道の途中
木曜日が過ぎてしまうと、残る平日はあと一日だけだ。
落ち着かない気分でトートバックを肩に掛け直し、理沙は塾を出ると、そのままガイナスのクラブハウスに足を向けた。
眞咲は今週、一度も学校に姿を見せなかった。
開幕前の忙しい時期にも、ガイナスの調子がよくて取材漬けになっていた時でさえ、合間を見て登校することでなんとか学校というコミュニティに溶け込もうとしていた眞咲のスタンスを、理沙はよく知っているつもりだった。
一日が過ぎるたびに不安が募っていき、とうとうたまらなくなってガイナスの事務所を訪れたのだが――顔を出した理沙は、ぎょっとして立ちすくんだ。
「こんにちは……あ、あの、藤間さん……どうしたんですか?」
「ん……ああ、理沙ちゃん」
いつもにましてぼんやりした様子の経理担当者は、机に山のような資料を積み上げてその中に埋まっているように見えた。
なにより目の下の隈がひどいことになっている。彼女はぼんやりしたそのまま理沙をながめると、おもむろに隣の席のいすを引っ張ってきた。
「はい」
「え、えっと、あの?」
「こっち、すわって」
「え、えええ?」
藤間功子は常からマイペースな印象の女性だが、これは末期だ。
なんだか職員室に呼び出されたような気分で、理沙は緊張に堅くなりながら椅子に座った。何かとんでもない失敗をしてしまっていたのだろうかと泣きそうになりながら記憶をたどる。功子は理沙が座ったのを見て満足げにうなずくと、そのまま身を乗り出して理沙を抱き込んだ。
「え!? あの、藤間さんっ!?」
「あーいやされる……」
かわいーかわいーと抑揚なくつぶやいて、功子が理沙の髪をかき回すように撫ぜる。多分いつものほぼ表情も変わっていないのだろうが、予想外の展開に理沙の理解がついていかない。混乱して反泣きになった理沙の耳に、戻ってきた高下のあわてた声が届いた。
「うわちょっと、藤間さん!? 落ち着いてっていうかとりあえず我に返って! それ理沙ちゃんだから、君んちの犬じゃないからね!」
「なにもう邪魔しないで。もう若くないんだからなんか癒しが必要なのよ……」
「あ、あああの、高下さん、あの、これいったい」
「あ、いや理沙ちゃん、えーと……お、大人って極限越えるとわけわかんない行動にでることがあってね? さっきまでは普通だったんだけど……ってほら、藤間さん。理沙ちゃん困ってるって」
「うー、うるさーい」
「おーい、明日これ思い出してのたうちまわるの君だよ!?」
二人の間に挟まれるような形になって、理沙はますます泣きそうになる。
いやというわけではない。そうではないのだが、もうどうしていいのかわからない。
誰かどうにかして、と心で叫んだとき、それに答えるかのように、疲れた呆れ声がした。
「……一体これは、どういう状況ですか?」
三人が顔を向ければ、ガイナスの社長である眞咲萌が眉根を寄せて立っていた。
上司の声に眠気が覚めたのか、功子がようやく理沙を放す。
眞咲も一応訊ねてはみたものの、おおよその推測はできていたらしい。ため息混じりに続けた。
「藤間さん、今日はもう帰って休んでください」
「……大丈夫、もうちょっとだから……ちょっと休めばまだいける……」
「行き先が迷子になりそうですよ」
うわごとのような声に軽口を返し、眞咲は高下を見た。
「高下さん、お手数なんですが、彼女を送っていただけますか?」
「あ、はい。……藤間さん、大丈夫?」
「平気。社長――」
不機嫌そうに見えるしかめ顔に、眞咲は苦笑で返した。
「すみません、無理をさせてしまって。ここまできたら後はどうにでもなりますから、そのままにして帰ってください。優秀な経理さんが倒れてしまったら、元も子もないですよ。ね?」
藤間はどこか不満げではあったが、不承不承うなずいてロッカーに向かった。
その後ろ姿を心配そうに見送る高下に、眞咲はふと考え込むような仕草を見せた。
「高下さん」
「え? あ、はい!」
「送り狼にはならないように、自重をお願いします」
効果は劇的だった。
理沙の目にも明らかに、高下は真っ赤になって動揺した。
「……は!? ちょっ、何言ってんですか!」
「いえ、一応釘を差しておこうかなと……藤間さんがあの状況ですから」
「社長、真顔で悪い冗談言うのやめてください。心臓に悪いです!」
不満をこぼしながら、高下は逃げるように事務局を出ていく。
理沙は思わず両頬を押さえた。
「うわあ、そっか、高下さんって……」
「わかりやすいわよね。むしろいいことだと思うけれど」
「うん、そうだよね、藤間さんだもんね。……うわあ、いいなあ、お似合いって感じがする」
一本気でどこかそそっかしい高下と、淡泊に見えて情の深い藤間は、性格的にも相性がいいように思えた。
今まで自分の身の回りにはいなかった年齢層の恋話だ。なんだか素敵に思えて頬を緩めていると、眞咲が首を傾げた。
「それで、森脇さんはどうしたの?」
「あ、え? えっと……」
言葉に詰まってしまったのは、塾帰りには寄らないようにと言われていたせいだ。
田舎とは言えうら若い女の子が出歩くのは保安上よろしくないという眞咲の業務命令だったのだが、それを言い出している彼女も同年代なものだから、少しばかり釈然としない。
「あの……今週、学校来られなかったみたいだから……何かあったのかなって。あの、もしかして体調が悪いのかもしれないって思って、えっと……」
ああ、と納得した表情を見せて、眞咲は苦笑した。
(あ)
心臓を、貫かれたような気がした。
たまらなくなってうつむいたところに、眞咲の穏やかな声が降ってくる。
「そうね、少し厄介なことになってはいるけど……大丈夫よ、心配しなくていいから」
「そ、そっか」
かろうじて応えたが、理沙は顔を上げられなかった。
拒絶された。明らかに、踏み込ませないよう壁を作られた。それに気づいてしまった。
だが、ショックだったのはそれではない。そのことに、動揺した。
「あ、あの! ごめんね、忙しいところに押し掛けちゃって……私、帰るね」
「大丈夫? 高下さんに送ってもらったら……」
「平気、あの、お父さん呼ぶから! じゃあ、えっと、眞咲さんもあんまり無理しないでね」
「ええ、ありがとう。気をつけて帰ってね」
優しい言葉から逃げ出すように、理沙は事務局を後にした。
苦しくて泣き出したくてたまらなかった。それを彼女に見せてしまうことはどうしてもできなくて、必死になって取り繕った体裁が、容赦なく胸を刺した。
――突き放された。
当たり前だ。理沙はただのバイトにすぎない。本当に厄介なことならなおさら、理沙に話せるわけがない。
何を当然のような顔をして、首をつっこみに行ったのだろう。
(はずかしい……私、思い上がってた)
何かができるような気になっていた。最初は尻込みしていたはずなのに、眞咲に重用されて、クラブのスタッフに親しんで、いつの間にか勘違いしていた。
穴があったら入りたい。恥ずかしくて泣きそうだ。
クラブハウスの前でしゃがみ込んで、しっかりして、と自分に言い聞かせる。
眞咲は当たり前のことを当たり前に対処しただけだ。こんなもの、傷つく方がおかしい。
寂しいなんて、思う方がもっとおかしい。
そのままじっとうずくまっていると、人の足音と声が聞こえてきた。
みっともない、と慌てて腰を上げたが、しっかり目撃されてしまっていたらしい。あれ、という声とともに、一人が理沙に駆け寄ってきた。
「あ、やっぱり。えーと、森脇さん?」
「し、白田さん……!? ど、どうしてこんな時間にっ」
「えー何? 理沙ちゃんだって?」
「おおマジだ。って今何時よ、働かせすぎじゃねぇの社長ー」
見れば他のメンバーも、ガイナスの選手ばかりだ。
理沙の頭がさらなる混乱で真っ白になる。
「今日、監督と弦さんの結婚記念日らしくてさ。せっかくだから仕事休んでもらって、みんなで焼肉行って来たとこ」
「そうなんですか……」
「それよか、そっちこそどうした? 具合悪いんだったら送ってくけど」
「ち、違うんです。そういうのじゃなくて……」
純粋な心配の色を浮かべて覗き込まれ、理沙は声を詰まらせた。
中腰になっていた白田が、ぎょっとして身を退いた。
「えっ!? ちょ、ど、どうした!?」
「う……なんでもないですうぅ……」
「あー! 白田が女子高生泣かしてるー!」
「うっわあ悪い男だよ、外道だよ、おまわりさんこいつですー!」
「きっと千奈ちゃんと理沙ちゃん二股かけてたんだぜー」
「なにその超修羅場。面白そう」
「あーもー、そのネタどこまで引っ張るんスか!!」
掛川がいたらさらに一波乱起きそうな騒ぎになって、理沙はどうにか気持ちを落ち着けることができた。
涙ぐんでしまった目をハンカチで押さえて顔を上げる。
目の前に、あめ玉が出現していた。
「……え?」
「アゲルヨー」
ニコニコして言ったのは、二種登録のフージだった。
理沙にとっては高校の先輩にもあたる。留学生でJ2クラブのユースという異色株の先輩は、校内でもその人なつっこさを十分に発揮して、知らない生徒はいないほどの有名人だ。
「あ、ありがとうございます……」
「ウン! ホラ食べテー」
笑顔のまませかされて、理沙はあめ玉の包装をといた。
口の中に入れると、甘いミントの味が広がる。眉間の力が抜けた理沙を見て、フージは顔いっぱいに笑い、理沙の髪をくしゃくしゃと撫でた。
「ひゃあ!?」
「オナカすくとネー、さみしくなるヨネー」
「は、はあ……」
「ン? 越智もアゲルノ?」
越智が黙ってあめ玉を差し出す。
好意を断ることはできず、理沙はしどろもどろにお礼を言って受け取った。
「お、じゃー俺のも」
「俺も俺も」
「え、ええええ……?」
食事会は焼肉だったというから、おそらくその店でもらったのだろう。
あっという間に両手に積み上がったあめ玉を前に、理沙は落ち込んでいたことも忘れて途方に暮れた。