誤訳と意訳の境界線
牧からの「ムリ。講義」という無情な返信を受けると、もう手詰まりになって白田は携帯電話を握りしめた。
知り合いの顔を次から次へと思い浮かべても、英語を話せそうな人間が全く見当たらない。
――まずい。俺のダチって、頭のデキが俺とどっこいな奴ばっかだった。
ブーイングを受けそうな事実を再確認した白田は、焦りながらアドレス帳をスクロールした。いくらなんでも監督は呼べない。年代別代表の面子には海外組もいるが、呼んだところで爆笑とともに話のネタにされるだけだ。何十時間かかるかわからない。同じ理由で鹿島の王子も却下だ。
そこでふと、府録の名前に目が止まった。
――そういやこいつ、いいとこのお坊ちゃんだとか、クソ頭いいとか聞いた気が……
こいつにだけは頼りたくない。
だがしかし、他に心当たりもない。
駄目もとで聞いてみて、駄目だったら気合いと根性でなんとか意志疎通を図ろう。そう決意し、白田は簡潔なメールを送った。
『お前、今どこ?』
そう、駄目で元々だった筈なのだ。
それなのに三十分後には米子の喫茶店で顔を突き合わせることになったのだから、これは一体、どんな異常事態が発生した結果だろう。
「呼んだの俺だけど、なんでこっちにいるんだよ……マジでわけわかんねえ」
「はっ! お前のタイミングの良さの方がわけわかんねえよ。ストーカーされてんのかと思ったわこのボケ」
島根ブロンゼ期待のオリンピック代表候補DFは、息をするように白田を罵った。
すぐそこの美保基地に配備された新型輸送機を見に行っていたなどと、白田を相手に言うはずがない。口惜しいことに、島根には航空隊が存在しないのだ。ここぞとばかりによくわかりもしないまま勝ち誇られてしまうだろう。
白田の対面に座っているのは、見た目だけならお姫様めいた白人の美少女だった。
府録は怪訝な顔になって首を捻り、軽い口調で訊ねた。
「Hey, It's very individual style.」
(やあ、ずいぶんと個性的な格好だね)
ジジは言葉の意味を察して、語気も荒く答えた。
「Ma che centra? Non ficcare il naso negli affari degli altri.」
(だったら何だっていうのよ? 余計な口出ししないでくれる)
「Hai ragione, scusami」
(それはそうだ。悪かった)
動揺のない切り返しに、ジジが小さく舌打ちする。
会話がさっぱり分からない白田は、突っ立ったまま後ろ頭を掻いた。
「えーと……今のって英語じゃないよな?」
「英語で話しかけたらイタリア語で返してきたぜ。こいつイタリア人か?」
「いや、多分アメリカ人……つーかお前イタリア語まで喋れんのかよ!? くっそチートじゃねえか!」
「はっ、あがめたてまつれ」
府録は偉そうに胸を反らせた。実際はそこまでしっかりと聞き取れたわけではなく、「怒らせた=図星っぽい=とりあえず謝っとけ」という単純構造だったのだが、その顔にはおくびにも出さない。
それにしても妙な構図だ。
将来を嘱望されいずれは日本代表を率いるであろう若手DF(自分の事である)と、まあそこそこ日本の期待を受けているストライカー(それなりには認めている)と、さっぱり接点の見つからない女装の外国人(声は高いし女顔だが、骨格は男のものだ)である。
帰り際というタイミングの良さと、ガイナスの美人社長の友人らしいということでやってきたはいいが、予想以上にカオスだ。面白すぎる。何が面白いって、白田が明らかにこの外国人を女だと思っているところだ。
府録は面白がっていることが丸わかりの笑みでコーヒーを注文し、さあとばかりに手を打った。
「満を持して通訳が登場ってわけだ、大いに盛り上げてやろうじゃねえか。さあ行けポチ」
「あー……なあ、こういう時ってどういう話すりゃいいんだ?」
「あァ? 今まで何やってたんだボケ。とりあえず名前は?」
「誰がボケだオマケ野郎。ジジだってさ」
「……ああ、イタリア系。なるほどね」
「何が」
ルイジーノだのジャンルイジだのの愛称だろうと当たりをつけ、府録はその話題を脇に置いて、愛想の良い笑みを浮かべた。
『改めて、初めまして。俺はロク。ジジって呼んでもいいかい?』
留学経験はないので自然と教科書通りの英語になる。結果、「お前は英語だとキャラまで変わる」とお利口な高校の友人たちに気味悪がられることになったのだが、少なくとも人受けはいいはずだ。
ちらりと目を寄越したジジは渋面だった。
頑なにイタリア語で話されたら困ったところだが、返ってきたのは、少しだけ訛りのある英語だった。
『どうぞお好きに、紳士さん』
『釘をさされたかな。安心してくれよ。こいつは気付いてないから』
「おい、俺が何だよ」
「お前がクソ鈍感だっつっといた」
「ほっとけよ!」
否定するには心当たりが多い。白田は府録の腕を叩いたが、即座に叩き落とされた。
子供じみた青年二人のやりとりを冷ややかに眺め、ジジはコーヒーカップを持ち上げた。あれは三杯目だと白田が零し、カフェインの過剰摂取に府録が肩を竦める。
ようやくジジが口を開いたので、府録はそのまま通訳に徹した。
『あのさあ、別に付き合って欲しいなんてひとっことも言ってないのよ。さっさと帰れって言ってくれない?』
「いや、平気だっつってるなら、まあ……。でも警官に突っかかってたんだぜ。ほっとくの恐くねぇか」
『だってド田舎にも程があるわ! 英語くらい話しなさいよ、信じらんない!』
「あー……いや、でもここ日本だし。普通に喋れるこいつが特殊だろ」
『そんな馬鹿げた話が……! ……ヘイ、ちょっとロク、あなた修辞が多すぎるわよ! 本当にこいつ「この近辺で英語を話せるのは聡明剛毅で眉目秀麗な彼くらい」なんて言ってるわけ!? 嘘ばっかり!』
テーブルを叩いたジジに、府録は涼しい顔で言った。
「ち、ばれた」
「……おい。お前どんな訳し方したんだよ」
「ちょっと遊び心入れただけじゃねぇか」
『何なのよ、もう! 最っ低!』
しれっと肩を竦める府録を見て、ジジはようやくその人となりを理解したらしい。憤懣やるかたない様子で腕を組み、ふくれっ面になって余所を向いた。
十代の少女ならまだしもといった態度に府録は思わずツッコミを入れそうになったが、白田の存在を思い出して踏みとどまった。
『それよりジジ、わざわざ俺が来るまでこいつを追い払わないでいたんだ。それなりに目的があるはずだろう?』
『……ふん、別に大した理由なんてないわよ。ただちょっと、どんなヤツなのか気になったっていうか……』
『へえ、なるほど。君も眞咲萌ちゃんに気があると見た』
『なっ……!』
途端、ジジが顔を赤らめて腰を浮かせた。
白田には何が何やらわからない。今度は何を言ったんだと府録を見れば、にやにやと性質の悪い笑みを浮かべている。
『さしずめ敵情視察ってとこか。いい勘をしてるな』
『どういうこと!? それってまさか、この男がキキと……!』
『さてね。ただ、状況と立場を考えれば、吊り橋効果が起きたとしてもおかしくないだろ?』
ぎっ、と軋んだ音がしそうなくらいに睨まれ、白田は両手を上げそうになった。
白田をその視線で射抜いたまま、ジジは低い声で訊ねる。
『……つまり、まだ、ただの可能性の話ってことね』
『意外に冷静だな。その通りだ』
『オーケイ、いいわ、分相応ってものを思い知らせてあげようじゃない』
スマートフォンがメールの着信を告げる。
ジジはその中身を確認すると、顎を反らし、勝ち誇るような目で白田を見下ろした。
『あたしはあんたなんかより、ずーっとずぅーっと、キキの役に立てるのよ。親友も家族も幼馴染みも恋人も、彼女の全部は私が手に入れるの。ぽっと出の男になんて渡さない。あんたはせいぜいキキのプランの中で、従順な歯車になってればいいわ』
ジジは洗練されたターンで踵を返し、意気揚々と店を出ていく。
その細い背中を唖然と見送り、白田はおもむろに、府録の肩を小突いた。
「……おい通訳、仕事しろ。なんて言ってたんだよ」
「あー」
府録はいかにも億劫そうに腕を組み、天井を見上げて、やがて頷いた。
「お前が眞咲ちゃんとフラグ立ててるっつったら、『全力でへし折ってやる!』っつって出てった」
「お前なんてことしてくれてんだよ!?」
「概ね合ってんだろ」
「は? おおむ……?」
とっさに単語の意味を考えてしまった白田を余所に、府録は悠々と席を立った。
「あー働いた。報酬は岩牡蠣な。店決めてるから足用意しろよ。もちろん払いはお前持ちだ」
「ちょっ、おま、どんだけ高いとこ行く気だよ!」
眞咲が旧友との食事に選んだのは、大正時代に立てられた古民家を改築した、雰囲気のある懐石料理店だった。
初めて見る堀座席に、ジジはきゃあきゃあ言いながらはしゃいでみせる。食事もお酒も口に合ったようで、終始上機嫌だった。
すくなくとも、そう見せようとしていることは確かだ。
気付かないほど付き合いが浅くない眞咲は、頃合いを見て訊ねた。
『それで?』
『うん?』
『わざわざ会いに来たってことは、なにか面白い話でも持ってきてくれたんでしょう』
『ふふん、ご明察』
酒精にほんのり頬を染めて、ジジはやたらと愛くるしく笑った。
『うちのブローサロンは好調よ。フランチャイズは三十を超えたわ。ようやく放っておいても利益が出るようになったってとこね』
『すごいスピードね。おめでとう、あなたの頑固なこだわりの成果だわ』
『ま、競合がちらほら出てきたから、ここからまだまだ気は抜けないけど。……でも、そろそろ海外進出してもいい頃合いだと思わない?』
続く言葉を予想して、眞咲は眉間を押さえた。
『……ジジ。もしスポンサーになろうって話なら、考え直すことをお薦めするわ』
『どうして!? せっかく理由ができたんだもの、手伝わせなさいよ!』
『広告効果がほとんどないわ。日本にフランチャイズを置くなら、まずは東京や大阪あたりの都市圏でしょう? 個人的にはありがたいけど、利益を考えないのはビジネスじゃないわ。Jリーグは地域性を重視しているから、いい顔をされないってこともあるわね。……それに、あなた、結局は私財をつぎ込む気でしょう』
ため息とともに訊ねると、図星だったのか、返事がなかった。
スポーツクラブは金がかかる存在だ。ジジが出そうとしている金額は、およそ彼の事業規模に見合わないようなものに違いない。
ジジは唇をへの字に曲げ、ぐいっと日本酒を煽った。
『……ジジ。飲み慣れないものは回りやすいそうよ。気をつけて』
『なんっで、そう頑ななのよ! 潰れちゃうよりマシでしょ!』
『潰れないし、潰させないわ』
『それにしては、手段を選んでないみたいじゃない』
目を据わらせたジジに、眞咲は無言で肩を竦めた。
どうしてこうやって乗り込んできたのかを、今更ながら理解した。どうやら、すっかり把握されているらしい。
『あなたらしくないって話よ。ねえ、相手だって馬鹿じゃないでしょ。もし大っぴらに騒がれたら、それこそ厄介な事態ってやつじゃないの』
『そんなへまをすると思う?』
涼しげな眞咲の笑みに、ジジが苦々しげなため息を吐いた。
それが自信や冷酷さから来るものではないと、気付いていたからだ。
大なり小なり、事業を動かせば妨害工作は存在する。相手が手段を選ばないなら、それなりの対応が必要だろう。
『……どうだか。追いつめられた人間は恐いわよ。タナカだって、心配したからあたしに漏らしたんじゃない。わざわざあたしの圧力に折れたようなふりまでしてね』
『心配をかけたわけね。ありがとう。気持ちだけ受け取っておくわ』
ジジは酔いだけではない目眩を覚え、唇を固く結んだ。
眞咲の表情も口調も、ひどく凪いだものだ。手応えがまるでない。
思えば出会ったときから大人びた少女だった。大人の中で、大人のルールを用いて育てられた子供は、きっと自分の本質が何かということさえ、自分自身の目から綺麗に覆い隠してしまえるのだろう。
そうして信頼しろとのたまうのだ。
『……あたしは、あなたを守りたいのよ』
『子供扱いね』
『馬鹿。女扱いよ』
分かっている癖にと詰られて、眞咲は苦笑を浮かべた。
『知ってるわ。でも、対等でいるべきだとも思うの。だから、ごめんなさい、一方的な手助けを喜ぶことはできないわ。……そうでなければ、わたしがわたしである意味がないから』
間違いだと言えないから、余計にもどかしい。
ジジは陶器の器を握りしめると、胸中で白田を罵った。
深い意味があったわけではない。ただ単に、とりあえず顔を覚えている当事者として罵ったのだが――のちのち本気で罵る羽目になることを、このときの彼は知らなかった。