意地の張り合い
外はあっという間に雪景色になっていた。ぽつんぽつんと立つ街灯を受けて、見慣れた町並みがぼんやりと白く浮かび上がる。
白田はコートのポケットに両手を突っ込んで首を竦めた。寒さに白い息が浮かぶ。ひとまず雪がやんでいたことにほっとしながらクラブハウスまでたどり着くと、二階の入り口で眞咲が待っていた。
淡い色合いのスーツ姿は不思議なほどしっくりきていて、服に着られている感じがない。白田がクラブのスーツを着たときのほうがよっぽど七五三だ。
その違和感のなさが、今は余計に、落ち着かない気分を膨らませる。
「はい、これね?」
「サンキュ」
どうやら遅刻分はカウントしないでもらえたらしい。
差し出された携帯電話を受け取って、白田はどう切り出すか頭を悩ませた。
黙りこんだままの白田を見て、眞咲が首を傾げる。
「どうしたの?」
「連行命令が出た」
「……え?」
「あんたがマトモにメシ食ってねーから、連れて来いって、弦さんが」
きょとんと目を瞬いた眞咲が、わかりやすく眉根を寄せた。
「ちゃんと食事くらい摂ってるわ」
「何食ったんだよ」
「……デスクワーク従事者における一日の必要摂取カロリーが充足できるものを」
無駄に小難しい言い回しを頭の中で消化して、白田は顔をしかめた。
「それ、もしかしなくても出前ですらねぇだろ」
しまったとばかり眞咲が口をつぐむ。
それを見て、白田は盛大なため息を吐いた。
「あんた、そのうち倒れるぜ」
「倒れません。今に始まったことじゃないですから」
「あのなあ……いいから来いって。行って食って戻っても一時間かかんねーよ」
「いやです」
つーん、とばかり眞咲がそっぽを向いた。
さっきから丁寧語になっている。予想以上のかたくなさに、だんだん白田もいらついてきた。
「何がそんなに嫌なんだよ」
「……いやというより、行きたくないです」
「なんで」
喧嘩を売るような口調で切り返すと、そのまま沈黙が続いた。
眞咲は白田を見ようとしない。
「……それより、そろそろ門限じゃないんですか」
「社長」
再び、眞咲が唇を結ぶ。
憮然とした顔を睨み付けるように返事を待つと、やがて、自棄になったような呟きが落ちた。
「……すべるからです」
一瞬、意味がよくわからなかった。
白田はぽかんとして聞き返す。
「は?」
「雪が積もってるじゃないですか。わたしに運動神経なんてものはないんです。皆無です。歩いたら転びます。ぜったい、確信をもって断言できます」
――いや、そんなことに確信をもってどーする。
内心で突っ込んだ白田は、ようやく我に返って、後ろ頭を掻いた。忙しいだの何だの言うんだろうとは思っていたが、この理由は予想外だ。
「いや、滑らねぇだろ……1センチ積もってねーよ」
「甘く見ないでください、自分のことは自分が一番良く知ってます。だからもう、こういう日には外に出たくないんです。帰りはタクシーです」
「……じゃあタクシー呼んでやるから」
「何言ってるんですか、乗ってすぐ降りる距離ですよ。タクシー会社に迷惑です」
「まさにいま目の前で困ってる俺は無視か。つーかいいかげん敬語やめろ」
「とにかく、ご遠慮申し上げます。お気持ちだけいただきますから寮長にもよろしくお伝えください、ではまた明日」
「って待て待て待て、引っ込むな!」
あわてて扉を掴んで、靴の爪先をすべり込ませた。
まるきり押し売りみたいな状況だと自分で思うが、ここまで来て引くつもりにはなれない。
眞咲がぎょっとして白田を見上げた。
「なっ……何考えて……! これで怪我なんてしたら馬鹿以外の何でもないわよ!」
「あーわかった、いいからちょっと待て、落ち着け。要は滑らなきゃいいんだな?」
「あのね、どうでもいいでしょうそんなこと!」
噛み付く眞咲を片手でいなして、白田は携帯電話のアドレスから知り合いの番号を引っ張り出した。
「ちょっと、聞いて……」
「あ、ぐっさん? うん、俺。悪いんだけどさ、ちょっとだけ店開けてくんない? ――うん。うん、ありがと」
ぱたんと携帯電話を畳んで、白田はびしりと眞咲を指差した。
「15分待て。寒いから中で! でも締め出すなよ!」
「え、ちょっ」
止める暇もなく白田は階段を駆け下りていく。
眞咲はその場にしゃがみこんで、長すぎるため息を吐いた。
(……しまった、むきになりすぎた……)
どうも、調子が狂う。立ち上がる気力もなくて壁に背中をあてると、ひやりとした感触に寒さを思い出した。
笑顔で上手く言いくるめて追い返せばよかったのに、どうしてそれができなかったんだろう。
バランスの悪さは、そのまま自分の未熟さのような気がして、気分が塞いだ。
外を見れば、また雪が降り始めていた。ふわふわと舞い落ちる光景は室内にいれば綺麗だと思えるが、結果を考えると、これもまた気鬱の種になる。
(……まったく)
自嘲気味にひとりごちて腰を上げ、眞咲はスーツの裾を払った。
「おいおい白田ァ、なんだこんな時間に」
「悪い。ちょっと今意地張り合ってるとこでさ」
「はあ?」
晩酌の途中だったのだろう。腹を掻きながら赤ら顔を覗かせた靴屋の店主は、きょろきょろうろうろと店内を歩き回る白田の首根っこを掴んで引き止めた。
「よくわからんが、何探してんだ」
「前にトラが買ってったのあるだろ、滑らないやつ」
「ああ、あれな。今婆さん連中に人気だ。あの辺にあんだろ。サイズは?」
「あ、聞いてねえ」
「おいおい、お前なあ。サイズも知らねぇで靴買う馬鹿がいるか」
すっかり失念していた。
棚を開けた店主が、呆れ顔で振り返る。
「お前のじゃねえのか。誰のだよ」
「あー、うちの社長」
「お、あの子か。ならこないだ来たぞ」
「へ?」
「ポスター貼らせてくださいってな。商店街回って挨拶してったんだよ。……ま、そうだな、22ってとこだろ」
ひょいひょいと続けて靴を放られて、あわてて受け止めた。
「社長が来たって?」
「まあご近所だしな。悪い気はしねぇよ、母ちゃんはどうか知らねぇけどさ」
思わず呆れてしまったが、忙しいさなかに出歩いたわけだ。ポスター貼りだけが目的ではないだろうが――いよいよ、働きすぎだという気になる。
「サンキュ、ぐっさん。これもらってく」
「あ、おいこら、代金!」
「財布忘れた。ツケといて!」
「だあ、この野郎! タダじゃツケねぇぞ、えーと、あれだ! 開幕ゴール決めろよ!」
気の早い発破に拳を突き上げて応じ、白田は雪の降る道を急いで引き返した。
クラブハウスには十五分ギリギリにたどり着いた。
これからまた一悶着あるだろう。なにがなんでも説得してやるつもりで階段に足をかけた白田は、社長室の明かりが落ちているのを見てぎくりとした。
(おい、まさか帰ってねーよな……)
休んでくれる分には問題ないはずなのだが、もし完全に無視されたのだとしたら、さすがに落ち込む。
嫌な予感を振り払いながら一段飛ばしに階段を上ると、呆れた声が降って来た。
「……さすがにそれは、危ないと思うんだけど」
すっかり戸締りを終えた扉の前で、帰り支度を整えた眞咲が肩を竦めてみせる。
ほっとして、思わず本音が漏れた。
「なんだ、いたのか」
「置いて帰るほど薄情じゃないわよ」
苦笑して、彼女は小首を傾げた。
「諦めたわ。仕事する気になれなかったから、今日はもう休もうかと思って。あなたのことだから、やるって言ったらやってみせるような気がするし」
「……それ、イジメか?」
やるといってやれなかったことが、つい半月前にあったような気がするのだが。
眞咲はきょとんとした顔を見せたが、すぐに気付いたのだろう。可笑しそうに吹き出した。
「そうね。イジメじゃ何だから、意地悪ってことにしておこうかしら。ところで、それが打開策?」
「ん、ああ」
白田が抱えた包みを予想外に素直に受け取った眞咲は、中に入っていたスノーブーツに抵抗もなく足を通して、手すりを掴んだ。
手袋越しでもかなり冷たかったらしい。顔をしかめて、雪の上でそろそろと足を動かす。
「あ。ほんと、すべらない」
「だろ。去年トラがすげぇ盛大なコケ方してさ、ショック受けて引きこもりかけて。これが最終兵器だったんだよな」
思い出し笑いをした白田に複雑そうな顔をして、眞咲は革靴を紙袋に入れた。
「……転んだことがない人にはわからないでしょうけど、穴があったら入りたくなるわよ」
「穴がなけりゃ掘ってでも埋まりたいって?」
「まさにそれ。……いやだわ、こんな気持ち共有したくない」
心底からの眞咲の口ぶりに、白田は笑って手を差し出した。
「じゃ、行くか」
「…………」
目の前に差し出された手をまじまじと見つめて、眞咲は低い声で訊ねた。
「……何かしら。この手」
「何って、転ぶのが嫌なんだろ? 万全ってわけじゃねーし」
「つつしんでご遠慮申し上げます」
「なんで」
本気で不思議に思って訊ねると、眞咲が頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
「とりあえずもう少し想像してみて。仲良くお手手つないで歩いてるところを、何も知らない第三者が見たら、どう思うかしら?」
「……あー……いや、手ぇつなぐっつーより、支えるほうだろ」
「エスコートのお申し出はありがたいんだけど、フロントのトップが特定の選手と親しくしてるように思われるのはうまくないわ。……転びそうになったら遠慮なくしがみつかせてもらうから、いやじゃなかったら、つかず離れずで歩いてくれない?」
いくぶんやんわりとした拒絶は、意地ではないだけにひっくり返すのは難しそうだった。
言っていることは筋が通っているような気がするのだが、なんとなく、釈然としない気分になる。
「……選手は駄目ってんなら、広野さんとかは」
「別の意味で遠慮したいわね。ここぞとばかり、思い切り楽しまれそうだわ。……あ、もう門限過ぎてるじゃない。急がないと」
腕時計に目を落とし、眞咲が鞄と紙袋を持ち上げる。
それを彼女の手から取り上げながら、白田は自分でも理由のよくわからないため息を吐いた。