それぞれの美学と理念
手団扇で風を送りながら、志奈子はため息を吐いた。
まだ五月だと言うのに日差しはまるで真夏だ。駅前のスーパーで買ってきたペットボトルは前半のうちに飲み干してしまった。
だがしかし、ため息の原因は目の前の屋台の行列ではない。
隣の親友が、いかにも深刻な顔で落ち込んでいるからだ。
「りーさーあ? 何そんなくっらい顔してんのよ。まだ勝ってんでしょ?」
「そ、そうだけど、そうなんだけど……っ!」
「応援してる方ががっくりきてどうすんの。選手信じなきゃ駄目なんじゃないの」
理沙がはっとしたように顔を上げ、拳を握りしめた。
「……そうだよね……! ごめん、しーちゃん、ありがとう!」
「ん。いいってことよ」
志奈子が鷹揚に返したところ、後ろに立っていた誰かが噴き出した。
思わず振り返った二人に、穏和そうな青年が困ったような笑顔を見せた。
「あ、えっ、牧先輩……!」
「ごめん、聞こえちゃって」
「すすすみません! あの、そのっ」
「理沙、知り合い?」
「あ、うん、中学の先輩……」
「へー」
物怖じしない志奈子が、上から下までまじまじと牧を観察する。
ガイナスの黒いレプリカユニフォーム(オーセンティックとかいうものもあるらしいが志奈子には見分けがつかない)、同じ色のタオルマフラー。草食系に見えるのにがっつり応援するひとだ、という女子高生の感想など知らないだろうが、牧は気圧されるように右手で二人を拝んだ。
「いや、ホントにごめんね。ジュースおごるから許してくれる?」
「ええっ! そんな、お気遣いなく……!」
「やたっ! ゴチになります!」
対照的な二人の反応に、牧が今度は楽しそうに笑い声を立てた。
「えーと、前半何飲んでた?」
「二人ともお茶です」
「だったらスポーツドリンクがおすすめかな。熱中症対策なら電解質とったほうがいいから」
「じゃあそれでー」
「しーちゃんっ! あ、あの、ほんとにいいんですか?」
「あはは、いいよ。気にしないで」
恐縮して小さくなる後輩に、彼は少し考えて話題を振った。
「それにしても今日、審判がアレだね」
「そ……そうですよね!? なんかもうっ、あっち贔屓ってわけじゃないけどいらいらしちゃって……!」
理沙が握りこぶしで食いつく。
同じ感想を持っていたらしい二人に、観戦初心者である志奈子は挙手して訊ねた。
「ハイ先生。下手な審判ってどういうものなの?」
「うーん……そうだな、判断が明らかに間違ってるのはダメだね。あとはファウルの取り方が安定してなかったり、取りすぎて試合の流れを止めたりする審判は嫌だな」
「なるほど。確かにしょっちゅう笛鳴ってたかも」
納得してうなずいた志奈子に、牧と理沙はそろってため息を吐いた。
「どっちかに有利って訳じゃないし、単に下手なんだろうけど。後半落ち着いてくれればいいんだけどね……」
前半は、ガイナスにとって非常に悪い終わり方だった。
ただでさえ二点差は危険だ。おまけに終了間際の失点は選手のメンタルに響く。逆に、一点を返したことで、島根ブロンゼは勢いづいてくるだろう。
今のこのチームは、若い選手が多いだけにナイーブな面がある。
まだリードしているのだと選手たちが掛け合う声はどこか空元気のように聞こえて、監督である椛島は苦笑を堪えた。
ハーフタイムの選手に戦術的な細かい指示を出しても、興奮状態の頭には入らない。
湿度の高いロッカールームを見渡し、椛島はあえて陽気な声を出した。
「それにしても、見事なバックヘッドでしたねぇ」
「って監督! あっち誉めてどーすんすか!」
右足首の治療を受けていた白田が勢いよく顔を上げる。
椛島はにっこりと笑ってみせた。
「あれはやられて当然でしたよ。何をびびっているんです。二点を取れたから、もう満足しましたか? あと45分、亀のように引きこもって逃げ切るつもりですか? 私はそんなつまらないゲームをするつもりはないですよ。一万人を超えるお客さんが来てくれたのに、ウチのサッカーをみせなくてどうするんです」
仮に島根が先制して引きこもったとしても、それは堅守を目指す彼らにとっての正解だ。
ガイナスは違う。勢いに乗って前への推進力を保っていなければ、相手に押されてしまえば、それはもうこのチームが目指すサッカーではないのだ。
「腰が引けてしまえば失点するのは当然です。相手がまだゴールを狙ってくると言うなら、ウチはその倍点を取りましょう。臆病者に勝利は転がってきません。おそれずにチャレンジを続けなさい」
――強く背中を押す言葉に、息を吐いたのは誰だったか。
にわかに、ロッカールームが活気づいた。
「おおっ!」
「……ッスね。あっちに五点取られても六点取りゃこっちの勝ちだ!」
「シロがまだ点取ってねぇしな。後半ハットトリックくらいかませや代表様」
「ちょ、その呼び方やめてくださいよ!」
「負けねぇぞ、シロ! 俺はお前より点を取る!」
「は!? 何なんスか今重さん!」
「おっさん大人げねぇ……」
「シゲさんだからなー」
「いやいやいやちょっと待て皆の衆。失点前提で話を進めんな!」
GKの新屋が一人異議を唱えたが、喧噪の中に紛れてしまう。
同じくバックラインで守備を統率する友藤が、無言で彼の肩を叩いた。
気持ちよく調子に乗った空気を愉しみ、椛島は笑顔で戦術ボードを叩き、後半に向けていくつかの修正を行った。
攻める気持ちが大事だとはいえ、単純に前がかりになってつまらないカウンターを受けるのは避けたい。
一通りの説明を終え、Jリーグ唯一の女性監督は、思い出したように付け加えた。
「あとは、審判に振り回されないように。後半もチマチマと試合を止められるでしょうが、抗議する暇があったらリスタートを早くなさい。イライラしているのは相手も同じです。呑まれたら負けですよ」
そして審判が要注意であるという解釈は、島根ブロンゼの監督も意見を同じくしていた。
ガイナスとは逆に、いい時間帯に一点を返したことで活気がある。絶対に逆転してやるのだというギラギラした目を一巡して眺め、理論派の外国人監督は、眼鏡越しの厳しい視線で府録を見据えた。
『最高の時間帯だ。素晴らしいゴールだったぞ、ロク』
「っスよねー、さっすが俺! 完ッ璧っしょあのゴール」
府録が顎に手をやり、にやりと笑う。
その首根っこを、青筋を立てたキャプテンが掴んだ。
「ゴールはいいが相手サポ煽ってくんじゃねーよこの大馬鹿が!」
「えー何言ってるんすか松さん、礼儀ッスよー。ダービーなんだしさあ」
「前から思ってたがお前はダービーをプロレスか何かと勘違いしてねぇか!?」
二人の漫才をいつも通りにワンセット待ち、監督は改めて声を張った。
『流れはこちらにきているぞ。いいか、ボールの動きに惑わされるな。危険なのは中に向かうパスだけだ。必ずどこかでくさびを入れてくる。それさえガードできればいい。あせるな』
「ウス!」
『今日の審判はナーバスだ。ペナルティエリア付近では思い切って勝負していけ。空きがちなサイドの裏をつくんだ。いいか、あせるな。必ず逆転できりゅ』
通訳が、よりによって最後で噛んだ。
選手たちがとっさに笑いを堪えて通訳の青年を見る。監督がいつも寄っている眉間の皺をさらに深くして、口元を押さえる通訳を振り返った。
子供なら泣き出しそうな厳しい顔のまま、彼は淡々と続けた。
『……何であろうとも欠点はあるものだ。キダの滑舌のように』
顔を赤くしたまま、通訳の紀田がそのままを訳す。選手たちの間から忍び笑いが起き、緊張に張りつめていた空気が軽くなった。
『相手の攻撃は確かに驚異だが、彼らのディフェンスは取るに足るものではない。いいか、攻撃サッカーというハリボテに酔った連中に、サッカーはまず守備から始まるのだということを教えてやれ』
力強い挑発の言葉がロッカールームに響く。
野太い声が幾重にも重なってそれに応じた。