祈りと期待
それは、二年前。理沙が中学生のときのことだ。
市立中のグラウンドは弟が通う小学校と共用で、部活の時間には野球部にサッカー部にソフト部に陸上部に、とひしめいているような状況だった。ただその日はテスト期間中だったので、基本的に部活はお休みのはずだったのだけれど。
そんな中でグラウンドを占領していたのが、サッカー部だった。
不思議に思ったのを覚えている。理沙の中学のサッカー部は、そんなに熱心ではなかったからだ。
(めずらしいなぁ……)
母から弟を歯医者に連行するよう指令を受けていた理沙は、グラウンドの端っこを歩きながら、なんとなくボールを目で追っていた。
人数は足りていないようだけれど、試合はやけに盛り上がっていた。
シュートに行った少年が足を滑らせて、見事なスライディングでゴールに突っ込む。置いてけぼりになったボールに、あちこちで笑い声が上がった。
(あ、もうっ、あそこ詰めればいいのに)
思わず駄目出しをしてしまう。けれど、多分それどころではないんだろう。ようやくボールをクリアしたDFまで、こらえきれないようにお腹を抱えて爆笑している。
テンションが上がりすぎで、もう何が何やら、という感じだ。
(……箸が転げてもおかしいって、こういうのだよね)
友達に聞かれたらまた年寄りくさいと言われそうなことを考えて、こっそり笑った。転げまわってる犬ころみたいだ。
ゴールの後ろを通りかかって、私服の部外者が混ざっているのに気付いた。背が高く、動きもずば抜けてレベルが違う。
OBかな、と首を傾げたとき、聞きなれたメロディがメールの着信を告げた。
グラウンドに気を取られながら携帯を開いて、理沙は思わず顔をしかめた。
《 ごめんリサ姉、リク逃げたぁ~ m(。≧Д≦。)m 》
お隣さんの女の子は、どうやら弟に撒かれてしまったらしい。変に勘のいい弟のことだ。なんとなくで異変を察知したのだろう。
(もおっ……陸のばか!)
悪態をついたものの、幼馴染は悪くない。
しょうがないよ、気にしないで――そう返信を打ったとき、切羽詰まった声が飛んだ。
「危ない!」
え、と顔を上げた瞬間、頭に衝撃が走った。
ボンという鈍い音。痛いというより脳味噌を揺さぶられたような感覚だ。
ふらついて、転ぶようにへたりこんだ理沙に、犯人があわてて駆け寄ってきた。
「うわ―――!! ちょ、ごめん、ごめんな! 大丈夫か!?」
理沙のすぐ傍に膝をついて、彼はくしゃくしゃと理沙の髪をかきまぜた。
優しい大きな手に、理沙の頭がさらにぐるぐると空回る。
家族以外の男の人に触れられることなんて、中学生になってからはほとんどないに等しかったのだ。どんな反応をしたらいいのかわからない。
(え、えっと、なにが、どうなって)
ボールがぶつかったんだと、理沙は混乱した頭で理解した。
そんなに痛くなかったから、たぶんループシュートがすっぽ抜けたんだろう。
「まったく。何やってるんだよ、白田」
「うるさい牧! だいたいお前がなあ!」
「大声出さない。ほら、相手は女の子なんだから。ほいほい触らないの」
「え? ……あ、悪い!」
あわてて手を離し、彼は心配そうに理沙の顔を覗き込む。
背が高いから遠目には大学生くらいにも見えたけれど、そこまで大人にはみえない。高校生だろうか。おおざっぱさが無神経に感じられないのは、彼の人のよさと――たぶん、みてくれのよさのせいだ。
「だ、だいじょうぶです。あの、ちょっとびっくりしただけで……」
「本当? 無理しなくていいよ?」
「ほんとです。あの、かまわず続けてください」
おずおずと切り出した理沙に、牧と呼ばれた少年が、きょとんと目を瞬いて白田を見る。
白田も似たような顔をして牧を見ていた。何か変なことを言ってしまっただろうかと不安になる。
気付けばサッカー部の部員が集まってきていた。そのうちの一人が、理沙を見て意外そうな声をかけてきた。
「あれ、森脇じゃん。大丈夫?」
「う、うん。平気……」
ゴールの裏を通ろうというのに、ボールを見ていなかった自分も悪いのだ。
クラスメイトに見られた恥ずかしさにあわてて立ち上がって、制服の砂を払った。早いところ立ち去った方がよさそうだ。
だがしかし、少年は顔を輝かせて理沙を引きとめた。
「あ! なあ森脇、今ヒマ?」
「え?」
「点つけて。俺も出たい」
「ええ!?」
「だいじょーぶ、簡単だから! 点入ったっぽかったらアレめくってくれればいいから!」
「で、でも」
「……うん、それがいいかもね」
思わぬところから合いの手が入り、理沙は驚いて牧を見た。
彼は物柔らかに笑い、膝に手をついて、理沙に目線の高さを合わせる。
「もしよかったら、ちょっと様子見て行きなよ。もし途中で気分が悪くなったりしたら、すぐ言ってくれればいいから」
「は、はあ……」
正直なところ、見ていきたい気分はある。
――試験勉強は気になるけれど、弟の逃亡で予定も空いたことだし。
とまどいながらうなずくと、クラスメイトが「よっしゃ!」と叫んでガッツポーズを作った。
遠慮しながらスコアボードの近くに行くと、顧問の先生が豪快に笑って言った。
「おー森脇。大丈夫か?」
「はぁ」
「しかしまあ、見事に当たったなぁ。すごかったぞ、こっちから見てて」
「……」
それはまあ、山なりに蹴り上げたボールの落下地点に頭があったというのは、めずらしいことかもしれないけれど。
もうちょっと、まじめに心配して欲しい。
がっくりと肩を落とした理沙は、再び始まったゲームに目を向けた。
「ってオイ! なんでお前そっち入ってんだよ!」
「いーじゃないすか先輩、ハンデっすよ、ハンデ」
「そうそう。何怒ってんすか、大人げねぇなー」
「プロなら8対12でも余裕っしょ」
「むしろ負けたらあれだろ、恥?」
「……んのヤロウ、無茶苦茶言いやがって……!」
白田がうめくが、後輩たちは笑って取り合わない。
さすがに無茶じゃないかと理沙も思ったが、始まってみると、意外にもなんとかボールが繋がっていた。
フォーメーションも戦術も、下手をするとポジションさえないようなゲーム。
土のグラウンドで繰り広げられる、わやくちゃなサッカーは、まるで子供の遊びのようで――それなのに、不思議なくらい、見ていてワクワクした。
その中心にいるのは、間違いなく、白田だった。
高校生としては、技術がそれほど群を抜いているわけじゃない。ただバランス感覚のよさと、ちょっと予測のつかない動きが目を引く。自然と、視線が釘付けになる。
結局、勝利を収めたのは白田たちのチームだったけれど、なぜだか白田と牧が全員にジュースをおごることになって、なりゆきで理沙もご相伴に預かった。
それは、たった一日のこと。
ガイナスに入るのが夢だったと言い切った彼はきっと、理沙の顔なんて覚えていないだろう。
それでも、忘れられない。そのときに抱いた感情を。
――この人ならきっと、という、確信のような、強い期待を。