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アンダードッグ  作者: 九田
chapter 9
59/95

黄色と赤色

 

 



 その日の試合は最悪だった。


 まず、前夜から続く雨が全く降り止まず、ピッチコンディションが限界に達した。

 視界は悪い、体力は奪われる、ボールは転がらない。パスサッカーには不利なことばかりだ。そして、状況に応じて戦術を切り替えられるほど、ガイナスの熟成度は高くなかった。


 さらには相手のチームの方が現実的で、指揮官の意図を十分に汲むだけの統率があった。

 ガイナスの生命線は、実は白田ではなく掛川だ。その掛川に二枚、執拗なマンマークをつけた。そして無理に攻撃に入ろうとせず、守備に徹し、カウンターから得点を狙った。


 この策は見事にはまった。いっそ見事すぎるほどに。

 手も足も出ない焦燥感は選手の頭に昨季の惨状を思い出させた。

 前半だけで2点差をつけられ、後半には、さらに決定的なトラブルが起きた。


 雨音を切り裂くような笛の音とともに、審判が駆け寄る。

 高々と掲示された黄色いカードに、転んで泥だらけになった掛川が顔色を変えた。


「……はあ!? 俺!? なんで俺だよ!」

「トラ、やめろ!」


 時間は刻一刻となくなっていく。奪われたボールを取り返そうと足を伸ばしたのだが、結果的に相手の足を引っかけることになってしまったのだ。

 この試合、掛川はかなりしつこいマークにあっている。ただでさえ募っていた苛立ちが、ここに来て爆発した。

 友藤の制止を振り切って、声を荒げる。


「ふざけんなよ、ボールに行ってんだろ! ちゃんと見ろよ!」


 ――嫌な予感はしていた。

 客席からも色鮮やかな赤いカードを審判が取り出すのを見て、理沙は思わず顔を覆った。


(ああ、やっぱり……!)


 何度となく審判に食ってかかっていたのだ。心証は相当悪くなっていただろうし、重ねて警告されていただけに、予想された結果だった。

 また頭に血を上らせた掛川がユニフォームを投げ捨てやしないかと冷や冷やしながら見守っていたが、どうやら友藤がそれを落ち着かせたらしい。

 雨ざらしのサポーター席には大粒の雨が容赦なく降り注いでいる。ポンチョの端からぽたぽたと垂れ落ちる滴は服の中に入り込んできて、とっくの昔に濡れそぼっている。いっそ泣きたい気分だった。


(……ううう……何かもう、何もかもうまくいってない……)


 ほとんど負けは確定している時間帯だ。言っても仕方ないが、無理をして欲しくなかった。

 これで掛川は、最低でも次の一試合に出られない。

 審判への異議で二枚目をもらってしまったのだ。下手をすると三試合程度の出場停止になる可能性もある。今のガイナスに、それはあまりにも厳しい条件だった。


 沈みきった気分にとどめを刺すように、笛の音が長く響き渡り、試合の終わりを告げた。

 サポーターの反応は大体二分された。がっくりと肩を落として、とぼとぼと帰り支度を始めるグループ。腕組みをして、あるいは罵声を上げながらじっと選手たちを待つグループ。後者はこれから挨拶にきた選手たちに、きっと厳しい言葉を浴びせかけるのだろう。


 去年なら理沙も腹が立っただろうと思うような、不甲斐ない試合だった。

 だが、今は単純に怒る事ができない。選手たちの人となりを知ってしまって、少しばかり親しくなってしまったせいで、ブーイングを受けているのを見ることさえ辛くなってしまった。


 すっかり悄気返りながら客席のゴミ集めを手伝い、あらかた片づけを終える頃には、スタジアムからすっかり人がはけていた。

 顔見知りのボランティアスタッフとは、顔を合わせただけで気持ちが通じ合うからある意味で楽だ。言葉にならない思いをため息で共有しながら、いまだ降り止まない雨を恨んだ。


「はあ……ほんと、止みませんね……」

「そうねえ。試合終わった後で止まれても腹が立つけど」

「あ、そうかも。……でも……ああ、だめですね、なんだか悄気てしまって……」

「……あなた、ときどき本当に女子高生っぽくないわねえ」


 すっかり聞き慣れてしまった言葉に、理沙は苦笑いを返した。

 女性はふっくらした頬に手を当て、ため息を吐く。


「でも、本当にそうね……みんな落ち込んじゃって。私も、少しお休みしたらって家族に言われてるのよ」

「えっ!? そ、それって、あの週刊誌の記事とか……」

「いやね、信じてるわけじゃないのよ? 社長さんもニュースで違うって言ってたし。でもねえ……」


 言葉を濁したが、前向きにはとてもなれない表情だった。

 今日の敗戦だけが理由ではないだろう。

 嫌気がさす、という言葉が、理沙の脳裏をよぎった。

 水を差す出来事があったとき、なんとなくやる気を失ってしまう。興味がそがれて、離れていってしまう。ようやくいい方向に向かい始めた空気が、また戻ろうとしているような焦りを覚えた。

 抱いている違和感はきっと、目の前の彼女だけのものではない。

 スタジアムを覆い尽くすように、目に見えないまま蔓延している。


 理沙は落ち着かない気分のまま、眞咲の姿を探した。

 帰りは社用車に同乗させてあげるから、と半ば強引に約束を取りつけた眞咲は、早いうちに理沙の率直な感想を聞きたいと話していた。期待に応えられるかどうかは自信がないが、それでも、今できることはそれくらいしかなかった。


「森脇さん」


 待ち合わせ場所に行く途中で、涼やかな声に呼び止められた。

 あわてて振り返れば、その両手にタオルを抱えた眞咲がちらりと眉をひそめる。


「あ……! ごめんなさい、遅くなっちゃって……」

「それはいいけど、ずいぶん濡れてるわね。夏だからってそのままにしちゃ駄目よ」

「あ、ありがとう」


 乾いたタオルで軽く頬を押さえられ、理沙は真っ赤になって頷いた。弾みで髪の毛の先からぱたぱたと水滴が落ち、コンクリートにシミを作る。

 一つしか年齢は変わらないのに、こんな時、眞咲はひどく大人びて見える。

 それがそのまま背負っているものの重さに思えて、理沙はなんだか項垂れた。


「もう少し時間がかかりそうだから、先に広野さんに送っていってもらう?」

「あ、ううん、大丈夫」

「そう。……雰囲気はどう?」

「……うん……やっぱりみんな、あのこと、気になってるみたい」

「ボランティアスタッフが減るかしら……梃子入れが必要ね」


 夏休みに入り、Jリーグは書き入れ時に入っている。とはいえ、ガイナスはこれから二週連続でアウェイゲームだ。急ではあるが、何らかの小さなイベントを入れる事はできるだろう。

 内心で予算とスケジュールの算段を立て、眞咲は不安げな理沙に笑顔を見せた。


「大丈夫、なんとかなるわ。夕食には付き合ってくれるでしょう? そのときにゆっくり聞かせて」

「う、うん、わかった」


 夕食とはいっても、外食ではない。寮長お手製の弁当で、おまけに場所はクラブハウスだ。

 一瞬引け腰になりながらも、理沙ははっきりと頷いた。

 眞咲が意外そうに首を傾げる。

 思い上がっていた自分に気付いて泣いてしまったあの時から、腹を括ることに決めたのだ。

 眞咲が役に立っていると言ってくれる以上、それを求める以上、できるだけそれに応えたい。自信なんてないし、逃げ出したい気分もまだ消えてはいないけれど、自分にできることがあるなら、その場所に踏みとどまりたいと思うのだ。

 今が苦しいときなら、その分だけ頑張りたい。


「眞咲さん、私、他のとこ手伝ってくるね! メールしてくれたら、すぐ行くから!」


 ぱたぱたと駆けていく背中を見送り、眞咲はわずかに苦笑をこぼした。

 出会った当初は控えめな、言ってしまえばおどおどした態度だった理沙だが、いつの間にか活動的になったものだと思う。空元気なのかもしれないが、有り難いことだ。彼女の懸命さとガイナスへの愛情に、確かに救われている部分がある。

 細い息を吐いてタオルを持ち直し、眞咲はスタジアムの中を再び歩き始めた。


 何においてもそうだが、人を「その気」にさせるということは非常に重要だ。

 今のガイナスには逆方向の力が働いている。デマを否定することも、その根拠を示すことも迅速に実行したつもりだったが、それだけでは足りない。

 一度抱かせてしまった負のイメージは、そう簡単には消えてくれない。

 苦々しい思いで唇を結んだとき、会議室の扉が開いた。

 先に出てきたマッチコミッショナーが眞咲に気付き、苦笑して会釈する。同じような表情で眞咲が会釈を返すと、悄然とした掛川が彼の後から姿を見せた。


「まあ、これも若さってことだ。頑張るんだよ」

「……スイマセンした」


 軽く肩を叩き、マッチコミッショナーは時計を見ながら眞咲とは逆方向へ歩いていった。

 気を遣ってもらったらしい。

 Jリーグでは、試合中に退場した場合、試合後にユニフォームのままマッチコミッショナーによる聴取を受ける。その内容は理事会において検討されることになるので、取り調べと言った方が正確かもしれない。もっとも眞咲の目には、この聴取自体が処罰的な意味合いを持っているように見えたが。

 メンタルが弱い掛川には堪えただろうと、内心で苦笑する。

 傍目にも暗い雰囲気を纏い、足を引きずるように歩き始めた掛川は、眞咲の姿にぎくりと足を止めた。


「お疲れさま」

「……ッス」


 返ってきた反応はよく聞き取れなかった。「お疲れさまです」の省略形だろうか。

 逃げ出すだろうかと思ったのだが、その様子はない。眞咲は小首を傾げた。


「ずいぶん絞られたみたいね」

「……メーワクかけてスイマセン」

「まあ、そうね。軽率だったとは思うけど、今更しかたないわ」


 項垂れた頭にタオルを掛けると、掛川がぎょっとして身を引いた。


「ちょっ」

「頭が下がりきってるわよ? まだ乾いてないじゃない。ちゃんと拭いておきなさい」


 稲穂は実るほど頭を垂れるというが、残念ながらこの青年には当てはまらないだろう。

 逃げようとする頭をタオルでくしゃくしゃにしていると、少しばかり溜飲が下がった。

 抵抗するだろうと思っていた掛川が、ため息をついてなすがままになっているのも一因だ。


「……アンタには、めちゃめちゃ説教されると思ってたんだけど」

「結構な言いぐさね。ここまで萎れてる人に追い打ちかけたりはしないわよ」

「はっ、嘘つけよ」

「……して欲しいならしてもいいけれど、ご希望かしら」


 にっこり笑顔を作ってやると、掛川が嫌そうに顔をしかめた。

 あらかた拭き終えて、眞咲は軽く肩をすくめる。


「確かに困ったことにはなるわ。少なくとも一試合の出場停止よ。頭が痛いのは監督でしょうね」

「……わざわざ言われなくても、それくらい分かってるっての」

「そうね。起きてしまったことはもう戻らないわ。だったら、出られない間、チームと自分のために何ができるかを考えるべきね。そうでないと、ただの時間の無駄よ」


 掛川が虚を突かれたように目を見張った。

 ここは持ち上げておくべきだと理解していたからこそ、眞咲は挑戦的な笑みを見せた。


「アルベルト・アインシュタインいわく、“In the middle of difficulty‚ lies opportunity.”――困難の中にチャンスがある、ってね。それができる人間が成功に近づくの」


 掛川はむっとした顔で唇を曲げていたが、やがて、力を抜いたようなため息を吐いた。


「じゃあ、あんたもそうだろ」

「え?」


 何の話かと首を傾げると、背後から合成音声のシャッター音が響いた。

 二人がそちらを見れば、フージがかけらの邪気もなく、ニカッとした笑顔をその顔に浮かべた。


「ウキワ現場、ハッケーン!」

「……はあっ!? おいフージ、ふざけんなよ!」


 スクープだときゃらきゃら笑うフージに、掛川が血相を変える。

 浮き輪ではなく浮気だという訂正を入れる余裕もない。このごろtwitterを始めたこの現役高校生は、なんでもかんでも写真を撮ってネットに垂れ流しているのだ。冗談にならない。

 力ずくで消させようと踏み出したとき、細く息を吐いた眞咲が、静かな声でフージを呼んだ。


「フージ」

「ぴょっ!?」


 でかい図体を急に竦ませ、フージが硬直した。

 掛川からは見えなかったが、眞咲はおそらく、一片の綻びもない完璧な笑顔とやらを浮かべているのだろう。

 無言のまま、夏だというのに冷気が渦巻き始める。

 すっかり空気が凍り付いたところで、眞咲が首を傾げて手を差し出した。


「貸しなさい」

「ウー…………ハイー」


 フージは両手両足を一緒に出してロボットのように歩みより、その手にスマートフォンを提出した。

 眞咲が手早く操作してデータを削除し、「近いうち承認許可制にするわよ」と英語できっぱり告げる。フージがさっきの恐怖をすっかり忘れてブーイングを始めた。

 どうやら助かったらしいと掛川が胸を撫で下ろしたところに、眞咲がくるりと振り返った。


「そうだわ。お金を用意しておいた方がいいわよ、トラ」

「はあ?」

「Jリーグから選手個人にも制裁金の請求が来るから。確かそこそこまとまった金額だったわね」


 眞咲は笑顔のまま告げた。


 これ以上追い打ちを掛ける必要がないというその理由を、掛川は手痛い出費とともに思い知ったのだった。


 


 


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