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アンダードッグ  作者: 九田
chapter 6
36/95

それぞれの最善

 

 振替伝票をすべて入力してしまうと、ちょうどお昼にいい頃合になった。

 パソコンをスリープに入れ、藤間功子(ふじま いさこ)は財布だけを持って席を立つ。ちょうどそのタイミングで、フィジカルコーチの高下が事務室を覗いた。


「あれ、藤間さん、今からお昼?」

「ええ」

「あー……よかったら、一緒に行かない? 旨い天麩羅の店があるんだけど」


 目を瞬き、功子はその提案を吟味する。食べたい気分だと回答が出たので、「いいですよ」とうなずいた。

 目に見えて表情をほころばせた高下と並んで廊下を歩いていて、ふと、功子は違和感に首を傾げた。


「そういえば、静かでしたね。今日は練習なくなったんですか?」

「いや、午前はミーティングになったんだ」


 苦笑を浮かべた高下は、見上げる功子に言った。


「結構みっちりやってたよ。午後練が大変だ」

「へえ……」


 サッカーのことはよくわからないが、白田が抜けてから緩んでいるような、同時にぴりぴりしているような妙な雰囲気があったのは気づいていた。トレーニングマッチの結果も芳しくなかったようだし、ここで梃入れをしようというのだろう。


「なんだか不思議」

「え?」

「いえ、去年全然勝てなかったチームには思えないから」

「……チームは生き物だからね。でも実際のとこ、僕も驚いてる。うまく行くときって、こういうものなんだな」


 坂を転げていく雪玉のようなものなのだろうかと考えて、転落はまずいだろうと思い直す。

 功子が自分の想像力の乏しさに少しばかり落ち込んでいると、高下が訊ねた。


「仕事、もう慣れた?」

「それなりに。まあ経理だから、どこでも大して変わらないかも」

「そんなことないよ。色々手伝ってくれてるだろ? 種村君とかすごく感謝してたよ。女神様だって」

「ああ、言われました」

「え、言ったんだ。……まったく、あいつは……悪気はないんだけどね」


 苦笑を浮かべた高下に、功子は思い出して付け加えた。


「褒め言葉として受け取ってるから。大丈夫」

「……そっか。なら、いいんだ」


 ほっとしたように微笑まれたので、うなずいて返した。

 いい人だとしみじみ思う。生まれついての鉄面皮のおかげで人付き合いが苦手な功子を、この同僚――といっていいのかはよくわからないが――は、何かと気遣ってくれるのだ。言葉の足りない功子に、さりげなく言葉を付け加えてくれることもしばしばあって、職場の居心地のよさは、半分くらいこの青年に由来しているように思える。


 あともうひとつの要因を思い浮かべて、功子はふと呟いた。


「社長はどうなんだろう」

「え? 社長?」

「彼女もまだ半年経ってないんでしょう。なんだか誰も心配してない感じがするけど」

「……言われてみれば、そうだな」


 腕を組んだ高下が、眉根を寄せて唸った。


「何ていうのか……そう、違和感がないんだ。おかしいよな、僕より一回り以上年下なんだけど、結構それを忘れてる」

「労働基準法には引っかかってないんだっけ」

「え? えーと……いや、それ確か十五歳くらいだったと……」

「そう。なら大丈夫なのかな」

「た、多分? なんでそこに食いつくの」

「前の職場で労基から注意を受けたことがあって」

「ええ!? ど、どんな職場!?」


 また言い方を間違えたらしい。

 以前の仕事のことをぽつぽつと話しながら、功子は隙なく微笑む上司の顔を思い返していた。








 親会社との会議から帰ってきた眞咲は、書類ケースを抱えてため息を飲み込んだ。

 最近、少し疲れすぎている気がする。そろそろちゃんと休むべきだろう。


 日本代表選手の輩出も観客動員の増加も、親会社である中国電工には、実際のところ歓迎されていないのだ。本社こそ鳥取にあるものの、本社の事業は地元への依存は薄い。元が社のサッカー部だったことから地域貢献を目的にプロ化されたもので、宣伝効果がそのまま売り上げにつながる業種ではないのだ。

 清算予定のクラブが派手に目立ってしまえば、手を引くときの印象が悪くなる。

 売却先が見つかるならともかく、鳥取という地方のクラブでそれは難しい。


 そもそもが、親会社である中国電工自体が、業績悪化のため経営の見直しに入っているところなのだ。それは、眞咲が日本で最初に手がける仕事が、ガイナスになった理由でもある。


(……それにしても、まさか本腰を入れてスポーツビジネスをやることになるとは……去年の今頃は思ってもいなかったわね)


 もしもっと準備期間があったなら、うまく立ち回ることもできただろうか。

 ――考えても仕方がない。そもそも根本的な原因は、経験のなさというよりも、自分の未熟さだ。


 再びため息をかみ殺したとき、日が傾き始めたグラウンドに、人の影がいくつもあることに気づいた。

 この時間帯なら、もう午後の練習は終わっているはずだ。選手が自主トレでもしているのだろう。


 ハーフコートで3対3をやっていた選手が、不意にボールを受け損ねて足を止めた。


「ちょい待ち、トラ、なんでそこでこっち?」

「だからー、こっちにこうスペース作って、で、今重(イマ)さんがこう動いたらラインにギャップできるし」

「でもこっちのが距離ないだろ」

「頭使って走るってこういうことでしょ。崩すならこっち」

「あー、監督の……」


 途切れ途切れに聞こえてくる言葉は、眞咲にはよく意味のわからないものだ。それでも、真剣さと集中は感じられた。


 ものすごく不本意だと顔に出して謝ってきた姿を思い出し、眞咲は小さく肩をすくめた。

 一足飛びに何かを変えられるはずはない。

 それでも少しずつ変化は積み重なっていくものだと、今は信じて続けるしかないだろう。


(差し入れでもしようかしら。一応、頑張ってることだし……)


 何にしようかと考えていた眞咲は、ふと、あまり性質のよくない笑みをこぼした。








 掛川が選手寮で気に入っているのは、そこそこ広い風呂だ。

 元は中国電工の独身寮だったという建物は、銭湯ほどではないが数をはけるようになっていて、手足を思う存分伸ばせる。実家もマンションだった掛川には、古さに目をつむることができる程度に満足度が高い。

 疲労を湯で落として、掛川は胃を押さえながら寮の階段を上った。

 まだ微妙に気持ちが悪い。何が原因かはわかりすぎるほどわかりきっている。社長の差し入れだ。


 何しろ自主トレの場にふらりと現れた美人社長、色めき立つ選手たちにものすごく晴れやかな笑顔で差し入れたのだ――またしてもプロテインを。

 何の嫌がらせだと掛川は思う。まごうことなく嫌がらせだったのだろう。わざわざ不味いメーカーを選んでばっちり牛乳まで用意してきたのだから、あれは絶対にわざとだ。おかげでまだ胃が気持ち悪いような気がする。ついでのようにもらったバナナ程度では、到底ごまかしようがない。


(……あんの、クソ社長……っ)


 内心で吐き散らした悪態も、風呂に入ってしまえば半分以上眠気に溶けていた。


 こんなに根を詰めて自主トレをするのは、プロ一年目以来かもしれない。ただでさえJ2のスケジュールはハードだ。乳酸が溜まった手足はぐったりと重い。半分眠りながら部屋に戻ると、その直後に扉が開いた。

 ふらふらしながら入ってきた白田は、ボストンバッグを肩に掛けたそのまま、ばったりとベッドに倒れた。

 構ってくれと言わんばかりの派手な倒れ方に、掛川は面倒になりながらも一応声をかけた。


「風呂行け、死体」

「……無理、マジ溺死する……」

「知るか。だいたい、予定だと帰るの明日だろ。なんで無理に帰ってきてんだよ」


 返事はなかった。いつにない暗さに、掛川は眉根を寄せる。


「何。うざいんだけど」

「……シャレになんねーレベルに場違いだった……速ぇーし強ぇーしミスしねーし……全っ然ついてけねえ……」


 うつぶせに倒れたままの白田の顔は見えない。白田からも、掛川の表情はわからない。

 ほっとしている自分に気づいて、胸が悪くなった。

 ――安堵したのだ。白田が躓いたということに。

 嫉妬と羨望、不安に焦燥、そんな自分への嫌悪感。入り交じりすぎた感情に喉を掻きむしりたくなる。

 今回のキャンプは練習試合しか組まれていなかった。国際Aマッチではないからキャップ数にはならない。――まだ、追いつけないほど先を行かれているわけではない。


 そんな感情を振り切るように、倒れ伏す白田を蹴飛ばした。


「……っで! いてーな、蹴るか普通!」

「ジメジメジメジメうるせーよ。呼ばれたのが奇跡ってだけだろ、まだ全然先があんだよ、へこんでる暇あったら無駄にでかいトラップ直せ下手くそ」

「うっわ優しさのやの字もねぇ!」

「ねぇよ。相手して欲しけりゃ新屋さんとこでも行けば」

「嬉々としてイジられるわ! せめてそこはトモさんだろ!?」

「知るか。イジられろ」


 腹筋だけで起きあがった白田が、ベッドの上に胡座をかいて、盛大なため息を吐いた。

 ひとしきり言い合って、少しは浮上したらしい。


「……うし、切り替えだ切り替え。代表呼ばれなきゃウチの試合出れるしそっちに集中!」

「だから阿呆だろ、お前。トゥーロン呼ばれてるくせに」

「あ」


 間近に迫る、U-23日本代表のトゥーロン国際大会。

 十日にわたる海外遠征を本気で忘れていたらしい白田に、もう一度蹴飛ばしたい気分になった。

 おまけに例年と日程が違い、J2のリーグ戦は過酷な連戦の時期だ。

 指先が冷たくなるような感覚に苛立ちを覚え、掛川は唇を結んだ。


「何日だっけ、あれ。なっげーよな……」

「じゃあ辞退でもなんでもしろよ」

「無理。社長がキレる」


 認容されればそうしたいのかと怒鳴りたくなって、ぶつけそうになった言葉を飲み込んだ。


「なあ」


 思いのほか強い呼びかけに、掛川は顔を上げた。

 ベッドに胡座をかいた白田が、睨むような視線を向けていた。


「俺がいないから勝てないなんて、絶対言わせんなよ」

「……当然だろ」

「で、めちゃくちゃ活躍して永渕監督の目ぇこじあけてやれ」

「はあ?」


 突拍子もない言葉に怪訝な顔で返すと、白田は大まじめに言った。


「だってお前が選ばれないの、ぜってーおかしいって。お前がいるかいないかでぜんぜん攻撃力変わるし。絶対俺が楽できる。お前が好き嫌い言わせないくらい活躍したら、呼ばないわけにいかねーだろ?」


 あきれるほど自己中心的で前向きな思考回路だ。

 それでも、白田のまっすぐな評価はどこか感情を浮き立たせる。もしかして発破をかけられているんだろうかという思いがちらりと頭をよぎったが、隅に追いやった。

 U-23が不協和音を奏でているのは試合を見ればわかる。停滞と閉塞間の漂うプレーに時間を費やし、後半残り少なくなって2トップにひたすらロングボールを放り込んでなんとか点を取るという本末転倒な試合を続けているのだ。

 それでも監督が、一度は見切りをつけた掛川を召集するにいたるとなれば――掛川が活躍するだけでは足りない。五輪という最終目標までに、チームが相当に追いつめられていなければ無理だろう。

 浅く息を吐いて、白田に胡乱な目を向けた。


「……わかった。じゃあ速攻負けて帰ってこい」

「できるか!」

 

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