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アンダードッグ  作者: 九田
chapter 5
26/95

信じるもの

 


chapter 5――Late Feb, 2008


「わたしはわたしのベストを尽くすわ。彼らは、彼らのベストを尽くしてくれる。そう信じてる」

 


 

 

 ふと時計を見上げると、22時を回ったところだった。


 その時間が早いのか遅いのか、藤間功子(ふじまいさこ)はとっさに迷った。前の職場なら相当に早い時間帯だと考えただろうが、そもそもあれは例外だろう。開発部などは泊り込みも日常茶飯事だったのだから。


 さして意味を持たない思考に気付いて、功子はパソコンのキーボードから手を離した。凝り固まった首を回す。集中も途切れたことだし、そろそろ気分を切り替えるべきだろう。


 2月も下旬に入り、開幕の足音が近づいている。ガイナスのクラブハウスは、スタッフが連日遅くまで仕事を続けていた。社名変更で出てきた雑用も山になっており、やることはいくらでもある。まさに猫の手も借りたい状況だった。

 もっとも、功子は「猫の手」の側だ。

 経理として採用されたものの、功子から見れば仕事量はそう多くない。定時に帰ろうと思えば帰れるのだ。なぜ残っているのかと言えば、気が向いたからとしか言いようがない。


 経営危機という割に、社内の空気は悪くない。あの社長の努力によるものが大きいのだろう。部署の構成と人員配置を大幅に見直したにしては、スタッフの混乱が少ない。なかなかのマネージメント力だ。

 驚くほど若いが、社長としての手腕はそれを裏切るほどのものだった。悠然とした雰囲気で実はかなりの仕事量をこなしている。それでいてせかせかしているようには見えないから、天性の資質というよりは訓練の賜物なのだろう。おまけに本人は口にしないが、報酬はバイト並だ。


(まあ、働こうかなって気になるよね)


 やる気と能力のある人間の下で、苦境を乗り越えようとするのは悪くない。

 少しだけ、痛みにも似た懐かしさを覚える。


 インスタントのドリップコーヒーを入れていると、フィジカルコーチの高下が事務局に姿を見せた。


「高下さん、データ入力終わってます。確認お願いしますね」

「えっ、もう?」

「もうってほどじゃないかと……ああ、コーヒー飲みます? ついでに入れますけど」

「ああ……ありがとう。じゃあ、頼んでいいかな」


 なぜか苦笑された。

 同い年の同じ月生まれということを聞いて、なんとなく親近感をもっていたのだが、馴れ馴れしかっただろうか。


 湯気を立てるカップを受け取って、高下は嬉しそうに口をつけた。


「あー、あったまる」

「寒いですよね、今年」

「雪が少ないのは助かるけどな。せっかく開幕がホームなんだし」


 ――あ、口調、崩れた。

 疲れてくると、こんな風に気が抜けて面白い。内心でつぶやき、功子もコーヒーを口に含む。じんと熱が過ぎ去って、少しだけ嬉しさが残った。


「去年、すごい試合があってさ。大雪降って。サポーターも雪かき手伝ってくれたんだけど、試合の後半からめちゃくちゃ吹雪きはじめて……」

「雪でもやるんだ。人死にそうですね」

「相手キーパーが凍ってた。カラーボール初めて見たよ、俺」

「カラーボール?」


 功子は目を瞬いた。今のサッカーボールが白と黒ではないのだということもなかなか衝撃だったのだが、それ以上にカラフルなのだろうか。


「そう。オレンジの蛍光色。白っぽいと見えないから」

「……壮絶ですね」


 想像して、少しばかり慄いた。功子も出身は鳥取だが、大学からはずっと東京暮らしだったのだ。おそらく同じことが起きたら、雪かきだけで体力を使い切ってしまうだろう。

 コーヒーの水面を見つめて、うんうんと考え込んでいると、ふと沈黙が落ちていることに気付いた。

 顔を上げると、高下がいつも見せる苦笑を浮かべて、功子を見ていた。


「なんですか?」

「いや……申し訳ない。仕事、遅くまで手伝ってもらっちゃって」

「いえ。私から言い出したんですから」

「助かったけど、ごめん、甘えすぎだったかな」


 どうしてそんなに気を使われるのかがわからなくて、功子は眉根を寄せた。そういえば手伝いを申し出たときも、ひどく驚かれたのだ。

 ――そこで、はたと気付く。


「あの、私、怒ってませんから」

「え?」

「これ、地顔なんです。無愛想ですみません」

「あ……えーと、そうなんだ……?」


 高下が、困惑気味に頬を掻く。

 表情に乏しい顔は、不機嫌そうに見えるとしょっちゅう言われていた。それこそ子供の頃からそうだったし、高校でも大学でも馴染むまでにかなりの時間がかかったのだ。新しい環境は久しぶりすぎて、忘れていた。


 ――分かりにくい感情を読み取ってくれたのは、一人だけだった。


 感傷めいた痛みに視線を落としたとき、「失礼します」という遠慮がちな声が、ぎこちなくなった空気を緩ませた。

 振り返れば、コート姿の少女がおどおどと顔を覗かせていた。どこかで見たような、と功子は考えて、ようやく思い出す。採用面接の際に、アシスタントをしていた女の子だ。

 高下が軽く手を挙げた。


「理沙ちゃん。どうしたの、こんな遅くに」

「あ、えっと、塾の帰りで……あの、眞咲さ……じゃなくてっ、社長、見ませんでしたか?」

「あれ、さっきまで社長室にいたけど……」


 高下が事務局の奥を見るが、人の気配はない。

 すみません、となぜだか謝った理沙は、ふと不安そうに二人を見た。


「あの……何か、トラブルとか起きてるんですか?」

「え?」

「いや、そんなことないけど。なんで?」

「うあ! ごご、ごめんなさいっ、勘違いならいいんです! あの、藤間さん、なんだか落ち込んでるみたいだったから……! ごめんなさい、おじゃましました!」


 あわててまくしたて、彼女はぺこりと頭を下げて事務局を出て行った。

 高下は呆気に取られてそれを見送り、ややあって、功子を見た。


「えーと……落ち込んでるの?」

「……少し」


 素直に答えると、そっかあと後ろ頭を掻いて、高下は笑った。


「ごめん、分からなくて。手伝ってくれてありがとう」


 功子は目を丸くする。

 そこには遠慮じみたものはもうなくて、まっすぐに向けられた言葉がひどく、暖かいものに思えた。








「……どうしたの?」

「や、あの……ちょっと。居ても立っても、いられなかったって、いうか……」


 ぜいぜいと息を切らせる理沙に不思議そうな顔をして、眞咲は時計を見た。

 疲れの見える顔が、ちらりと眉をひそめる。


「ずいぶん遅い時間ね。女の子が出歩くのはどうかと思うわ」

「ま……眞咲さん、同い年じゃん……」

「一つ上よ。まあ、似たようなものだけど」

「え? そうなの? 初めて聞いた……」

「二年生に編入したら、周りが受験でしょう?」


 なるほどと思わず唸って、理沙はかじかんだ指を擦り合わせた。確かに来年の今頃は、とてもこんなことをしていられる状況じゃないだろう。


 会議室は、明日の出張の準備がもうすぐ片付こうとしていた。

 新しいユニフォームにフラッグ、ポスター、マスコミ向けの冊子。できたてばかりのそれらは、理沙には宝の山に見える。それらはすべて、明日のための――キックオフカンファレンスためのものだ。


 思わずじっと見入ってしまった理沙に、眞咲が苦笑して言った。


「それで、どうしたの? 塾の帰り?」

「あ、うん。弦さんから、これ預かって……」


 バッグから取り出したのは、保温瓶だ。

 その名前を聞いて、眞咲はますます苦笑いになる。


「食事については連絡したと思うんだけど……中身は何?」

「えっと、ジンジャーティーだって」

「……わざわざあなたを遣い走らせるものでもないわね。釘をさされたのかしら」

「へ?」


 最後は小声で聞こえなかった。

 きょとんとする理沙に、眞咲はため息を吐いて広報の青年を振り返った。


「種村さん、あとはお願いしていいですか? 帰りついでに彼女を送ります」

「大丈夫っすよー。むしろ早く休んでください。社長も若い女の子でしょ」

「……そう言われると休みたくなくなりますね」

「いやいや、意地張ってないで帰って風呂入って寝てくれないと。明日はプレスに写真撮られまくるんですから。クマとか作るのもどうなんです」


 予想しなかった展開に、理沙はあわてて首を振った。


「え!? えっと……! だ、大丈夫です、ちゃんと帰れます! あの、いつも、これくらいの時間だし……!」

「気にしない気にしない、むしろ休んでもらいたい」

「で、でも、あの、わざわざ……」

「このまま帰す方が心配だわ。少しかかるから、それを飲んでいて」


 双方から違う意味で、遠慮を却下された。

 両手に持った保温瓶に目を落とし、理沙は情けない顔で眉尻を下げる。

 眞咲はさっさとタクシーを呼んでしまっている。いまさら止めに入ることも出来ない。


 広報の男性が準備を終えて出てしまうと、急に部屋が静かになった気がした。

 理沙は湯気の立つジンジャーティーをカップに入れて、まず眞咲に差し出した。

 ありがとうと笑ってそれを受け取り、眞咲が目録に視線を落とす。

 温かいカップを両手で包んで、理沙はぽつんと呟いた。


「えっと……明日、キックオフカンファレンス、だね」


 今年から名称が変わったので、ちょっとうろ覚えに切り出した。

 そうね、と相槌を打った眞咲が、ふと理沙を見る。


「やっぱり、森脇さんも実感する? 始まるんだなって」

「え? あ、うん……どうだろ……みんな、そうなの?」

「そうみたいね。クラブとしては大きな行事だから」


 見に行けるものじゃないし、それほど意識はしていないような気がする。

 キャンプが始まったときの方が、もっと言えば開幕戦の方が、理沙にとっては印象が強い。


 始まるのだという言葉に、理沙はカップを握り締めた。

 急に動悸が高まってくる。高揚感というより、それは怖れに似た緊張だった。


「……大丈夫、だよね……? 今年は、違うもん……」

「大丈夫」


 きっぱりとした返事に、驚いて顔を上げた。

 眞咲は強い笑みを浮かべて、理沙を見返した。


「大丈夫よ。このクラブは、今年でなくなったりはしない。なくならせない」

「……うん」

「わたしはわたしのベストを尽くすわ。彼らは、彼らのベストを尽くしてくれる。そう信じてる」

「うん」


 きつく、唇を結んでうなずいた。

 ――勝ちたい。勝って欲しい。負けたくない。

 今までだってそうだった。だけど今は、去年よりもっと、色んな人がガイナスのために必死になっていることを知っている。

 勝負事だから、勝ちたいと思えば勝てるわけじゃない、努力したから絶対に勝てるなんて、そんな保証はどこにもない。


 それでも、期待する。あの熱狂を、地鳴りのような歓喜の渦を。


 忘れられないものがある。ずっと望んでいるものがある。

 きっとずっと、苦しい思いばかりしてきた。今、ガイナスは生き残るために必死になって、新しく生まれ変わろうとしている。


 努力が全部報われるわけじゃない。足掻いたところで結果がついてくるとは限らない。

 だけど、どうか。

 ――信じたい。信じさせて。


「私も……眞咲さんと、皆のこと、信じるよ」


 勇気を振り絞って伝えた言葉に、眞咲は目を丸くした。

 そして、くすぐったそうに表情を崩す。


「あなたのこともね」

 

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