試練
なにやらもの言いたげにしていた白田がようやく掛川に声をかけたのは、選手入場直前の、かろうじてカメラが入る前だった。
「あー……なんつーか、えーと、例のアレ――」
皆まで言わせず、掛川は無言で白田の腹に拳を叩き込んだ。
なかなかいいところに入ったらしく、白田が息を詰めて前屈みになる。とはいえ日頃のトレーニングの成果か、掛川が行ってしまうより早く顔を上げた。わずかに涙目ではあったが。
「……っ……てえ……! いきなりかよ!」
「うるせぇ。黙って殴らせろ」
「ちょ、もう殴っただろ! つーかやっぱ怒ってんだよな!?」
あわてて身をかばう白田に、掛川はこれでもかというほど不機嫌なしかめ面を見せた。
そのままきびすを返す掛川を、白田は腹をさすりながら追いかけた。
「くっそ、えらい目に遭った……社長には怒られるし新屋さんたちにはからかわれるし、お前には殴られるし」
「そうかよ」
「言っとくけど、声かけてきたのあっちだからな」
ぴたりと足を止めた掛川が、目を据わらせて振り返った。
「……そんなに殴られ足りないのか、よ!」
「っと、あっぶね! 理由くらい聞けよ、お前以外ねぇだろ!」
きっかけは偶然だった。それを繋げようとしたのは千奈の方で、白田が首をひねりながらもそれに付き合ったのは、眞咲が彼女と親しくしていることを知っていたからだ。
まあ変なことにはならないだろうという予測は、間違っていなかった。
白田とて、顔もよく覚えていないような相手にホイホイついていくほど警戒心がないわけではない。
案の定、人気急上昇中のアナウンサーが口にしたのは、自分の恋人の話題だった。
何だかやりきれない気分になって、白田はやけ気味に怒鳴った。
「一から十までお前のことしか喋ってねぇし聞かれてねぇよ! 満足か!」
最近どうしてる? という質問から始まって、いろいろと今の掛川の話だの、チームメイトになってからの思い出話だのを聞き出された気がする。あんまり自然で水を向けられるままにはなしてしまった。勉強熱心でインタビュアーとしても優秀だと眞咲が言っていたのを思い出したのは別れた後だ。愚痴らしきものは一切なかったせいで、二人が喧嘩しているなんてことには全く気づけなかった。
相談相手には向かないと判断されたのね、という眞咲の感想に、ぐさりときたのは秘密である。
要は痴話げんかに巻き込まれたのは自分のほうなのだと、抗議の意味も込めて睨み付けていると、この上なく顔をしかめた掛川が吐き捨てるように答えた。
「知ってる」
「……は?」
「ったく、どいつもこいつも寄ってたかって……俺を何だと……」
そりゃ技術はあるのにナイーブでビビリな10番だろう。
苦り切った口調に白田はつっこみそうになったが、口を押さえることで飲み込んだ。
もう試合が始まるというのに、指示にない発言は墓穴を掘りかねない。
いかにも余計なことを言いそうになりましたと言わんばかりの態度に、掛川は舌打ちして呟いた。
「あの強情っぱりがそんな半端な真似するわけねぇだろ」
それは信頼なのか、それともまわりくどい惚気なのか。
いまいち理解できずに、白田は眉間に皺を寄せた。
「何だそれ。まだ振られてねぇってこと……ってえ!」
無言の攻撃が臑当ての上からだったのは、せめてもの理性だったのか。
掛川は目を据わらせ、白田に拳を押し当てた。
「……いいか、今日一回でも決定機でポカやってみろ。お前の黒歴史、週刊誌に売りつけてやる」
「はあっ!? 何だよ黒歴史って……おい、ちょっと待て!」
半ば本気でやりあう二人の姿が中継カメラに拾われて、視聴者に首を傾げさせていたこと知ったのは、試合翌日、監督からにこやかな雷を落とされてのことだった。
久々に、気持ちに余裕を持って観戦できる試合だった。
後半も二十分を過ぎ、眞咲はほっとした気持ちでピッチを眺めていた。
三点を先取してもいまいち安心できずにいたとおり、セットプレーから一点を返されたが、四点目が入ってこの時間帯だ。ボールの支配率も圧倒的で、危なげがない。いくらなんでもここから逆転されるようなことはないだろう。
なにしろ掛川と白田の気迫が違う。
広野が笑いながら言った。
「なんともまあ、うまく転んだもんですねぇ」
「どうなることかと思ったけど。できすぎね」
衆目を集めると言うことは、よいことばかりではない。マスコミには神経をとがらせていただけに、大したこともない色恋沙汰がきたのは正直なところ予想外だったのだ。拍子抜けといってもいい。
眞咲の苦笑にかまわず、広野はうんうんと満足げにうなずいている。
「いやあ、本当にいい感じだ。雨降って地固まるってやつかな。社長、わかります? 掛川のパスが、前の試合とかなり変わってるんですよね」
この試合の解説もしきりに同じことを繰り返していたのだが、それは知らないまま、眞咲は首を傾げた。
「そうね……届くか届かないか、微妙なシーンが多い?」
「そうです。掛川って、いつもは相手にあわせて出すタイプなんですけどね。今日はもう、走らせる走らせる。届かなかったら何やってんだって蹴りかかりそうな迫力ですよ。白田も必死に走ってますし」
もしや喧嘩の延長なのだろうか。
眞咲は苦笑いを返したが、広野の笑顔はひたすら嬉しそうだ。
「あいつは元々、これくらいやれる選手ですからね。ようやく持ち味を――」
掛川が中盤でボールを奪った。素早いカウンターで、見る間にガイナスが敵陣に攻め込む。
言葉を飲んで見守る中、梶からの折り返しを受けた掛川が、絶妙の位置で強烈なシュートを放った。
GKが腕一本で弾き、コーナーキックへと変わる。防がれた瞬間こそ掛川は天を仰いだが、すぐに気持ちを切り替えてコーナーへ向かった。
そのシーンひとつを見ても、今日のコンディションの良さがわかる。
前節とのあまりの差に、眞咲はそっと息を吐いた。
――本当は怒っているのではなくて、不安になって悲しくなったのだと、彼の恋人は電話口で苦笑していた。
自分が掛川を思うほど、掛川は自分のことを思ってはいないのではないかと。
男女の機微にうとい眞咲には、本心で言うなら肯定も否定もできない。ただ、この場面で答えるべき言葉は決まっていた。
「そんなことはないと思いますよ。からかわれてムキになっていましたから。天の邪鬼ですしね。ただ、彼は少し、あなたの理解に甘えているように感じます」
『そうかな。……ふふ、ごめんね、そう言ってもらいたかったのかも』
千奈は、ため息のように笑った。
『たぶんね、ちゃんとわかってるわけじゃないの。わかったつもりになってるだけ。だから……うん、ちょっとね、自信がなくなって。私、ほんとうに、彼に必要なのかなって』
その漠然とした不安は、おそらくこれまでの長い時間と距離で積み重ねられてきたものだ。相手の気持ちを推し量ることに長けているせいで、衝突らしい衝突もせずにきた。人と人との関係において、それは必ずしもいいことではない。燻っていたすれ違いは、積もり積もって一気に堰を切ってしまった。
きっと彼女が欲しかったのは、とても単純な言葉なのだろう。
果たして掛川は、この試合の勢いのままに、彼女にそれを伝えることができるだろうか。
(……もし別れたら、選手生命が終わるくらいの危機なんじゃないかしら)
それとも甘える場所を失うことで、大きく成長でもしてくれるだろうか。
後者の可能性は限りなく低そうだ。そんな、色々とひどい感想を胸中にこぼしたとき、マナーモードにした携帯電話が着信を知らせた。
噂の当人かと思ったが、液晶画面に表示された名前は予想と違うものだった。
わずかに顔をしかめ、眞咲は試合に背を向けて部屋を出た。
試合は、もうロスタイムに入っている。スタジアムの喧噪から離れるように歩きながら、インカムを耳にかけた。
「もしもし……ええ、大丈夫です。……何か問題が?」
試合が終わったのか、歓声がふくらんで割れた。
古馴染みから紹介された調査員は、その売り込み文句通りの沈着さで情報を告げた。
『週刊誌でひとつ、前社長の背任ネタが載ります』
ひゅっと息を呑み、眞咲は耳を疑った。
ばかな、と内心でうめく。引継を受ける段階で、会計資料は徹底的に確認したはずだ。人件費にこそ無駄があったものの、諸経費はこれ以上削るところがないほどに切りつめられていた。マスコミが大騒ぎできるほどの金を捻出できたとは思えない。
前社長の鈴木は、現在も取締役としてガイナスに関わっている。個人的には信頼を置いている相手だが、無条件に信じるというわけにはいかない。
早鐘を打つ心臓を押さえ、意図してゆっくりと息を吐き出す。
「……一社だけですね? 内容の信憑性は?」
『中身は手に入れてませんが、感触的にはトバシでしょう。心当たりは?』
「いいえ。……手を打たないわけにはいかないでしょうけれど」
ただでさえ行政の支援を受けている状態だ。ガセであってもとんでもないイメージダウンだろう。最初にぶちまけておいて、実はそれは事実ではなかったのだと明らかにできても、後の情報を知らないままでいる人間は多い。
歯噛みしながら思考を走らせた。
記事を買い取ることも不可能ではないだろうが、それを暴露されれば、今度こそ取り返しのつかない墓穴になる。
調査員も同意見のようで、「それは勧めないが」と前置きして交渉のリミットを告げた。
ため息混じりに礼を言い、眞咲は通話を切った。
(やってくれる……!)
ここまで下種めいた真似をされるとは思わなかった。そして、それがこの上なく効果的な手だからこそ腹立たしい。
白田個人のゴシップとは比べものにならない。業績のある大企業ならびくともしないようなデマも、スポーツビジネスでは大打撃になる。
(とりあえず、調査して、行政への報告と……地元新聞をうまく味方につけて、軟着陸させることができれば……)
試合が終わり、帰路につき始めたメインスタンドの観客が明るい顔ですれ違っていく。
久々の快勝だが、とても喜べる気分ではなくなってしまった。
苛立ちと鬱屈を胸の内に押し込め、眞咲は曲がりかけた背筋を伸ばした。
仕事は山積みだ。
どんな状況に置かれようが、トップである自分が狼狽えているわけには行かなかった。