チームの欠点と社長の無茶
パスコースを読んだ相手の10番が、中盤でボールを奪った。
顔を上げ、一瞬の判断。既に走りこんでいたSBへと大きなパスが通る。
カウンター。ガイナスのDFは戻りきれていない。
ひやりとしたとき、友藤が相手の前に上手く身体を入れた。危なげなくボールを取り返したキャプテンは、足が止まりかけているチームメイトに短い檄を飛ばす。
そこからロングボールを放り込むのが、去年までのスタイルだった。
今年はそれが大きく変わる。DFがボールを貰いに下がり、細かいパス回しから前線へボールを運ぶ。最終ラインからの組み立てと、追い越す動きでのチャンスメイク。それが新監督の選んだ戦術だ。
自陣のゴール前でボールを動かすわけだから、当たり前のようにリスクは高い。だが逆に、そのボールを取りにきた敵をうまくいなすことができれば、それはチャンスに繋がる。
ロングボールとショートパスでの持ち上がり。その二つを組み合わせることで、多彩な攻撃を見せることができる。――理論上は。
「意味なく回すな、前に運べ!」
ヘッドコーチの声に応えるように、ボールを受けた掛川がワンタッチでゴール前に入れる。一瞬で飛び出した白田が、滑り込むように低い弾道に合わせた。
ゴールネットが揺れる。
観客代わりの記者と僅かなサポーターが、わっと歓声を上げた。
「よしっ! ……だいぶ連携が出来てきましたね」
「そうねぇ。もう少し混乱があるかと思っていたけれど、みんな頑張っていますね」
コーチのガッツポーズに、椛島はうなずいて応じた。
これでようやく3点目だ。スコアは3-2。――大学生が相手であることを考慮すると、決して誉められたものではない。
攻撃にせよ守備にせよ、これまでとは大きくスタイルが変わる。極端な話、ほとんど全員が攻めて全員で守ることになるのだ。そこに必要なものは、体力はもちろん、状況に応じての判断力が欠かせない。
選手の混乱は、決して小さなものではなかっただろう。けれど、多くの選手は、それを必死になって埋めようとしていた。
全体を見れば、思ったよりは早く順応している。
だが、まだどうにも足りない。
「しかし、大学生に2点も取られるとは……」
「あらあら。問題はそこじゃありませんよ」
「えっ?」
目をみはるコーチに、椛島はにこにこと言った。
「大学生を相手に3点しか取れないだなんて、なんてふがいない。5点取れなかったら罰ゲームです」
そっちですかと言いたげにコーチが口を開閉させるが、やがて諦めたように額に手を当てた。
さすがにノーガードで戦うつもりはないにせよ、攻撃は最大の防御なんて言葉を冗談でも使おうと思うなら、この攻撃力はあまりに頼りない。形はそれなりに仕上がってきた。だが、いくら形が出来ても、ゴールを割れなければ意味がない。
そしてその原因の一つは、明らかにガイナスのエースにある。
トレーニングマッチも三試合目。そろそろ、荒療治が必要だろう。
「まったく……困ったものねぇ」
ぽつりとこぼした言葉は、晴れた空から降り始めた小雨にまぎれた。
石油ストーブで暖められた、こもった教室の空気が眠気を誘う。鳥取は変わらず深い雪の季節だ。暖流が煽る世界的にもめずらしい種類の寒さは格別で、うっかりすると身体の芯まで凍えそうになる。なによりまずは豪雪の見た目が寒々しい。
頬杖をついていた眞咲の頭が、がくりと落ちたところで、数学教師は呆れ声を投げた。
「起きろ眞咲ー。お疲れかー?」
「……忙しいです。疲れてます。すみません起きます……先生、年パス買ってください」
「居眠りしかけて営業!?」
「SS席で」
「しかも一番高い!」
ノリのいい教師が悲鳴をあげて、教室がどっと笑い声に包まれた。
眠たそうな眞咲の顔をうかがいながら、理沙は首を捻る。
(疲れてる……のは、疲れてるよね)
学校に時間を取られながら仕事をしているのだ。疲れていないはずがない。
だけど――やっぱり違和感が残るのは、理沙がほんの少しばかり、彼女の素を知っているからだろうか。
(……眞咲さんが人前で寝るなんて……そんな隙、見せるかなあ)
見せない、気がする。
あまりにも自然でうっかり受け流しそうになったけれど、だからこそやっぱり不自然だ。
ふと、眞咲が理沙の視線に気付いた。
ぱちぱちと瞬いた大きな目に、苦笑めいた色が浮かぶ。どきりとした理沙に、眞咲は人差し指を唇にあてて笑った。
反射的に頬が熱くなる。あわててこくこくと肯くと、眞咲は愉しそうに笑みを深めた。
(あ、あたりって、こと?)
うっかりどきどきしてしまった心臓を押さえながら、理沙は内心でひとりごちる。
驚くくらいのスムーズさで学校に溶け込んだ眞咲は、だがしかし、まともに終業時間まで学校にいることはまれだった。午前中で帰ってしまうこともままあって、少しだけ心配していたのだ。
反感を完全に持たれないことは無理だろうけれど、さすがに如才ない。
それでもやっぱり、限界と言うものはあるわけで。よほど疲れていなければこんな方法は取らなかったんじゃないだろうかと、理沙はチャイムを聞きながら考えた。
間延びした起立の声が終わると、眞咲はもう鞄に教科書を詰め始めている。後は6限目と講習だけ。おそらく仕事に向かうのだろう。
志奈子が眞咲の帰り支度に気付いて、苦笑いを浮かべた。
「眞咲さん、帰るの?」
「うん。今、ホント忙しくて。……今日は日付変わるまでには帰りたいかな……」
「うっわあ。そろそろクマできるんじゃない?」
「……回避できることを祈ってくれると嬉しい」
「あはは、了解。お疲れー」
笑う志奈子に笑顔で手を振って、眞咲は教室から出て行く。
一瞬迷ってから、理沙はその背を追った。
「ま……眞咲さんっ」
「え? ああ、森脇さん。どうしたの?」
「あの、忙しいの、わかるんだけど……ご飯、食べてね?」
ほんの僅かな沈黙。
細く目を眇めた眞咲は、小さく肩を竦めた。
「……さて。誰に吹き込まれたのか聞き出すべきかしら」
「えっ、あ、えっと……! その、怒らないで。心配してるんだよ」
「なるほど。寮長ではない方ね?」
「うあ」
鋭い指摘が間髪入れず返ってきた。
学校で素を出されると、どうにも戸惑ってしまう。おろおろと視線をさまよわせ、理沙は言葉を探した。
「そ、それもあるし……やっぱり私も、心配で」
「……え?」
「頑張ってるのわかるんだけど、あの、無理してるんじゃないかなって。眞咲さんが倒れちゃったら、それが一番大変だし……って、あ! やだ、忙しいのに引き止めちゃってるね! ごめん……!」
目を瞬いていた眞咲が、ふわりと表情を崩した。
苦笑めいた笑みを浮かべ、細く息を吐く。
「大丈夫。ちゃんと三食摂ってるわ。もう少し栄養にも気をつけるようにする。これでいい?」
「あ、う、うん……!」
理沙があわててうなずくと、彼女はくすくすと笑い声をこぼした。
「不思議だわ。あなたの黒幕あたりに言われたら、ものすごく反感を覚えるんだけど」
「え、えぇ?」
意味を問い掛ける前に、眞咲が腕時計に目をやった。
「そろそろ行かなきゃ。そうだ、バイトの話なんだけど、再来週の日曜日は空いてる?」
「あ……えっと、うん。大丈夫」
「面接をする予定だから、よろしくね」
「う。うー……わかりました……」
「ふふ。じゃあ、また明日」
観念した返事に楽しそうに笑って、眞咲は颯爽ときびすを返す。
ため息を吐いて、理沙は顔を上げた。
まっすぐな細い背中は、振り返らないで廊下を歩いていく。
(……やっぱり眞咲さん、仕事モードのほうが生き生きしてるよね)
内心でこぼして、理沙はなんとなく視線を落とす。
学校での彼女は、しっかり周りに馴染んでいるけれど――どこか窮屈に見えて、少しだけ寂しくなった。
ホテルと民宿の中間のような宿泊先に着いたそのタイミングで、携帯電話が着信を告げた。
「はいはーい、皆のアイドル広野さんでーす。……あれ、おーい、スルー? 冷たいよ種ちゃん……」
一切反応してもらえずに肩を落とし、広野は首裏を掻く。
いつものことと慣れた様子で、広報の青年は耳を貸さずに用件を告げた。
「うん、今着いたとこ。そっちはどう……え? 社長が? あー……困ったねぇ。うん、助かるのはそうなんだけど」
なんでも昼には顔を見せた現役高校生社長、営業から帰ってきた後はイヤーブックの製作にてんてこ舞いになっている広報部を恐ろしい速さと正確性で手伝っているらしい。
途中から混ざっても遜色なく仕事ができる辺り、さすがの優秀さだ。毎年徹夜続きの作業なので、人手が増えるのは助かるのだが――社長の仕事なんだろうかと考えると、どうも違うような気がする。
助かることは助かる。
だが、いい傾向とはいえないだろう。
「ん? うん、チャレンジカップの方も見てくるけど……え、そうなの? へー。はいはい、了解です」
通話を切り、広野は凝り固まった肩を動かした。電車に揺られながら仕事をしていたおかげで、目がしょぼしょぼする。
チェックインを済ませると、ロビーに椛島監督の姿を見つけた。なにやら思案げにパソコンの画面を見つめている監督に、広野は疲労を振り払って明るい声をかけた。
「監督、お疲れ様です」
「あら、広野君。はるばるご苦労様」
「昨日のトレーニングマッチですか?」
「そうですよ。もう焼いてありましたから、大森さんからもらってくださいね」
「ありがとうございます」
椛島の前に荷物と腰を降ろし、広野は身を乗り出した。
「どうです? 手応えのほうは」
「そうねえ」
小首をかしげ、椛島は顎に手を当てた。
「思ったほど守備は崩れていませんね。友藤はさすがに手堅いわ。上手くコントロールしてくれていますし、そのうち安定するでしょう。もうちょっと冒険心を出してくれたら面白いけれど」
「なるほど。掛川をボランチに回したそうですけど……大丈夫でした? ガス欠とか」
「うふふ。最初はぶーたれてましたけどね。しっかり最後まで走ってくれましたよ?」
「ええっ、あのトラが! ……あのー、何言ったんですか?」
「それは内緒です」
にこにこと椛島が応えたとき、貸切状態のホテルにフージの悲嘆が響いた。
「シロー! ヒドイヨ、ボクのおかしドコー!?」
「はあ!? 何の話だ、何の!」
「きのこの山なくナッタ! 大事に取っテタのに!」
「知るかそんなもん! なんで俺に来るんだよ!」
「ダッテ社長言ってタヨ、シロが食べ物とったッテ!」
「あれはあいつがろくなもん食ってねーから……って、おい! 菓子くらいで泣くなー!」
「食べ物のウラミはデッカイヨー!」
半泣きで白田に詰め寄るフージの背中を、選手の一人がトントンと叩いた。
「ン? ナニ越智。イマ忙しーヨ」
フージが振り返らずにパタパタと手を振る。
彼と同じ二種登録である越智 大は、ゆるやかに首を振った。
「……シロさんじゃない」
掠れた低音がぼそりと呟いた。
それだけで何か理解したらしい。勢いよく振り返ってまんまるに目をみはり、フージはがしっと越智の肩を掴んだ。
「ナナナンデ! びっくりシタヨ越智! ナンデボクのおかし食べてルノ!?」
「……体脂肪」
「キャー!! 絞るヨこれから――――!!」
「うっせぇよフージ! 寝れねーっての!」
少女のような悲鳴を上げてフージがきりきりと身を捻る。
どうやらもう寝ようとしていたらしい掛川がそこに乱入して、掴んできた枕をフージの顔面にフルスイングで投げつけた。
収集が着かなくなり始めた騒ぎに、広野は感心して笑った。
キャンプも七日目、そろそろ疲労が溜まっている頃だろうに。
「若い子は元気ですねえ」
「本当に」
しみじみとうなずいた監督が、ふと、掛川をなだめすかしている白田に声をかけた。
「ああ、そうだわ、シロ。明日のトレーニングマッチ、あなたはお休みです」
「……は?」
いきなりの宣言に、白田が固まる。
椛島はにっこりと笑顔を見せた。
「ちょっ……なんでっスか、監督!」
「それをよくお考えなさい。そうねぇ、ちょうど社長が来ますから、一緒に上から見ていてくださいな。せっかくいいスタジアムを使えることですしね」
「な」
明日の相手はJ1の甲府。格下のガイナスとしては間違いなく、スタメン候補であるメンバーを参加させるはずの試合だ。
その試合に出さないという宣言に、さすがに白田が顔色を失う。
パソコンを畳んで腰を上げ、椛島は穏やかに告げた。
「シロ。あなたは確かに、高校の頃よりもずっと上手い選手になりました。……けれど、その代わりに欠けてしまったものがある。それに気付かなければ、あなたは足踏みをしたままです。
よくお考えなさい。自分の、役割というものを」