推進力
両チームともに、後半頭からの選手交代はなかった。特に島根ブロンゼは一点を追う立場にありながら、まだ三枚の交代カードを一枚も切っていない。ゲームの流れに手ごたえがあるためだろう。
センターサークルにボールを置いた梶が、ふと口元を緩めた。
白田が怪訝な顔で訊ねる。
「何スか?」
「いや。ホームでスタジアムが埋まってるのって、いい眺めだよな。なんか勝てるような気がしてくる」
後半のキックオフを審判の笛が告げる。
確かにと強くうなずいて、白田は彼にボールを転がした。
入場者が一万人を超えれば、この小さなスタジアムは満員になっているように見える。去年もダービーに限ってそこそこ客は入っていたが、今年は真っ赤に染め上げられているわけではない。
最高の舞台だ。
――だからこそ、今日こそは絶対に、この赤いチームから勝利を奪い取らなければ。
島根ブロンゼは椛島の読みどおり、前線から強いプレッシャーをかけてきた。
引きこもることはしない。だがやり方も変えない。後ろからつないでボールと人を動かし、常にゴールを狙っていくのがこのチームのスタイルなのだと、椛島が宣言したとおりだ。
梶が掛川にボールを戻し、掛川が最終ラインの友藤までボールを戻す。
友藤が、掛川からのボールをの直接大きく前へ蹴った。サイドを駆け上がった山木の前にボールが弾んだ。
「山木さん!」
白田がそれを呼ぶ。
山木は相手DFと激しく競り合いながら、ゴール前にクロスを上げた。
いいボールだ。
頭で叩き込もうと白田がジャンプする。だが、マークしていた府録も同時に飛んだ。
「そう何回も……やらせるか、っつうの!」
空中で背中から体を圧され、バランスを崩した。高さが足りない。ボールは府録がゴールの上へ弾き出した。
くそっと白田が吐き捨てて振り返れば、殴りたくなるほど得意げな顔で斜め目線をよこされる。
「はッ! どうしたよポチ!」
「だから、誰がポチだ!」
白田がイライラと言い返す。すぐにコーナーキックだ。まだチャンスは続いている。
勝ち誇る府録の腕を、島根の選手が裏手で叩いた。
「おい、ロク。お前カード一枚もらってんだからな。無理に当たって行くなよ」
「わぁーかってますって! 退場なんてダセー真似するわけないっスよ。必要もねぇし」
わざとらしく余裕を感じさせる口ぶりだ。
競り負けたことに歯痒さと腹立たしさが湧いて、白田は唇を噛み締めた。
(……くそっ)
初めてフル代表に呼ばれて、改めて実感したことがある。
足りないものが多すぎる。スピードも判断力も体の強さも何もかも一歩及ばない。高校を出てプロになってから妙にもてはやされるようになっても、白田の自己評価は低いままだ。府録に挑発されるまでもない。J2で、同年代のDFにさえ対応されてしまっているのに、うぬぼれなど抱けるわけがない。下手だと思うから必死に練習してきたし、しているのだ。
白田は唇を解き、意識して大きく息を吐き出した。
(しゃんとしろよ。もっとやれるだろ! もっと周り見て、ガツガツ行け……!)
足りないなら足りないなりに、持っているもので工夫するしかない。自分の得点ではなくても点は入っている。仕事は出来ている。チームの勝利につながるなら、周りは十分だと言うだろう。
――それでも満足など出来ない。自分のゴールが欲しい。
コーナーキックに備えてゴール前に選手が集まる中、梶が白田の肩を押した。
「シロ」
目でコーナーを示され、白田は黙ってうなずいた。
笛が鳴り、梶が群集から飛び出した。キッカーの掛川は大きくボールを蹴り上げるのではなく、飛び出した梶にボールを転がす。
ショートコーナーを警戒していなかったのか、島根の反応がわずかに遅れた。
梶がボールを受け、逆サイドに高いクロスボールを上げた。
白田は府録のマークを振り切れていない。トラップを入れれば対応されてしまうだろう。
右足に力を入れて踏みとどまる。府録を背で押さえながら、高く上がったボールを、半分振り向きながらそのまま叩き込んだ。
鋭い振りから生まれる、重い音。
放たれたシュートはキーパーの脇をすり抜け、ゴールネットに突き刺さった。
「っしゃあ!」
白田は拳を叩きつけるようなガッツポーズで吼えた。苦しめられただけに、喜びもひとしおだ。
そのまま煽りに行ったゴール裏から爆発するような歓声が降り注ぐ。追いかけてきたチームメイトに飛び掛られ、もみくちゃにされながら、白田は声を上げて笑った。
「よくやった、シロ!」
「んだよーやっとかよこの野郎!」
「はははっ、いやマジで、あせったっすよ」
最後に頭を小突かれて、白田はふと顔を上げた。
運営本部のガラス越しに見えた眞咲が、大きな目を丸くして、口元を覆っていた。
上がったテンションのまま拳を突き出す。
なぜか苦笑された。
「うがー試合中じゃなきゃ蹴りてえ! マジ蹴りてえ! 爆発しろ!」
「は!? なんだいきなり!」
ぎょっとして振り返れば、府録が目を据わらせていた。
してやられたのは悔しいだろうが、暴力に訴えればカードが出るのは間違いない。それ以前にそもそもそれはスポーツではない。
「何ですか試合中に女口説いてんですか!? いいご身分だなぁポチ!」
「くどっ……アホか! わけわかんねぇ、なんでそうなんだよ!」
「はっ、試合が終わる頃にはそのドヤ顔、泣き顔にしてやんよ!」
「なんだよドヤ顔って!」
「おい、そこの馬鹿二人! いいかげんにしとけ!」
地団太を踏む府録の頭を島根のキャプテンがはたいた。
笛を咥えた審判の目が笑っていない。このままだと本当に遅延行為で警告を受けそうだ。
共に未来の日本代表を担うであろうと言われている、期待の若手二人である。
――本当に大丈夫か五輪、と会話が聞こえたうち何人の人間が思ったか、それは定かではない。
少し感心してみればこれだ。頭痛を覚えてこめかみを押さえ、眞咲はため息を吐いた。
学生ではなくなってからもう何年も経っているだろうに、いまだに学生気分が抜けていない気がする。椛島が褒め称えていた「U-20の結束感」とは、よもやこの雰囲気のことなのだろうか。
「プロの自覚はないのかしら……」
「あー、そうですねー。どうもあの二人が顔つき合わせると、ノリが小学生になってますねー」
広野がしみじみとうなずいた。どうやら大学生どころではなかったらしい。
化学反応で十年も若返られてはたまらない。ちょっかいをかけているのは府録のようなので、白田が相手にしなければいいだけの話だろうと思うのだが。
(……無理そうね。せめて手短に済ませて欲しいんだけど)
スコアは3-1。白田の得点は、試合を決定付けられるだけのインパクトを持っていた。あの体勢からたったあれだけの動きで、あんなに強烈なシュートを打ったのだ。敵チームに与えた衝撃は決して小さくないだろう。
ふと、眞咲は眉をひそめた。
それなりに試合を見ることも増え、多少はサッカーの空気や流れというものがわかってきた頃合だ。だからこそ、違和感を覚えた。
島根の選手たちの運動量が、思ったよりも落ちていない。
メンタルが大きく影響を及ぼすスポーツだからこそ、あの得点は相手の足を止めるだけの威力があると思ったのだ。だが、島根の選手は前半が始まったばかりの時間帯と変わらず、中盤からのチェックを徹底して続けている。
些細なミスで、ガイナスがボールを失った。
カウンターだ。ひやりと心臓が冷たくなる。すばやく展開した島根の攻撃は、友藤がシュートコースを限定し、新屋が受け止めることでどうにか押さえられた。
(まさか、計算して?)
やり取りは聞き取れなかったが、府録がチームの雰囲気を落とさないために道化を演じたのだとしたら、それは一定の効果を上げているだろう。
さすがに考えすぎかと苦笑したとき、再び審判が笛を吹いた。
攻撃に移ったと思った矢先だ。眞咲は顔をしかめた。
「またファウル? ……どうなの、今のって」
「あー……どうでしょ、ちょっと厳しいな……」
3点目を挙げてから、どうも雲行きが怪しい。
前半の終了間際にも同じ空気を感じたことを思い出し、嫌な予感がじわじわと胸を侵食してきた。
そして、嫌な予感というものは、得てして現実となってしまうものだ。
(まずいな)
友藤は内心でつぶやいた。
どうもふわふわしているところへ、微妙な判定が続いてみんなが苛立っている。落ち着けと声を掛けはするものの、効果は芳しくない。
微妙だろうが何だろうが審判の判断は絶対だ。
特にこんな試合では、いちいちそれに振り回されないことが重要になるのだが、チームの若さが裏目に出た。頻繁に流れを止められるせいで、集中力も落ちている。
(落ち着かせるためにも、しばらくボールを回したいんだが……)
セーフティとまでは言えないが、得点差は悪くない。無理に攻める必要はないのだ。
ただ、前半の終わり間際は押し込まれて跳ね返す一方になった。二の轍を踏まないためにも、ラインを上げていくべきだろう。
ディフェンスラインの三人で何度かボールを交換し、三輪からサイドの板谷へパスが渡る。すかさず島根の選手がチェックについた。
前へ運ぶのを諦めたか、板谷が友藤にボールを戻す。
この状況でこの時間帯になっても前線がボールを追い回せるとなると、試合を締めるには厄介だ。
掛川にはマークがついている。逆サイドの山木へボールを振ったとき、島根の選手がスライディングで山木を倒した。
――ファウルだ。
そう判断したことが、選手の足を止めた。
笛は鳴らなかった。
ボールはラインを割っておらず、拾った島根の選手がすかさず前線へパスを送る。
一瞬目を離してしまった間にFWが裏へと抜け出た。
キーパーと一対一だ。
新屋が飛び出す。相手のシュートをコースを限定することで防ぎ、ボールはゴールポストを叩いた。
だが、跳ね返ったボールはまだフィールドの中だ。
こぼれ球を狙って詰めていた島根ツートップの片割れが、絶好のチャンスを左足で丁寧に押し込んだ。
ゴールネットを揺らしたボールがころころと転がる。
喜ぶ間も惜しんで、島根の選手がそのボールをセンターサークルへ運んだ。
まだ一点差だ。勝つにはまだ点が要る。そう言わんばかりの選手たちに、島根サポーターが活気を取り戻した。まだまだ試合はわからない。単調になっていた応援も、自然勢いを増したものになる。
「くそっ……オラ、集中しろ! ぼっとしてんじゃねぇぞ!」
芝を叩いた新屋がチームメイトに檄を飛ばす。
残り時間は二十分ほど。まだリードしているとはいえ、チームの動揺は危険をはらんでいた。
まずい流れだ。
焦りを覚えながら声を張り上げたとき、選手交代のアナウンスが流れた。
ラインの前で跳ねているのは、褐色のひょろりとした影だ。
「って……おいおいおい、フージかよ!」
上げた声は悲鳴になりかけた。攻撃のオプションとしては面白い選手だが、いかんせん守備に難がある。守る立場としては悲鳴の一つも上げたくなる。
幸いは最終ラインではなく、サイドとの交代だったことか。
ピッチに足を踏み入れたフージは、にこにこと監督の言葉を伝えた。
「守れナイヨー、攻めろッテ!」
選手がベンチを見れば、いつもどおりの監督の笑顔に遭遇した。
明確を通り越したメッセージだ。
焦りに揺らいでいた空気が方向性を持つ。こうなれば、出来ることは攻めることだけだ。
「監督らしいっつか……ま、それもありか。引きこもってもどっかで事故るしな」
「うっし、やるか!」
「シロ、お前まだ一点しか取ってねぇだろ。あと二点くらい取っとけ」
「ッスね。あいつ泣かせてぇ」
「おお、シロが強気だ! クロになったぞ!」
「は!?」
「何うまいこと言った顔してるんスか」
給水を終えてポジションに戻る選手たちの顔から、動揺は拭われていた。
守れと言われるよりはやりやすい。
そこからは、お互いに中盤でのボールの奪い合いになった。
何度か決定的なチャンスがどちらにもあったが、双方のディフェンス陣が集中して、ぎりぎりでゴールを割らせない。
白田が遠目から狙ったループシュートは意表をついたが、キーパーがかろうじてパンチングで反らした。逆に島根が得た絶好の位置からのフリーキックを新屋が防ぎ、交代で入った島根のボランチが献身的に動き回って何度もボールを奪えば、掛川が直接狙ったコーナーキックはいいコースへ曲がったもののバーに嫌われた。
手に汗握る攻防に見入っていた志奈子は、理沙の震える声に目を瞬いた。
「……どうしよ、しーちゃん。なんか、泣きそう……」
「ええ?」
「なんか、すごい。こんないい試合、うちの、初めて見る……」
それを、ダービーで見られたのだ。
理沙がスタジアムに通い始めた頃から、ガイナスはずっと弱かった。苦しい時期のほうが長かったのだ。ダービーだって勝率はひどく低くて、馬鹿にされることだってあった。
今までのことがまざまざと思い出されて、理沙は本当に泣きそうになる。あわてて、落ち着くために深呼吸を繰り返した。
「ご、ごめん。変なこと言って。気にしないで」
「あはは。でもなんか、わかる気がする。あたしもどきどきしてるもん」
志奈子は笑って答えた。
嘘ではない。心臓が落ち着かない。ボールの動きから、目が離せない。
第三者として試合自体を楽しむつもりでいたはずなのに、いつの間にか、ガイナスの勝利を願うようになっていた。まだ、選手の名前さえほとんど覚えていないというのに。
チームのひたむきさが伝わるからだろうか。
(頑張れ。負けるな。勝ってよ)
これが過ぎたら、どんな感覚が残るのだろう。想像するとわくわくした。結末がわからない非日常なんて、そうそうあるものではない。どうせなら楽しい方向の体験が欲しい。
そう念を送ったとき、試合が動いた。