいる!?」

「いやいやいやちょっと待て、まだそんな時間帯じゃねーだろ!」


 センターバックは守備的なポジションだ。要は自陣ゴール前で主にゴールを守っている役割の選手が、この劣勢における唯一のチャンスで、二人とも上がってしまっているのだ。

 ボランチが下がっているとはいえ、カウンターを受けたらひとたまりもない。前半35分という時間帯でやるような作戦ではなかった。

 日本全国で、同じような叫びを口にしたのは視聴者の何割だろうか。

 冷や冷やと見守る中、コーナーキックが放り込まれた。

 ニアだ。ゴールの手前、少し短いか――理沙がきゅっと眉根を寄せたとき、競り合いながらボールの落下点に飛び込んだ選手がいた。

 白田だ。

 当たったのか当たらなかったのかラインの外に転び出る。

 赤と金の鮮やかなボールは次の瞬間、何をどう触ったのか、ゴールの中に転がり込んでネットを揺らしていた。


 唸るような歓声が上がる。

 チームメイトにもみくちゃにされる白田を見ながら、ガイナスの面々も混乱混じりに喜びを爆発させた。


「はいっ……入った!?」

「やりやがった!」

「あれ右足ですらしたのか? いやすっげえ、リプレイまだかリプレイ!」


 隣に座っていた藤間と手を取り合って喜び、理沙は胸が詰まるような思いで眞咲を振り返った。

 ほっとしたように息を吐いた眞咲が、視線に気付き、何とも言えない苦笑いを返す。

 すっかり見透かされているような気分になって、理沙はあわてて顔を戻した。


 それからの時間はとんでもなく長かった。

 何しろ残り一時間近く、日本はオランダの猛攻を耐えきらなければならなかったのだ。

 時折のカウンターで白田もどうにかポストをこなそうとしていたが、焦りと警戒を最上限にまで引き上げたオランダ守備陣がファウルすれすれの接触でそれを潰しにかかって、それ以降見せ場を作ることはできなかった。

 勝ったからよかったものの、きっと世論だの普段はサッカーに興味もないタレントだのには、面白みのない試合だったと言われてしまうのだろう。


 疲れた気分で苦笑いを零した理沙は、ふと、眞咲が書類を手に会議室を出るのを見つけた。

 今しかない。

 藤間に軽く挨拶して眞咲を追うと、足音に気付いたのか、途中で振り返った。


「森脇さん。何か用事?」

「あ、えっと、用事ってほどでも……ううん、用事なんだけど!」


 どうやって切り出すかを全く考えていなかった。

 うんうん唸ったあげく、とりあえず握り拳で力説する。


「白田選手、すごかったね! きっと明日は一面だよ!」

「そうね。予定通り忙しくなりそうで、ありがたい話だわ」

「あの、なんていうか、並々ならぬ意気込みっていうか、気迫があったよね!」


 それこそまるで代言人のごとき意気込みで語る理沙に、眞咲は自然な様子で小首を傾げた。


「……そう? 呆れるくらいいつもどおりだったと思うけれど」

「え、えええ? そんなことないと思うんだけど、えーっと……そ、そうかなぁ」

「ええ。少しは緊張しているかと思いきや、さっぱり。あの度胸は大したものね」

「う、うーん……? そういう話じゃなくて……」


 話の矛先を逸らしていく眞咲に、理沙は落ち着かない様子で指を組み合わせた。

 それでも、その先を続けなかったのは、触れてくれるなという主張かもしれないと気付いたからだ。

 理沙の遠慮に、眞咲はお仕着せではない苦笑を浮かべた。


「森脇さんは、本当に白田選手が好きね」

「そ、そりゃもう。年期入ってるもの!」

「それって、恋愛感情になるものかしら?」

「え……えええっ!?」


 予想外の言葉に、理沙は目を丸くした。

 眞咲の意図が分からず、真っ赤になってぶんぶんと首を振る。


「な、ないよ! だってそういうのじゃないもん、す、好きとか、それはそうなんだけど、なんていうかこう、憧れっていうか……!」

「今日のゴールとか、ドキドキしなかった?」

「いっつもしてるよ! ……そうじゃなくて……眞咲さん!?」


 非難混じりの声に、眞咲は小さく肩を竦めた。


「そういうものよね。いくらいい選手で、いいプレーをしていて、そのプレーに胸をときめかせて……だったらその人に恋をするかって言ったら、違うんじゃないかしら」


 眞咲の言わんとするところを理解して、理沙が沈んだ表情になる。

 確かに、その通りだ。言いたいことは分かる。

 けれど、何かはぐらかされているような気分にもなった。


「……でも、眞咲さん。それだって白田選手の一部だよ」


 眞咲が軽く目を瞠った。


「それだけで恋になったりはしないかもしれないけど、でも、そこを切り離して考えなきゃいけないなんてこと、ないと思う。……今までずっと頑張って練習して、うまくなって……だから今、眞咲さんと一緒に頑張ろうって言える白田選手が、いるんだと思うし……えっと、だから、何だろう、それを理由にっていうのはちょっと……」


 話しているうちによく分からなくなってきて、理沙は思わず顔を覆った。

 深いため息を吐いて、再び顔を上げる。


「と、とりあえず! あの、最後まで頑張らせてあげて欲しいなって……! それだけだから!」

「……そう」

「あの、私が口を挟むような事じゃないってわかってるけど、あの、ええっと、ご一考いただけると幸いでございます!


 いたたまれなくなって駆け出した理沙を見送り、眞咲はそっと、音のない息を吐いた。


 


 


 

 

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