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アンダードッグ  作者: 九田
chapter 6
35/95

衝突と精神年齢と必要なこと

 

 ふと目が覚めて枕元の携帯電話を見ると、時計は表示されたアラームの時刻をとうに過ぎていた。

 掛川はあわてて跳ね起きる。血の気の引く感覚に、思わず頭を抱えた。


(さ……最っ悪……!)


 午前の練習が終わった後、すっかり寝すごしてしまったらしい。

 確か今日は、地域貢献活動だか何だかで予定があったはずだ。今から急いでも到底間に合わない。

 なお悪いのは、これが初めてではないということだ。つい先月も盛大に遅刻して思い切り叱られたのだから、周囲の反応は目に見えている。

 うなだれた頭を抱え込んだまま、掛川は長々と息を吐いた。


 どうせ選手は何人か行く予定だったのだ。一人抜けても大した影響はないだろうが、ペナルティは避けられない。憂鬱な気分で体を起こした。

 風邪を引いたとでも言おうかとちらりと思ったが、すぐにばれる嘘だと諦める。ばれたときの事を考えると、下手な手にしか思えなかった。


 日本代表合宿に呼ばれた白田が不在の中、クラブは認知度向上に攻勢をかけている。とりあえず手当たり次第に選手を送り込んでアピールさせるその手法は、ドサ回りを思わせて好きではない。どの程度効果があるのかも、掛川にはわからない。


(……なんかムカついてきた……なんで俺が、こんなこと)


 不満を言いかけたところにっこり笑顔で凄まれてすごすごと引き下がってしまったがために、今さら文句を蒸し返すこともできない。何を言われるかとうんざりしながら、クラブハウスに向かった。


 そして悪いできごとは、得てして続くものらしい。


 出くわしたら面倒だと思っていた相手にクラブハウスの廊下でばったりと出くわし、掛川は思わず足を竦ませた。

 げっ、という呻きを口の中に押し込められたのは不幸中の幸いだ。

 ガイナスの社長である眞咲萌は、掛川を見て、はっきり柳眉をひそめた。


 きっちりまとめたシニョン、淡い色合いの落ち着いたスーツ。すらりと伸びた足には光沢のあるエナメルの靴。年下にはとても見えない。いかにも仕事のできる女といった出で立ちが、掛川を引け腰にした。

 じりっと一歩後ろに右足を下げ、素早いターンで来た道を戻ろうとする。


「待ちなさい!」

「ぐっ」


 逃げ切るには距離が近かった。

 ジャージの後ろ身ごろを掴んだ眞咲は、一分の隙もない笑顔を浮かべ、冷え冷えとした声で掛川の背中に訊ねた。


「……どうしてあなたがここにいるのかしら。確か今日は、予定があったはずよ?」

「……伸びるんだけど」

「逃げるからでしょう。さあ答えなさい、どうしてここにいるの。二回目は誰も庇ってくれないわよ」


 淡々とした物言いがのしかかる。

 一回目はすっかり忘れていたところを呼び出されて叱られた。今回は寝過ごしただけだが、言えば呆れたため息が返ってくるだけだろう。


「どういうつもりなの? ファンサービスも仕事の一環よ。軽く見ているなら考えを改めて」

「……ファンサならコンディション次第じゃないスか」

「じゃあ言い換えるわ。営業活動よ。うちが生き残るためには、試合に勝つだけじゃ駄目なの。説明したはずよ。週一の数時間がコンディションに深刻な影響を与えるとは思えない」


 怒りを込めながらも論理的な言葉が、神経をささくれ立たせる。

 苛立ちにまかせて睨みつけても、見上げる彼女の目は揺るがない。


「……選手経験もないあんたに、なにがわかるんだよ」

「強化部にも確認の上でスケジュールは組んでるわ」

「っ……あんた、今の状況わかってるのか!? 大学生に負けかけてんだよ! こんなことやってる暇ないだろ!」


 突然の怒声に眞咲が息を呑む。振り払われた手が宙を掻いた。


「俺らの仕事はサッカーやることなんだよ! なんでこんなことでいちいち時間取られてんだよ、客集めるのはあんたの仕事だろ!」


 廊下に、痛いほどの沈黙が落ちる。

 目を丸くした眞咲は幼く見えたが、それはすぐに、険しい色に取って代わられた。


「話をすり替えないで。不満があるなら聞くわ。だけど、今あなたは言える立場じゃない」


 その色に呑まれて、掛川は後ずさる。

 ――言ってやった。

 言ってしまった。

 胸をせり上がる感情は、鉛を飲んだような後悔だった。使い切った威勢が縮こまる。耐えきれずに、その場を逃げ出した。


「トラ! いつまでも部外者だなんて思わないで! あなたも……」


 ――あなたも、ガイナスの一人なのだと。

 最後の言葉は届かない。

 掛川が追われるように走り去った廊下の先を見送り、眞咲はうなだれて吐息を落とした。

 表情を隠すように、左手に顔を埋める。


「……失敗した……」

「いーや、逃げたトラのが悪いね」


 唐突な声に、眞咲はびくりと肩を強ばらせた。

 一拍おいてしかめ顔で振り返れば、新屋が当然のような顔をしてそこに立っている。大きな図体で、わざわざ気配を消して近づいてきたらしい。


「……新屋さん、堂々と立ち聞きですか」

「つっても廊下だしなー? ま、トラの方は監督が行ってくれたからさ。大丈夫大丈夫」


 話を聞いていたなら、あの食えない監督のことだ。うまくフォローしてくれるだろう。

 ぽんぽんと子供扱いに頭を叩かれ、眞咲は心底から嫌そうな顔でその手を押しのけた。


「やめてください。ものすごく腹立たしいです」

「そりゃ失敬」


 飄々と肩をすくめて笑い、新屋は両手をジャージのポケットに突っ込んだ。


「青いねぇ、きざっちゃんもトラも」


 その通りだと思ったので、顔をしかめても反論はしなかった。

 眞咲は目を伏せ、細く息を吐く。

 不満が出てきたときは、本当であれば好機として扱うべきだ。逃がしてしまうような持って行き方をしてしまったのは失敗だった。


「……反省します。きちんと説明したつもりだったけど……結局、押しつけになっていたんだわ」

「トラの奴、今本気で余裕ねぇしさ。悪く思わないでやってな」

「ええ……ただ、少し他人事のようなスタンスが気になって」


 彼にとって、ガイナスはあくまで「出向先」なのだろう。

 苦々しい思いで言った眞咲に、新屋は顎を撫でた。


「そうでもないと思うけどねぇ。レンタルだろうが何だろうが、今いるチームに全力傾けられなきゃプロじゃない」

「……え?」

「そりゃ、シロみたくガイナスに入れ込んじゃいないだろうけどな。あいつなりに、どうやったらうまく行くのか必死になってんだよ。それがきざっちゃんの望む方向とずれてるだけ。……ま、いまどき球だけ蹴ってりゃいいクラブなんてほとんどないけどな? その辺あいつもお坊ちゃんだよな」


 宥めるように笑い、新屋は眞咲の細い背を叩く。

 眞咲はため息を吐いた。


「……わかりました。それより新屋さん、呼び方とスキンシップを控えてください。そろそろ怒りますから」

「きざっちゃん冷たい! せっかく俺がナイスなアドバイスをしたってのに!」

「罰金制にしようかしら。鼠算で」

「キャー! 暴君! 暴君がここにッ!」


 言論の自由がどうのという的外れな主張を聞き流しながら、眞咲は掛川が入るはずだった班の担当スタッフへ電話連絡を入れた。

 不満を抱いているのは掛川だけではないだろう。もう一度、丁寧に説得する必要がある。スケジュールを頭に浮かべながら、眞咲はふと口元を緩めた。


 あからさまに茶化す新屋とのやりとりに、沈んでいた気分が少しだけ浮上したことは、言うつもりはない。

 心の中でだけ、こっそり感謝しておくことにした。


 


 


 


 


「あら、もう帰るんですか?」


 ひだまりのようなおっとりした声に、掛川はのろのろと顔を上げた。

 選手内で密かに菩薩モードと呼ばれている方の声だ。もちろん逆は般若モードだが、それを聞いても別に怒りそうにないのがこの監督のつかみ所のなさだった。


 クラブハウスの裏口で待ち構えていた椛島に、掛川は思わず顔を引きつらせる。

 偶然とは思えない。さっきの話を聞いていたのだとすれば、迂回して出て行こうとしたことまで読まれていたのだろう。

 来た道を引き返すこともできないでいると、椛島がにこにこした笑顔のまま、掛川を促した。


「ちょうど良いわ。ちょっと付き合ってくださいね、トラ」


 有無を言わせず連れて行かれたのは、モニターのある会議室だった。

 座るよう促されて、掛川は唇を曲げたままパイプ椅子に腰を落とす。その間に用意されたモニターに、流している途中だったらしい試合の映像が映った。

 ぎくりと身を強張らせる。――先日の大学チームとのトレーニングマッチだ。

 しなるような叱咤を思い出して嫌な気分になっていると、リモコンを握って映像を巻き戻していた椛島が、再生ボタンを押した。


「ここです」


 画面の中で、MFの有海が反応しなかった掛川のパスが、ぽっかりと空いたスペースに転がる。敵のDFがそのボールを広い、絶好のカウンターになった。


「トラ、ここでこのパスを選んだのはなぜですか?」

「なんでって……有海(アリ)さんにはDFついてたし、三輪さんが上がってるの見えたから、中に切り込んでくれれば……」

「そうですか。では、これは?」


 再び椛島がDVDの再生場面を変える。何度か続くそれにもそもそと答えていくと、やがて、椛島が笑みを消して振り返った。


「……何か、間違ってるんスか」


 うなずかれたなら反発しただろう。身構えて訊ねた掛川に、椛島は首を振った。


「いいえ。アイデアは悪くありません。けれどボールは繋がらなかった……さて、どうしてだと思いますか?」

「……なんでって」


 受けられない、こちらの意図を感じられない相手が悪い。

 とっさに口をついて出そうになった本音は、だが正解ではないというのだろう。

 この試合で、掛川は久々にトップ下のポジションでプレーした。戻るための絶好のチャンスだったのだ。だというのに、ろくにアピールできなかったどころか途中で代えられた。原因が気持ちを切らした自分にあると解っていても、鬱屈が溜まる。

 掛川の沈黙にそれを察してか、椛島はゆったりと首を傾げた。


「トラ。あなたには才能があります。さんざん聞いてきたと思いますが、それは本当ですよ。だけど、足りないものがある――それもさんざん聞かされましたね?」

「……」

「運動量が足りないのは確かですが、それより深刻なのは意識の問題です。チャレンジすることはもちろん悪くないですよ。だけれど、トラ。あなたはボールを失ったとき、全力で自陣まで戻ってそれをカバーしたことがありますか?」


 椛島は、それを映像で確かめさせようとはしなかった。

 ただ、問い掛けるような、促すような目で、孫の年ほどの選手を見据える。


「あなたが受けるボールは、後ろの選手が必死に守ってつないできたボールなんです。あなたはそれを理解していない。理解していたとしても、それに応えようとしていない」


 掛川は唇を噛み締める。

 だったら、ぽんぽんと簡単にボールを放り込めばいいというのか。白田がいるならそれでもいい。だが白田がいなければ勝てないようなこのチームで、自分の色を殺してプレーすることなど耐えられなかった。

 苛立ちを言葉にしようとしない掛川に、椛島は苦い笑みを浮かべる。


「チャレンジを成功させるには、どうしたらいいと思いますか?」

「……え……」

「イメージは共有できなければただのミスです。頭の中のことは、話さなければ通じませんよ。あなたはすぐに諦めすぎです。きちんと食いついて、話をなさい」


 想像していたのとは逆の言葉に、掛川は目を張る。

 あら、と椛島は頬に手を当てた。


「そうそう、社長のことも同じですね」

「同じって……」

「あなたはまだ、『ごめんなさい』を言ってないでしょう? 怒られるのは当然ですよ」


 指摘されて、ようやく気づいた。

 今まで気づかなかったことが不思議なくらいだ。言われてみれば、一言も謝っていない。

 ぐったりとうなだれて息を吐いた掛川に、椛島はころころと笑い声を転ばせた。


「ちゃんと要求して、相手の話をお聞きなさい。まずはそこからです。どちらもね」

 

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