彼女の狙い
――言いたいことを飲み込むのって、本当に疲れる。
胸中にこぼした言葉は、理沙の心底からの本音だった。
どうにか一日を乗り切ったという気分。四月のクラス替えまでは三ヶ月。まだ一日目だというのに、先が思いやられるったらない。
「ただいまぁ」
ぐったりしながら靴を脱いだ理沙は、リビングを覗いて顔をしかめた。
「こら、陸。寝そべってお菓子食べないの」
「んー……って、姉ちゃんおかえり!」
ソファの上でごろりと転がったかと思ったら、生意気盛りの弟が漫画を放り投げて身を起こした。
いつもなら最初の生返事だけで、顔も上げないのに。
驚いて目を瞬く理沙に、陸はソファで跳ねながらきらきらと期待のこもった目を向けてきた。
「なあなあ、シャチョーどうだった!?」
「え? ……あ、同じクラスだった」
「ちっがーう! そーじゃねーだろ、ちゃんとオレのこと売り込んでくれたかっつってんの」
コートを脱ぎかけていた理沙は、ぎょっとして弟を振り返った。
「ちょっ……何バカ言ってんの! そんな情けないこと言うなんて、そんな風に育てた覚えはないわよ!」
「えー? いいじゃんかよ、ちょっとくらい」
「陸! ほんとに怒るよ!」
「へーへー、スンマセンしたー」
陸は思い切りふてくされた顔で言い捨て、ポテトチップスの袋と漫画を掴んで二階に逃げていく。
引き止めて説教してやろうかという思いがちらりと頭をよぎったけれど、結局それはできないまま、理沙はため息を吐いて脱ぎかけのコートから腕を抜いた。
陸がちらりと見せた、怒ったような色。
図々しい言葉は、不安の裏返しだったのかもしれない。
陸はもうすぐ6年生になる。――ジュニアからジュニアユースに上がることができるのは、ほんの一握りの子だけだ。いくら弱小とはいえプロクラブ。簡単なことではない、決して。
自信家に見える弟だけれど、内面はかなり繊細だ。チームメイトや他の地域のライバルと自分を比べては勝ち負けを考えている。
絶対に上がるのだと思い込めるほど、あの子は強くない。
おまけに今は、クラブがこの先も残るのかどうかさえ不透明なのだ。ただでさえ不安なところをさらにぐらつかせられて、出てきた弱音だったのかもしれない。しれないけれど。
(まったく、だからって! 冗談でもコネなんて……!)
これはもう、なおさら転校生に近づけない。
乱暴にソファに腰を落として、理沙はクッションを抱き潰した。
(……しかもバレてるし。絶対あれ、サポーターだと思われてるし!)
正直なところ、理沙は自分をサポーターといえるとは思っていない。単なるファンだ。お年玉は毎年、ホーム観戦の年パスに使っているといったって、アウェーはもっぱらテレビ観戦。ホームだって私服で、レプリカユニフォームを着ていくなんてとんでもない。……持っていないとは言わないけれど。
けれど、クラブに対する愛着はむやみやたらに強いのだ。
関わるまいとしても、関わってしまうような気がする。
それでもって、状況によってはいろいろ口走ってしまうような気もする。
クッションに顎を埋め、理沙は深々とため息を吐いた。
(……ああもう、なんかもう、逃げたい……)
高校近くのコンビニエンスストアに着くと、車の中で待っていた広野がすぐに気付いて、笑顔を見せた。
自分でドアを開けて、眞咲は後部座席に腰を落ち着ける。
「ごめんなさい、遅くなって」
「いえいえ。大丈夫ですよ、十分間に合いますから」
にこにこと広野が応える。彼は別に眞咲の運転手などではないから、待たせたことを謝ったのだが。
時計を見ると、三時半を回っていた。余裕があるとはいえないが、先方に連絡を入れなくとも間に合うだろう。
シートにもたれて細く息を吐くと、広野が食えない笑顔のまま訊ねてきた。
「お疲れ様です。学校はどうでした?」
「……貸してくださった漫画が役に立ちました」
「え、びっくり。それは良かった」
目を丸くしてみせる広野に、眞咲は苦笑いで返す。
あいかわらず、どこまで本音なのかはかりかねる男だ。「アメリカとはだいぶ雰囲気ちがいますから」と言って少女漫画を押し付けてきたのだが、なかなかどうして参考になったのだから笑えてしまう。
「おおよそは予想していたのと似た感じかしら。まあ、滑り出しとしては上々だと思いたいけど……難しいのはこれからね」
「なかなか学校に行く時間も取れないでしょうしねぇ。異物とみなされたらアウトですから。厳しいかもですけど、まあ大丈夫ですよ、たぶん。ユースの選手もいますし、あちらさんも慣れてるのは慣れてると思いますし」
「男子生徒と女子生徒じゃ、環境条件が違うけどね」
「あー……よくいいますよね、それ。女の子は大変だなあ」
しみじみと言われて、眞咲は笑った。
口調とは裏腹に、受ける印象はさっぱり現実味がない。
「でも社長、なんだかごきげんじゃないですか。いいことありました?」
眞咲は目を瞬いて、ミラー越しに広野の顔を見た。
ささいな変化だと思うのだが、なんとなく手で覆った口元が、自然と笑みの形を作った。
いいことと言えるほどではない。だけど、面白いと思ったのは確かだ。
「……そうね。よさそうな子がいたわ」
「あ、それってもしかして、あれですか?」
「ええ」
うーん、高校生かぁと唸る広野の声を聞きながら、眞咲は窓の外に目をやった。