停滞と追撃
帰りは高速を使ったが、米子駅に着く頃にはさすがに夜遅い時間帯になった。
家まで送ろうという白田の申し出を断固拒否して――その場面を写真に押さえられたらさすがに洒落にならない――タクシー乗り場まで歩く道すがら、白田はまだ不満げにぼやいていた。
「本当に大丈夫かよ。帰るまでが遠足っていうだろ」
「だから気を抜かないでタクシーにするんじゃない。大丈夫よ、マンションの前で降りるから。第一、普段よりも時間帯としては早いのよ? いらない心配だと思うけど」
まだなにかあるかとばかり見上げれば、白田はふてくされた顔で黙り込んだ。
「寄り道すんなよ」
「しないわよ」
「……ふと思い立っても仕事行くなよ」
「……」
「しゃーちょーう」
「……はいはいわかった、わかってるってば。まっすぐ帰ります。あなたこそ、事故なんて起こさないでよね」
普段よりも気安いやりとりは、それでも日常に近い空気に戻っていた。
それにほっとしていたのはどちらかではなく二人ともだ。おかしな話だが、どうしてだか舞い込んでしまった非日常をやりすごせたことに、胸を撫で下ろすような共感が漂っていた。
眞咲が生まれて初めて買った「温泉の素」は、土産物と一緒に白田の手にぶら下がっている。
タクシー乗り場まで後少しという距離で、ふと、白田が足を緩めた。
「どうかした?」
「いや……明日だよな、例の」
「ああ、その話? そうね」
突然切り出されて驚いたが、明日はここのところ忙しかった原因――例の記事が載った週刊誌の発売日だ。
鳥取では一日遅れるだろうが、その一日の猶予が今回はありがたい。
「大丈夫よ、信用して。うまく片づけてみせるから」
だろうけど、と答える白田の返事は、どこか上滑りしていた。
言いたいことはもっと別にあるのだろう。
眞咲が足を止めると、白田も立ち止まって、眞咲を見下ろした。
「なあ、俺のこと、ちゃんと使えよ」
確認とも、要求ともとれる口調だった。
目を瞬かせる眞咲に、白田はじれたように頭を掻いた。
「俺の方があんたより丈夫だろ。そりゃ忙しいけど、ちょっとやそっとじゃ壊れない。後から、あれやっときゃよかったとか、もっとできたとか思うくらいなら、ぶっ倒れるまで全部やったほうがましだ」
「それはそうかもしれないけど……」
J2のリーグ戦は年間51試合。それだけでも過酷なスケジュールだというのに、今の白田は、該当する年代別代表にはおおよそすべて、おまけにA代表にまで引っ張られているのだ。
労力がかかるのは試合や移動だけに限らない。白田が苦手なメディアとの応対も考えれば、これから先はコンディションの維持も難しい状況に陥るだろう。だからこそ、年はじめのように気楽に営業だの地域活動だのへ向かわせることはできなくなっていた。
特別扱いではない。単なるスケジュール上の都合だ。
だが、白田には、それが遠慮だと受け取られてしまっていたらしい。
「……精密機器扱いのアスリートが、簡単に言ってくれるわね」
「そんなご大層なもんじゃねーよ。あんたが言ったんだろ、週に数時間くらいなら大丈夫だろって」
「そのときとは状況が変わっていると思うんだけど」
「変わってないだろ、ガイナスの状況は」
どうにも引く気配がない。白田の頑とした態度に、眞咲は肩をすくめた。
「はいはい、わかったわ。じゃあフィジカルコーチの監視下で考慮しましょうか」
「げっ……」
「当たり前じゃない。自己申告を信じて無理させて壊れたら、替えがきかないんだから」
「信用しろよ、大丈夫だって」
「そう思うなら高下さんからそう言ってもらえるように頑張ることね。それまでは、気持ちだけ受け取っておくわ」
「……おっまえ……あーくそ、今に見てろよ」
「期待してるわ。実際、すごく助かるとは思うから」
眞咲の素直な感想に、自分で言い出したはずの白田が面食らった顔になった。
本音だと伝わったからだろう。なんとなくそれがわかって、眞咲は笑い声を転がせた。
まるで名残惜しんでいるかのような時間だった。ようやく到着した乗り場では、二人の姿をとうの昔にみつけていたらしいタクシーの運転手が、すっかり待ちくたびれた風情で眞咲を迎えた。
「じゃあ、お休みなさい。しつこいようだけど事故には気をつけて」
「了解。お疲れ」
最後に交わした挨拶には、おかしくなるほど色気が欠けていた。
軽く振りあった手の方に、かえって違和感を覚えるありさまだ。
シートに背中を預け、眞咲はそっと息を吐いた。
「お客さん、どこか出かけてきたんですか?」
「ええ、ようやく砂丘を見てきました」
「へえ。よその人? いつごろこっちに――」
運転手の雑談に適当な言葉を返しながら、眞咲はぼんやりと、今日のことを思い返していた。
本音を言うなら、白田がどんな思い出でデートなんて言葉を言いだしたのか、いまいち掴みかねていたのだ。もしかしたら白田自身さえよくわからないままだったのかもしれない。これがどう転んでしまうのか、正直に言えば心配だった。万一とは思いながらも、今後の影響を最小限にするお断りの言葉まで考えていたくらいだ。
その微妙な距離に、白田は踏み込んでこなかった。そうすべきだと思ったからそうしたのだと、一貫した態度から感じさせた。結果、見事なまでにうまく気分転換をさせられてしまったのだから、完敗と言わざるを得ない。
(馬鹿ね)
こぼれ落ちた言葉が誰を指していたのか、ふと考え込みそうになったが、意識して頭を切り換えた。
今考えなければならないのは、明日からの素晴らしく厄介なごたごただ。
「しかし、こう暑いとねえ。車の外に出ると大変ですよねえ。私なんかは、まあ仕事柄ね、冷房きいたとこにいれますけど――」
運転手はまだ、日が落ちても一向にやわらがない暑さに愚痴をこぼしている。
明日からの段取りを思い返していた眞咲は、不意に、つけっぱなしのラジオの音声に顔を上げた。
「すみません。少し、音量を上げてもらえますか?」
「ああ、はいはい」
要領を得たもので、運転手はぴたりと口をつぐんだ。
雑音混じりのニュースは、耳が拾った通りの情報をそのまま伝え続けた。
『――鳥取県ベースボールクラブは本日午後、米子市の集会施設で会見を開き、社会人硬式野球クラブチーム鳥取シャークスの設立を発表しました。日本野球連盟へは来シーズンからの参加を目指しており、年内には茨城ゴールデンカーフと交流戦を予定しているとのことです。
県内では、日本野球連盟に加盟するチームは、1998年に廃部した大黒製紙米子硬式野球部以来、8年ぶりとなり――』
ゆっくりと唇を結び、眞咲は両手を握りしめた。
指先がひどく冷えていたのは、きつい冷房のせいだけではない。
普通に考えるなら、決して悪いニュースなどではないだろう。だが、このタイミングでの発表に、裏を疑わないことはできなかった。
短いニュースはあっという間に次の話題に移り、運転手が口を開いた。
「……へえ、野球チームができるんですねえ。お客さん、野球好きなんですか?」
「いえ……あまり見たことはなくて」
「そりゃ珍しいですねえ」
そして、懸念は的中する。
新設された硬式野球クラブチームのスポンサーには、鳥取県とは縁もゆかりもほとんどない、親族の影響下にある企業が名を連ねていたのだ。