デートらしきものの顛末 そのに
沈黙の中、蝉の声が遠く聞こえていた。
夏のさなかだ。山の中にあるだけあって風は涼しかったが、じんわり汗がにじんでくる。
見えない成分をかき混ぜるような気分で足を揺らしながら、眞咲は訊ねた。
「これに連れてきたかったの?」
「あー……まあ、うん。ダチ巻き込んで色々考えてさ。気分転換とか。これが一番うけそうだって話になって」
色々と案はあったのだが、予定を詰め込んで連れ回すよりも、いくつかに絞ってのんびりしたほうがいいだろう、というのが作戦会議の結果だったのだ。
女子高生を温泉に連れてくとかエロい、などとほざいた元DFは白田が殴っておいた。
足湯なら時間もとらないし、抵抗も少ない。疲労回復にも役立って一石二鳥だ。
神妙な顔で評価をうかがう白田に、眞咲は笑って返した。
「びっくりしたけど、思ったよりいいものね」
「そ、っか。……よかった。そう言ってもらえるとマジでほっとする……」
「こう、じわじわ効いてるって感じがするというか」
「だよな。俺も温泉すげー好きでさ。ガキの頃から爺さんと一緒にあちこち行ってたな」
「ふうん」
「県内だけじゃなくて、九州とかさ。家族旅行っつーと温泉だった。男二人で」
さすがに高校に入ってからは忙しくなって途絶えていたのだが、今思えば地味な趣味だ。
口振りがおかしかったのか、眞咲が吹き出した。
「いいじゃない。趣味があってたのね」
「まあ、そうなんだろうな。……そっちは?」
「家族旅行のこと? それとも祖父母?」
「あー……じゃ、どっちか好きな方」
「特に面白い話はないけど……母方の祖父にはたまに会うとどこかに連れて行かれていたわね。博物館とか、美術館とか、劇場とか……そういえば、カジノのスロットでまぐれ当たりしたことがあって」
「へえ」
おかしそうに笑う眞咲の顔はなんだかめずらしい。昔話もそうだ。
白田は気を取られながら話の先を促した。
「ただの偶然なのに、祖父がすごく興奮してしまってね。あちこちで天才だなのだのって触れ回ったらしくて。しかも、祖母に内緒で行っていたらしいの。案の定ばれて、一緒に雷を落とされたわ」
「とばっちりだろ、それ」
「まあ、小さな子供が手を出すことではないわね。でも、結構面白かったのよ。いわばショービジネスの世界じゃない。どう収益を上げるかという点では、ある意味スポーツビジネスにも通ずるところはあるわね」
「はー。そういうもんか」
のんびりと気の抜けた話をしているうちに、いつの間にか三十分以上経っていた。
手渡されたタオルで足を拭いた眞咲は、ふと視線に気づいて顔を上げた。
「何?」
「いや、これって拭いてやるもんなのかとか考えてたら、頭ン中に新屋さんが出てきた」
彼なら間違いなくそうするだろう。
無駄に恭しく膝を突いた新屋の姿が思い浮かんで、眞咲は口元を押さえた。
「い、言いそうね」
「だろ。で、やったらセクハラ扱いされそうだ」
「どうしてかしら、どうも彼自身にそういう反応を求められている気がするのよね」
「だよなあ」
白田が笑いをこらえながら、履きやすいように眞咲の靴を寄せる。
スマートとは言えないが、気を配られているのはよくわかる。手探りのエスコートは白田らしくて好感を持った。
車に戻って助手席に腰を落ち着け、眞咲はにっこりと笑顔を作った。
「今日はどうもありがとう。じゃあ帰りましょうか」
「いやちょっと待て、もう帰る気か。つーか分かって言ってんだろ」
「冗談よ。それで、次の行き先は?」
「……燕趙園で杏仁ソフト」
ふてくされた顔で白田が答えた。
三朝温泉から車で十五分。国内最大の中華庭園での目的は、散策ではなく、本当に食べ物だったらしい。
杏仁豆腐の独特な甘さを感じさせるソフトクリームを片手に、白田は「こんな感じだったっけ」と首をひねっていた。
もっと迷子になりそうな大きさだったような気がしていたのだ。
まず間違いなく、自分の背が伸びただけの話なのだが。
それでも眞咲には物珍しかったようで、食べ慣れない菓子に苦戦しながら、整えられた異国の風景を眺めていた。
夕食は椛島のおすすめで、鳥取市内のイタリア料理店を予約していた。
時間帯は少し早かったが、この後のことを考えるとあまり帰りが遅くなっても困る。
店の装いこそ喫茶店のような古びたものだったが、予想していた以上に本格的な手の込んだ料理が、ざっくばらんに盛られて出てきた。
まだ早い時間だったこともあって、手の空いていた店主は、現ガイナス監督を選手寮寮長と取り合っていた若い頃の話を大げさに話して聞かせた。眞咲は愛想よく笑ってその話を聞いていたが、一体どこまで今日のことを漏らしたのか後で問いつめようと心に誓った。
店を出るともう日が沈んで、夕日の残滓が空の端に残っているだけだった。
丸い月が薄く浮かんでいる。車の鍵を開けた白田に、眞咲は笑顔で腕を組んだ。
「……で?」
「へ?」
「一体全体、今回のことを何人に言って回ったのかしら?」
冷え冷えとした声にきょとんとした白田は、はっとその意味に気づいて首を振った。
「言ってない! ダチだけだって、ホントに!」
「じゃあどうして監督が」
「鳥取行くからうまい店教えてくれとは言ったけど……ほんとそれだけだからな!? 聞いたのメールだし!」
「……ふうん?」
「……だいたい、別にやましいことしてるわけじゃ」
「まあ、そうね」
眞咲はため息を吐いて、助手席の扉を開けた。
白田は釈然としない気分で肩を落とした。
そもそも売り言葉に買い言葉でデートなんて言葉を使ったが、だから何がどうなるという話でもないのだ。それでもなんだかすっきりしないのは、眞咲の言葉が白田を完全に対象外に置いているせいだろうか。
なんとなく面白くない気分になるが、それが何なのかはあやふやなまま、最後の目的地に着いた。
影の薄さでは佐賀にひけを取らない鳥取が、特徴として挙げて唯一「ああ、あの」と納得してもらえるランドマーク。
海辺に広がる日本最大規模の砂丘は、夜の帳が降りて、月明かりに白く輝いていた。
眞咲が小さな感嘆の声を落とした。
ほとんど無意識のような音だったが、白田の耳はしっかりその音を拾っていた。
人影は少なく、照明も遠い。天気が悪ければ正真正銘の真っ暗闇だろう。
砂丘は高低差が激しい。危ないからと差し出した白田の手は、予想を外れて、拒まれなかった。
細くて体温の低い手を緊張気味に引いて、さらさらと流れる砂の上を歩いた。
どちらからともなく無言になっていた。
足音と遠い潮騒、生き物の気配が静寂を引き立たせる。
ここにきてとうとう話題が尽きたようだ。砂漠の蘊蓄でも仕入れてくるんだったと頭を抱えたい気分になって、ふと気づいた。
黙り込んでいるのは、眞咲の方だった。
流れていく雲の影が、砂の上を滑っていく。気づけば結構な距離を歩いていた。
「悪い。疲れたか?」
「え? ……ああ。そうね、少し」
「もうちょっとだけど……どうする?」
「大丈夫。ちょっとぼんやりしていただけだから」
「そうか?」
重ねて大丈夫だと言われ、白田は行く先の傾斜を見上げた。
「ねえ」
「ん?」
「サッカーが好き?」
唐突な問いかけだった。
白田は足を止めて振り返った。眞咲は雲の影を目で追っているようで、月明かりだけでは、その表情はよくわからなかった。
「そりゃ、好きじゃなきゃやってないだろ」
「ガイナスは?」
「当然」
今更にも思える問いかけに、白田はいぶかしがるように眉根を寄せた。
「ねえ、たとえば今、海外からオファーがきたら、移籍したい?」
「は? そんなのあるわけ……」
「たとえばの話よ。ドイツでもイギリスでもイタリアでも。どうする?」
「……断る、と思う」
はっきりと言いきることができなかったのは、とても想像できない未来だからだ。
近年は日本人選手が海外で活躍することも珍しくなくなっているとはいえ、自分がその中に入ることはなかなか思い描けない。
多分こういうところが、大成しない理由なのだろう。
「それと同じことだと思うのよ」
「……同じって、何が」
「この間の話。きっとね、あなたの言うこと、当たってるわ。今までだって散々言われてきたし、これからもそうなんだと思う。強がらなくていいんだよ、無理をしなくていいんだよ、もっと別の幸せがあるんだよ、って」
つないだままの眞咲の手から力が抜けて、滑り落ちそうになった。
とっさにそれを握りしめ、白田は眞咲の言葉の先を待った。
「わたしはね、仕事が好きなの。好きだから、うまく運ばせたいし、できる限りのことをしたいって思ってる。……人を信用してないわけでも、任せてないわけでもないわ。それでも言われるのよね、『本当に、それでいいのか』って。まるで責められてる気分になる」
「……俺は別に、そういう意味じゃ」
あわてて遮ると、笑う気配がして、眞咲が顔を上げた。
その目の強さと、折れそうだという錯覚に息を詰めた。
「無理をしているように見えてるなら、わたしはその無理をしたいの。他の何かじゃない、その道を選んでるのよ」
声を飲ませるだけの強い意志が、胸を突き飛ばすように押した。
強い共感が喉をふさぐ。
自分が選ぶものを後悔したりなんてしない。だけど、誰にも理解されなくてもいいと言えるほど強くもない。
何かを言おうと口を開くが、うまく言葉にならずに唇を結んだ。
そこではたと、我に返る。
「……ちょっと待て。なんか今、すげー誘導しなかったか」
眞咲が顔を背けた。
舌打ちが聞こえたような気がしたのは気のせいだろうか。
「……納得したなら流されておけばいいのに……気の利かない」
「いや、納得したけど! お前ほんっと、そういうとこずるいよな!」
「仕方ないでしょう癖なのよ、真面目な話は布石を置かないと話せないの!」
「なんつー……あ、おい、待てって。その辺で急ぐな――」
警告は二秒遅かった。傾斜にかけた足が砂を滑る。
抱えるように眞咲を受け止めた白田が、長々とため息を吐いた。
「言わんこっちゃない」
「……ほっといて……」
眞咲が諦め混じりに返した。
顔も声も苦り切ったものになって、砂の上に足をつく。
「慣れないことはするものじゃないわね」
「は?」
「さっきの話。……別に、誰も彼もに理解される必要なんてないのよ。きりがないもの。同情も心配もプライベートで、仕事に悪影響がないなら、適当に笑ってありがとうって返しておけばいい。いいんだけど……」
「じゃあ、何で」
「さあ。大した意味はないわ、聞き流して」
ブーツの中に入った砂が気になって、縁を引っ張った。
砂まみれになることは避けられただけ上々だが、立ち止まってしまうと足の疲れを自覚した。
唇を曲げた眞咲に、白田が訊ねた。
「もうそこだし、運んでやろうか?」
「どうやって」
「背負って」
「……」
「嫌ならいいけど」
「……歩くわ」
「了解」
差し出された手をもう一度取って、馬の背と呼ばれる丘を登りきった。
達成感を覚えながら顔を上げる。
眼前に広がった光景に、息を呑んだ。
真っ暗な海の上に、いくつもの明かりが揺らめいている。星や月の反射ではない。たくさんの小さな太陽が昇ろうとしているかのような、幻想的な光景だった。
「あれ、何?」
「船だよ。イカ釣の。なんつったっけ……ああ、漁り火?」
いさりび、と口の中で転がして、眞咲は海の向こうに見入っている。
はしゃぐわけでもなく、感激を口にするわけでもない。ただその反応が、白田には嬉しいものに思えた。
社交辞令に長けた眞咲が、それを忘れている。不思議と誇らしい気分になった。
不意に、眞咲が唇の端を上げた。
「なるほど。鳥取らしい光景って、こういうものなのね」
「ああ。結構、いいもんだろ?」
「そうね。まんまと気分転換をさせてもらったわ」
「……そいつは何より」
「……連れてきてもらわなかったら、一生見ない光景だったと思うわ。ありがとう」
「ん、こちらこそ」
眞咲が不思議そうに白田を見た。
白田は得意げなのに据わりが悪そうな顔という、妙な顔をしていた。
「いや、何となく。すげぇ褒めてもらえた気分になった」
「褒めたんだから構わないけど……」
「こういうのって、寄り道かもしれないけどさ。そういうのもやっぱ大事だろ。俺だってサッカーばっかやってるわけじゃないぜ」
「そうだったかしら?」
「そうなんだって!」
むきになって白田が返す。
確かにこれは悪くない回り道だ。何なら、有意義と言ってもいい。
気を張っていない自分を自覚しながら、眞咲は肩をすくめて笑った。